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2009年9月

2009年9月30日 (水)

単行本作業完了

先ほど全部の原稿を仕上げました。
最後は切り貼りという昔ながらの手法でコマを差し替えて完成。
あとは担当編集に手渡しするのみ。

「虚数霊」は旧版のエピソードを収録することもあり
手にとってもらうために必要なバリュを
ちゃんと付加しないといけないと思っていました。
なのでフラッパー誌連載分も含めて大幅な加筆・補筆をしてあります。
トーン処理の追加のみならず
演出的に必要と思われるシーンを膨らませる頁増もあれば、
多くのカットで表情を微修正してあります。
特に旧版の原稿はかなり手を入れて
現在のドラマと絵柄に齟齬がないようにしました。
(それでも差は残りますが)
旧版や今の連載を既読の方でも
新味をもって手にしてもらえると思っています。

今回、特に以前の原稿をいじっていて感じたのは
5、6年前の自分の絵が恐ろしくつたないということ。
線はガジガジにささくれて、表現の手前で格闘しているだけ、
表情も大雑把、キャラクターの造作も人体の理解不足から深みがない。
作業は補筆というより改稿に近いくらい殆どの人物の表情に手を入れて
線のタッチもいじることになりました。
もちろんまた数年して自分の絵を見たら
この「ヘタクソ感」を感じるのだろうけれど、
やっぱりこの5年、特にこの2年程度で随分上達したと思ったり。
会社で働くかたわら、
週末に野上武志さんの漫画のお手伝いをしていたことが大きな要因だと考えます。
「るあ」や「セラ重」、「蒼海」などこの数年の作品に関ってきた中で、
自分の描いたことのない題材や、
ペンの使い方への慣れ、技法の試行錯誤など、
自分独りで描いていた頃と比較にならないほど蓄積ができました。
そして社業に追われながらも、
絵を描く身体と感覚を失わずにいられたことです。
漫画家は絵を描かないと漫画の描き方を忘れる。
それは本当のことで、
旧版の「虚数霊」の1話ではその感覚にさいなまれましたが、
今回はその感覚がない。
それが証明だと思います。

漫画家として仕事をするに到る中で
友人達の厚意に本当に助けられました。
この場で深くお礼申し上げます。
ありがとうございました。

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2009年9月19日 (土)

「20世紀少年・最終章」を観てきた

映画は腑に落ちない印象が残る。
お話は1作2作目に比較して流れが単純にして緩慢。
伏線の回収に終始してしまうのは致し方ないのか。
構成がそう悪いとは感じないし、まぁそれなりに話は結ばれる。
でもドラマの終番って、ストーリーにも情緒的にも
もっと勢いがあっていいはず。
カンナを細菌兵器を撒いたテロリストに仕立ててやるという
「ともだち」の発言があったとき、
その直前の万博会場には散布しないという示唆は
避難誘導を行うだろうカンナへの罠だと思ったのだけど、
結局はなにも絡まないから、拍子抜け。
エピローグで、
ともだちランドの施設によって過去の記憶を再現した電脳世界に入るのも、
実際、現実にはなんら反映されない仮想世界ゆえ、
ケンヂの自責の念を晴らすだけの自己満足な行動でしかない。
他の誰も幸せにはしていない。「ともだち」を現実には救っていない。
雰囲気に騙されてはいけない。
3部作の大作映画として展開してきた大河ドラマのクローズにしては
自分勝手で、どうにも矮小化した印象が残る。
1時間のアメリカTVドラマのような感覚の構成。
浦沢+長崎の「PLUTO」のラストにあったクマのシーケンスのような
蛇足感とこけおどしな安っぽさが残る。
もしかしたら日本のドラマ作りって
大河物語の作り方を忘れてしまったのではないだろうか。

CGの使い方もなぜか安っぽい珍妙なカット作りが目立って興ざめ。
北海道から画面が引いて、一旦地球を俯瞰し、
地球をぐるぐる回してから東京に降りるとか、
何か心理的に必要なシーンつなぎなのだろうか。
未来の東京を描写するために多用したCGマット合成や
鳥瞰的ショットもやはり珍妙なスピードを呈した絵になってしまう。
堤監督は「大帝の剣」でも同様の画面作りをしていたけれど、
これはもう失笑をかうためにやっているとしか思えない。
この悪ノリは1作目には無かったのに。なぜなんだろう。

そして僕は毎回指摘するけれど、
植物から見た季節感の異常さは今回も格別。
8月20日前後の話なのに、
セイタカアワダチソウの黄色い花とススキの穂が揺れているし、
ロボットが爆走する平地の草は皆、冬枯れている。
1作目は12月31日にイチョウの葉が青々と枝に揺れ、
2作目の3月中旬には4月半ばに芽吹くカエデの葉が茂っている。
全3作をいっぺんに撮影していたと聞くけれど、
映像から見える限り、ほぼ1年間近くの期間で撮影しているから、
季節に合わせて撮影はできたはず。
もう作為でなければ、よほど無思慮な仕事だとしか言えない。
もしかしたら日本人ってここまで季節感を失ってしまったのだろうか。
(映画って集団で作るのに)

それとケンヂの歌。
浦沢作詞作曲だというこの曲のなんとベタベタな四畳半フォークであることか。
どこがロックなんだ。
ニューミュージックにすら届かないこの鈍重さヤボさ。
この歌があるから、ケンヂの生き方がロックの魂に裏打ちされているなんて
絶対に信じられない。
これまで時代を担ったロックの名曲にはまるで届かない。
人の心を支え、ドラマをしめくくるほどに力のある歌に聴こえない。
浦沢直樹や、かわぐちかいじのように、
イイトシしてどうしようもないオヤジロックバンドやっている人の音楽って本当に嫌だ。
過去のバンドのコピーだったり、ぬるかったり。
っていうかロックを標榜し求めながら、力不足で成しえなかった連中の
見苦しい執着を、この期に押しつけてくれるな。プロの場に持ち込まないで欲しい。
カラオケでマイク握って話さない中年上司の醜態とどこが違うんだ。
せめて別の人、専業の作曲家に作って欲しかった。
僕の印象は、この歌が映画を台無しにしている。
ていうか「遠藤賢司」のパロディなのかなー。あーうー。

ああ、全然ほめていないね。
いや、一応楽しめる映画にはなっているとは思う。

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2009年9月 9日 (水)

「虚数霊」単行本新1巻は10月発売です。

拙著「虚数霊」のフラッパー誌での連載をまとめた単行本は
10月23日刊行予定で作業を進めています。
色々としたいことがあるため、
今月は連載を1回休みにしましたので
10月5日発売の月刊誌には掲載はありません。

したいことを簡単に述べれば、
連載時よりトーンワークを充実させる。
演出や画質的に劣るコマの差し替えをする。
ドラマを補完する意味でドラマを描き足す。
旧・幻冬舎版から転用する話のリファインを行う。
の4点です。
自分のワガママと言えばそうなのですが、
単行本に相応しい体裁を整えて
購入してくださる方のバリュを高めたいのです。

現在の進捗は担当との仕様の細かい確認を済ませ、
カバー画のカラーイラストを脱稿したところ。

担当編集さんからは、本屋を一緒に巡って、
今どきの書籍の傾向や気に入ったものを参考にして
カバー画の構想をまとめようという打診があり、
僕もそのつもりでいましたが、
打ち合わせの日程が諸事情で後ろへずれていったこともあって、
外出時に時間を見つけて先に一人で書店を眺ることに。
そうしたら、コミックスはどの絵もどの絵も
まぁ肌色成分の量とか、総花的な構図とか、暑苦しい読者視線とか、
誰かの権威を借りた推薦文の帯だとかばかりで、もう辟易。
外向きの力に満ちているようで、
これって「売れる」と思われるセオリーをなぞっただけの
極めて後ろ向きの保守的な行動だと思う。
出版社のフォーマットだけが左右しているのではない。
(小学館のようにフォーマットが酷い所もあるけれど)
絵自体に形骸化が著しいのです。
作家のほうも、こう言う絵が売れるんだろ、ウケるんだろ的な打算と姑息さが透ける、
浅はかな収斂をしているのが気になります。
売ってもいいから、ルーチンを壊して欲しいです。
恐ろしいのはその収斂された表現でしかものを考えられなくなること。
野心というものが、姑息というものにすり換えられた姿であり、
それすらも当事者達が気づいていないのではないかと思ってしまいます。
もちろん中には、作家性が発揮されたり、
試行錯誤を重ねた秀逸なものもあるけれど、
総じて「デザイン」が感じられない。
デザインというのは絵やその構図、レイアウトやエディトリアルだけではなくって、
作品のもつ意思というか志向を形にすること。
決してパーツを寄せ集めたパズルじゃない。
型を常勝のセオリーとして盲目的にトレスすることじゃないはずです。

「虚数霊」の旧・幻冬舎版の単行本の編集時、
先方のデザイナーの仕事に期待しようと、
僕の方はメインのビジュアルはレイヤーの活きた元データ、
それにいくつかの素材を渡しておくだけにしておきました。
しかし出来上がってきたデザイン案は不可思議なハイエンド系もどきで、
作品の内容や雰囲気とはおよそかけ離れた妙なもの。
こちらが何度かテーマ性や志向を伝えても、どうにもならない。
まるでパズルか「福笑い」の推敲結果が並ぶだけなのです。
それでデザイナーと自称する相手が
まったく作品を読んでいないで作業していることが判ってきました。
つまりデザイナーなんかじゃなかった。
その時点で、総てにダメだしをして、
大まかなカバーのデザインから帯のデザインと文書まで全部自分でやって、
細かいフィニッシュだけ工夫せよと
相手をオペレーターとしてのみ使役しました。

書店に並ぶコミックスの面構えは、あのときのデザインの欠落感を呼び覚まします。
そこで僕の方は、早々にコミックス売り場を後にして、CD店に移動をする。
以前に音楽をやっている友人のビジュアルデザインを手伝ったことがあるのですが、
CDジャケットの方が、よほどデザインというものが存在しているのを感じていたからです。
「よほど」と言うより「雲泥の差」だと思います。
音楽は漫画より厳しい競争におかれる市場であり、
音楽だけで生計をたてていける人間の数は国内に数千人しかいないと言われています。
それがルーチンに走らずデザイン性を有し続けているというのは
なぜなんだろうと思うけれど、業界も違うし良く解らない。
でもその努力と創意は尊いと感じます。

CDはサイズも小さくてコミックスのボリューム感と近いし、
実際、参考になるものが多い。
いくつか気になるエッセンスを備えたジャケットをメモに控えて、
家で適当なキーワードをもとに画像検索した中で気になった図などと合わせて
自分の作品イメージの触媒として絵を固めていきました。
それをラフにまとめて彩色を施して会議に臨んだ結果は、
実はすごく地味な構図なのだけれど、
絵における仕掛けが効果的に機能しそうとのことで、編集からOKをいただけました。
帯も推薦文などなく、コピー一本。
あとはMF社のデザイナーのまとめかたに期待してみたいと思っています。
僕は本当は支配的に仕事を進めるのは嫌い。
組んだ相手と切磋しながら創意と工夫を重ねて、
一人でやる仕事以上のものを生み出したいといつも思っています。
ここまでフラッパーでは良好に仕事ができているし、
単行本も好ましい仕上がりになることを願っています。

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2009年9月 5日 (土)

似すぎじゃないかな

昨日、打ち合わせで編集部まで赴く電車の中吊り広告に
今日、CX系で放送される「ジャングル大帝」の宣伝があった。

Jungle1_2
これを見ていて、どうにも嫌な印象がむくむくとしてくる。
これって昔の広告のパクリじゃないのか?
そういう疑念だ。
そこで家へ帰って1991年度の広告の資料を繰ったら、出てきた。
「週刊朝日百科・動物たちの地球」の中吊り広告だ。

Jungle2_2
イラストレーター・滝野晴夫さんの筆によるものだ。
氏は「地獄の黙示録」のポスターで世界的に高い評価を得ていて、
最近は「レッドクリフ」の日本版ポスターを手がけている。
見たところ動物の物量こそ違うけれど、
ライオンを中心に据えることや、左右反転させて見たりすると
パンジャとレオの配置も同じで(オリジナルには子ライオンが小さく描いてある)、
象やキリンの配置、ゴリラやサイ、インパラの位置や馬の頭数、
飛んでいるコンドルとオウムの空間配置、クロヒョウと虎の相似、ガゼルと水牛のポーズ。
「ジャングル大帝」の画像はwebのキャプチャーだけど、
実際の中吊りにはやはり反転した位置にゾウガメがいた。
皆そっくりだ。絵のイメージを盗んでいるようにしか思えない。
だれがパクったか知らないけれど、
もう20年近く前のものだから、判らないとでも思ったのだろうか。
今回のアニメって、手塚治虫生誕80周年、フジテレビ開局50周年の記念番組だというのに、
どんな了見なんだろう。
過去の創作物に敬意を払わないこの姿勢って矛盾してないだろうか。
どの面さげて周年行事なのか?
産経さまが朝日のパクリとは大恥だろうに。
恐らく、手塚側もフジ側も製作会社も意図はしていないだろう。
どこぞの輩がバレまいと模倣したのだ。
ただ、僕でさえピンとくるこのメインビジュアルの盗作に近い行為に
天下のCXの誰も気づかなかったのだろうか。
ただただ呆れるばかりである。

僕の気のせいなら善いんだけどね。

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2009年9月 2日 (水)

サマーウォーズ二回目

1日は映画の日ということもあり、
「サマーウォーズ」をおかわり(seconds)してみる。
場所はさいたま新都心のMOVIX。
平日なのに満席でびっくり。
でもこの映画が公開後1ヶ月たっても大入りなのは、素晴らしいことだ。
そして作品にとっても作り手にとっても幸せなことだ。
かくいう僕もこの作品の幸福でチャーミングな内容に心惹かれて、
二回目の足を運んでしまった。

初見に感じていた疑問や友人が示していたメタファーなどを確認する意味もあった。
発売されている設定資料冊子に目を通せば判るものもあるだろうけれど、
手に入れてないので仕方なし。
疑問のもっとも大きなものは、花札での決戦に集約される流れと、
そして中盤のヒロイン不在。
冒頭、花札で侘助に負けてしまう夏希が、
お祖母ちゃんに鍛えられたという家族の代表として立つに到る理由は、
やはりどこにもカバーされていない。
そして吉祥の(必勝の?)レアアイテムを授けるクジラの存在の唐突さ。
派手な衣装代えがアイテムなのかは、いささか雰囲気に押し切られていて、
微笑ましいノリでイエスと言えるけれど、
守り神(管理者?)たるクジラ、ジョンとヨーコの加担における動機付けはやはり弱い。
「God save OZ」とかデウス・エクス・マキナとしてもいささか唐突で、
ウルトラマンだって登場までにステップがあるのにという印象が残る。
彼らが管理を司りながら、しかし自らなんら攻撃的な手段で抗せず、
OZの管理棟解放へも能力的に助力できないないのは
やはりジョンとヨーコだからなのか。
一応、クジラは冒頭と花札戦以外に2箇所登場シーンがある。
ここにもうすこし工夫があれば良いのに。残念。

栄の表記が榮ではなく栄だったのは
なぜなのだろうと、ふと思う。
旧字体のほうが彼女の内なるものを表現できるのに。
それとも敢えて伏せたのかもしれない。
友人が指摘していた栄が女教師だったという説は
カズマのいた納戸の書籍類の背表紙と装丁で確認ができた。
彼女が有能なコーチングの素養を発揮する様は、
単なる豪傑な武家の嫁で、相当の人脈を有するからだけではないのだ。
侘助や主人公・健二を含め、彼女の前では皆、子供の顔になってしまうのは
ビックマザーの慈愛というだけではない。
子供との向き合い方を心得た教師の懐のさせることなのだろう。

伊丹十三の「お葬式」という映画のパンフレットに
葬式とは集まった者が故人の穴を埋めあう中で、新たなる人間関係を形成する儀式である
というような主旨の解説があったように記憶している。
この映画ではその儀式がさらに弔い合戦という家族の大事になるがゆえ、
その力の大きさと結束の強さは、見事な結実をしていく。
本来は部外者であった健二も、
栄とふれあい、その喪失を味わい、一族の再形成の場に立ち会うことで
まぎれもない家族になっていく。
夏希は大家族の精神的背景をもった女性であり、
家族を守ろうと全力を出し切った男の姿だけでなく、
彼が自分の大切な背景である家族の一員の位置に立てるがゆえ、
心を解き、恋愛感情へと結び付けられるのだろう。
そのステップが要所要所にちゃんと積んであって、
とても見事だった。
「涙をとめて」と結んだ手からまた大泣きをするのは、
悲しみを共有できる人の手があるから、安心して泣け、そして泣き止むことができるのだ。
素晴らしいじゃないか。
エンドロールの中で劇中のショットではない1カットは
二人の気持ちの温かな将来を予感させる。
ただ中盤のヒロイン不在はやはり気になる。
もちろん真のヒロインは栄であるけれど、
ふっつりと物語から姿をけしていたかと思えば、
栄の遺書を発見したが、読むこともせずに
意味不明に広間へ走り、
栄から何も受け取らず仕舞いで、大叔母の万理子に手紙を託してしまう。
栄は夏希に自分の何かを重ねていたはずだ。
だから自分の浴衣を授けたはず。
(栄の浴衣という設定は漫画版にはある)
手紙を開封すれば手っ取り早かったけれど、それをしなかったのなら、
放心して再登場する前に、彼女のモノローグ的なシーンは必要だったように思う。
嘘への自責や浴衣や栄が自分を評した言葉などを反芻する時間だ。
それがあれば回答たる花札戦への意思に迫力が備わったのではないか。

この映画の画面設計や構図は
古い日本映画が有していた日本建築を写す手法を
しっかりと踏襲していて、とても懐かしく
そして効果的で素晴らしい。
僕も漫画で古い日本家屋を描いているので
余計にその配慮が伝わってくる。
画面に多用されるFOLLOWはその空間性を見事に映しているし、
さらには演技としての移動性と心理にも活用され、
TVアニメにはない、劇場アニメの格を知らしめる。
ただし、サイバースペースとしてのOZの空間感覚は妙に天地があって
浮遊感を欠くのだけど。

この映画通じて、僕がどうしても感情移入してしまうのは侘助だ。
妾腹として継子扱いされたかの描写はないけれど、
彼の存在を陣内家の中で無条件にイエスと言ってくれたのは、
栄だけだったのだろう。
栄への侘助の屈折した感謝と愛情は映画に丁寧に描かれている。
「がんばったんだよ、俺」と一瞬吐露する本音と交錯する栄の表情は、
僕にとってこの映画の一番涙を誘う場だった。
(そのあと、間接的な加担者としての報酬を語ったとたん怒りをかうのだけど)
僕は亡父から
「オマエは俺より劣ったダメな人間だ」という言葉を受けながら育った。
長男ながらも子供の頃にたいして構ってもらえてもいない。
僕が下手だからと呆れて、キャッチボールは人生で2回しかしてもらえず、
周囲からのイジメを嘆いても、父は知らぬ顔だった。
悪意ではなく、家族を含めた他人に興味のない人だった。友人も少なかった。
父から否定される無能で無様な自分を子供の僕は恥じて呪い続けた。
その僕を無条件に受け入れて愛情を注いでくれたのは
母方の祖父だった。
僕の人生はこの祖父に救われたと思っている。
孤独の果てに誰かに存在を肯定されることの重さを、
僕と侘助は共有しているように思えて重ねてしまうのだ。
僕が「赤毛のアン」のマシュウの死に何度も涙するのと同じ理由かな。

アラ探しをしているようだけれど、もっと見たい、もっと知りたいという欲求ゆえだ。
僕は胸をはってこの映画が大好きだと言える。
また何度でも観たい、大切な映画になった。
ソフト化を楽しみにしよう。

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