« コミケにて出会うこと思うこと | トップページ | 似すぎじゃないかな »

2009年9月 2日 (水)

サマーウォーズ二回目

1日は映画の日ということもあり、
「サマーウォーズ」をおかわり(seconds)してみる。
場所はさいたま新都心のMOVIX。
平日なのに満席でびっくり。
でもこの映画が公開後1ヶ月たっても大入りなのは、素晴らしいことだ。
そして作品にとっても作り手にとっても幸せなことだ。
かくいう僕もこの作品の幸福でチャーミングな内容に心惹かれて、
二回目の足を運んでしまった。

初見に感じていた疑問や友人が示していたメタファーなどを確認する意味もあった。
発売されている設定資料冊子に目を通せば判るものもあるだろうけれど、
手に入れてないので仕方なし。
疑問のもっとも大きなものは、花札での決戦に集約される流れと、
そして中盤のヒロイン不在。
冒頭、花札で侘助に負けてしまう夏希が、
お祖母ちゃんに鍛えられたという家族の代表として立つに到る理由は、
やはりどこにもカバーされていない。
そして吉祥の(必勝の?)レアアイテムを授けるクジラの存在の唐突さ。
派手な衣装代えがアイテムなのかは、いささか雰囲気に押し切られていて、
微笑ましいノリでイエスと言えるけれど、
守り神(管理者?)たるクジラ、ジョンとヨーコの加担における動機付けはやはり弱い。
「God save OZ」とかデウス・エクス・マキナとしてもいささか唐突で、
ウルトラマンだって登場までにステップがあるのにという印象が残る。
彼らが管理を司りながら、しかし自らなんら攻撃的な手段で抗せず、
OZの管理棟解放へも能力的に助力できないないのは
やはりジョンとヨーコだからなのか。
一応、クジラは冒頭と花札戦以外に2箇所登場シーンがある。
ここにもうすこし工夫があれば良いのに。残念。

栄の表記が榮ではなく栄だったのは
なぜなのだろうと、ふと思う。
旧字体のほうが彼女の内なるものを表現できるのに。
それとも敢えて伏せたのかもしれない。
友人が指摘していた栄が女教師だったという説は
カズマのいた納戸の書籍類の背表紙と装丁で確認ができた。
彼女が有能なコーチングの素養を発揮する様は、
単なる豪傑な武家の嫁で、相当の人脈を有するからだけではないのだ。
侘助や主人公・健二を含め、彼女の前では皆、子供の顔になってしまうのは
ビックマザーの慈愛というだけではない。
子供との向き合い方を心得た教師の懐のさせることなのだろう。

伊丹十三の「お葬式」という映画のパンフレットに
葬式とは集まった者が故人の穴を埋めあう中で、新たなる人間関係を形成する儀式である
というような主旨の解説があったように記憶している。
この映画ではその儀式がさらに弔い合戦という家族の大事になるがゆえ、
その力の大きさと結束の強さは、見事な結実をしていく。
本来は部外者であった健二も、
栄とふれあい、その喪失を味わい、一族の再形成の場に立ち会うことで
まぎれもない家族になっていく。
夏希は大家族の精神的背景をもった女性であり、
家族を守ろうと全力を出し切った男の姿だけでなく、
彼が自分の大切な背景である家族の一員の位置に立てるがゆえ、
心を解き、恋愛感情へと結び付けられるのだろう。
そのステップが要所要所にちゃんと積んであって、
とても見事だった。
「涙をとめて」と結んだ手からまた大泣きをするのは、
悲しみを共有できる人の手があるから、安心して泣け、そして泣き止むことができるのだ。
素晴らしいじゃないか。
エンドロールの中で劇中のショットではない1カットは
二人の気持ちの温かな将来を予感させる。
ただ中盤のヒロイン不在はやはり気になる。
もちろん真のヒロインは栄であるけれど、
ふっつりと物語から姿をけしていたかと思えば、
栄の遺書を発見したが、読むこともせずに
意味不明に広間へ走り、
栄から何も受け取らず仕舞いで、大叔母の万理子に手紙を託してしまう。
栄は夏希に自分の何かを重ねていたはずだ。
だから自分の浴衣を授けたはず。
(栄の浴衣という設定は漫画版にはある)
手紙を開封すれば手っ取り早かったけれど、それをしなかったのなら、
放心して再登場する前に、彼女のモノローグ的なシーンは必要だったように思う。
嘘への自責や浴衣や栄が自分を評した言葉などを反芻する時間だ。
それがあれば回答たる花札戦への意思に迫力が備わったのではないか。

この映画の画面設計や構図は
古い日本映画が有していた日本建築を写す手法を
しっかりと踏襲していて、とても懐かしく
そして効果的で素晴らしい。
僕も漫画で古い日本家屋を描いているので
余計にその配慮が伝わってくる。
画面に多用されるFOLLOWはその空間性を見事に映しているし、
さらには演技としての移動性と心理にも活用され、
TVアニメにはない、劇場アニメの格を知らしめる。
ただし、サイバースペースとしてのOZの空間感覚は妙に天地があって
浮遊感を欠くのだけど。

この映画通じて、僕がどうしても感情移入してしまうのは侘助だ。
妾腹として継子扱いされたかの描写はないけれど、
彼の存在を陣内家の中で無条件にイエスと言ってくれたのは、
栄だけだったのだろう。
栄への侘助の屈折した感謝と愛情は映画に丁寧に描かれている。
「がんばったんだよ、俺」と一瞬吐露する本音と交錯する栄の表情は、
僕にとってこの映画の一番涙を誘う場だった。
(そのあと、間接的な加担者としての報酬を語ったとたん怒りをかうのだけど)
僕は亡父から
「オマエは俺より劣ったダメな人間だ」という言葉を受けながら育った。
長男ながらも子供の頃にたいして構ってもらえてもいない。
僕が下手だからと呆れて、キャッチボールは人生で2回しかしてもらえず、
周囲からのイジメを嘆いても、父は知らぬ顔だった。
悪意ではなく、家族を含めた他人に興味のない人だった。友人も少なかった。
父から否定される無能で無様な自分を子供の僕は恥じて呪い続けた。
その僕を無条件に受け入れて愛情を注いでくれたのは
母方の祖父だった。
僕の人生はこの祖父に救われたと思っている。
孤独の果てに誰かに存在を肯定されることの重さを、
僕と侘助は共有しているように思えて重ねてしまうのだ。
僕が「赤毛のアン」のマシュウの死に何度も涙するのと同じ理由かな。

アラ探しをしているようだけれど、もっと見たい、もっと知りたいという欲求ゆえだ。
僕は胸をはってこの映画が大好きだと言える。
また何度でも観たい、大切な映画になった。
ソフト化を楽しみにしよう。

|

« コミケにて出会うこと思うこと | トップページ | 似すぎじゃないかな »