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2009年9月19日 (土)

「20世紀少年・最終章」を観てきた

映画は腑に落ちない印象が残る。
お話は1作2作目に比較して流れが単純にして緩慢。
伏線の回収に終始してしまうのは致し方ないのか。
構成がそう悪いとは感じないし、まぁそれなりに話は結ばれる。
でもドラマの終番って、ストーリーにも情緒的にも
もっと勢いがあっていいはず。
カンナを細菌兵器を撒いたテロリストに仕立ててやるという
「ともだち」の発言があったとき、
その直前の万博会場には散布しないという示唆は
避難誘導を行うだろうカンナへの罠だと思ったのだけど、
結局はなにも絡まないから、拍子抜け。
エピローグで、
ともだちランドの施設によって過去の記憶を再現した電脳世界に入るのも、
実際、現実にはなんら反映されない仮想世界ゆえ、
ケンヂの自責の念を晴らすだけの自己満足な行動でしかない。
他の誰も幸せにはしていない。「ともだち」を現実には救っていない。
雰囲気に騙されてはいけない。
3部作の大作映画として展開してきた大河ドラマのクローズにしては
自分勝手で、どうにも矮小化した印象が残る。
1時間のアメリカTVドラマのような感覚の構成。
浦沢+長崎の「PLUTO」のラストにあったクマのシーケンスのような
蛇足感とこけおどしな安っぽさが残る。
もしかしたら日本のドラマ作りって
大河物語の作り方を忘れてしまったのではないだろうか。

CGの使い方もなぜか安っぽい珍妙なカット作りが目立って興ざめ。
北海道から画面が引いて、一旦地球を俯瞰し、
地球をぐるぐる回してから東京に降りるとか、
何か心理的に必要なシーンつなぎなのだろうか。
未来の東京を描写するために多用したCGマット合成や
鳥瞰的ショットもやはり珍妙なスピードを呈した絵になってしまう。
堤監督は「大帝の剣」でも同様の画面作りをしていたけれど、
これはもう失笑をかうためにやっているとしか思えない。
この悪ノリは1作目には無かったのに。なぜなんだろう。

そして僕は毎回指摘するけれど、
植物から見た季節感の異常さは今回も格別。
8月20日前後の話なのに、
セイタカアワダチソウの黄色い花とススキの穂が揺れているし、
ロボットが爆走する平地の草は皆、冬枯れている。
1作目は12月31日にイチョウの葉が青々と枝に揺れ、
2作目の3月中旬には4月半ばに芽吹くカエデの葉が茂っている。
全3作をいっぺんに撮影していたと聞くけれど、
映像から見える限り、ほぼ1年間近くの期間で撮影しているから、
季節に合わせて撮影はできたはず。
もう作為でなければ、よほど無思慮な仕事だとしか言えない。
もしかしたら日本人ってここまで季節感を失ってしまったのだろうか。
(映画って集団で作るのに)

それとケンヂの歌。
浦沢作詞作曲だというこの曲のなんとベタベタな四畳半フォークであることか。
どこがロックなんだ。
ニューミュージックにすら届かないこの鈍重さヤボさ。
この歌があるから、ケンヂの生き方がロックの魂に裏打ちされているなんて
絶対に信じられない。
これまで時代を担ったロックの名曲にはまるで届かない。
人の心を支え、ドラマをしめくくるほどに力のある歌に聴こえない。
浦沢直樹や、かわぐちかいじのように、
イイトシしてどうしようもないオヤジロックバンドやっている人の音楽って本当に嫌だ。
過去のバンドのコピーだったり、ぬるかったり。
っていうかロックを標榜し求めながら、力不足で成しえなかった連中の
見苦しい執着を、この期に押しつけてくれるな。プロの場に持ち込まないで欲しい。
カラオケでマイク握って話さない中年上司の醜態とどこが違うんだ。
せめて別の人、専業の作曲家に作って欲しかった。
僕の印象は、この歌が映画を台無しにしている。
ていうか「遠藤賢司」のパロディなのかなー。あーうー。

ああ、全然ほめていないね。
いや、一応楽しめる映画にはなっているとは思う。

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