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2009年11月

2009年11月19日 (木)

漫画絵を塗るということ 2

その2「東西の絵:東」

ここでまた前置き。
僕はまともな美術教育を受けたことがない。
大学は法学部だし、漫画なり絵なりは、まったくの独学である。
学校の美術の授業でも成績は極めて悪く、
高校では5段階評価で2。
あまりに美術の成績が悪く、
校内放送で名指しで教員室へ呼びつけられて叱咤されたこともある。
教師からは1だと恫喝されたが、
卒業に響くからと踏ん張って、お情けで2を貰っていた。
その人間が美術史に絡んだ話題を記すのだから
おこがましい上に誤認もあろう。
そこは予め割り引いてもらえたらありがたい。

漫画のカラー画がPC彩色の時代になって、
なんともお粗末な塗りに陥った漫画家の絵が
あちこちであからさまになってしまったことに困惑し、
なんとか打開策というか、その改善に糸口を見つけられないかという
ところからこの試論は始まっている。
そもそもは、僕の友人達にカラーが上手く塗れないと嘆く方がおり、
その問題がこのブラシ塗りに直結しているケースが多かったのが、思考のきっかけである。
今回は洋の東西における絵の思潮を踏まえて、
そこに今、漫画絵の塗りの現場で起きている流れと重ねて見たいというもの。

手塚治虫は「鳥獣戯画」を漫画のルーツだとNHKの美術番組で語ったりしていたが、
「伴大納言絵巻」などの絵巻物に見られるストーリー性と演出も
アニメや漫画の始祖として語られて良いであろうことは、
高畑勲がまた同じNHKの番組で語っている。
なのでどっちがどうでもいいのだが、
12世紀頃から日本は絵にそうした表現のスタイルを有し始めていたらしい。
飛鳥天平の時代から中国絵画の影響を長く受け、
日本の絵は、近代に向かって一定の方向性を強くしていく。

墨による輪郭線という形状の認識と表現。
前回も触れたけれど、濃淡の表現は残されていることもあるが、
基本的には墨一色で完結する線画表現に到達する。
筆の勢いや太さなどその表情で動静や方向性、存在感をかもし、
光源の位置やその強弱をも表す。
簡潔にして完結した世界。
日本の絵画の色彩表現が西欧に比較して鮮やかさに劣るのは
中緯度地域における太陽光の入射角から彩度が低くなること、
極東域にあるため東からの光線の青みの影響を受けること、
湿潤な気候による遠景の色の拡散が著しいこと、
そうした光の環境に左右される植物の植生と色、
そのような環境条件が、色よりも墨の濃淡に親和性を見出し、
この墨一色による方向に定まってきたと僕は考える。

パース法ではなく平面的に再構成される遠近と構図。
西欧の遠近法はパースを重視した幾何学遠近法(透視図法)が、
ルネサンス以降、近代に主流になってくる。
現代の漫画はこの遠近法を基本的には踏襲しているわけだけれど、
そもそも日本絵画の系譜ではパース法は重きを置かれない。
物体の重なりや大小、俯瞰における上下で表現される程度で、
幾何学的合理性がなくとも、配置により脳で補完するという、
見る人に期待した表現法が幅を利かせていた。
なぜこのような収斂をしたのかは、不勉強で解らないけれど、
日本の風景は人口構造物が少ないし、起伏が多いし、遠くはぼやけるし、
画題そのものが、人物や花鳥など近接したモチーフが多いこと、
余白に意味を見出す精神性もあろう。
そして絵巻のような鳥瞰の視点に、
事物への超然と均衡を維持して物語ろうとしたりするから、
パースに意味をあまり見出さなかったのだろうか。
もうこの延長には「洛中洛外図」みたいなのがあるわけで、
上下の遠近性のお約束を除くと、
遠きも近きも同じ角度、同じ大きさ、同じ密度、
おまけに建築はティルトかけたxyzの投影図さながらマッピングされている。
日本の絵の構図は実景よりもその対象への心理的な近さに左右されている気がする。

筆記具の容易さと画題の自由度からの大衆化。
これも不勉強ではあるが、
西欧に比べて、墨と筆という筆記具の簡易性、携帯性、簡便性は目覚しく、
また、絵画において宗教的な画題制限も課せられなかったから、
日本の方が、西欧よりも民衆に近いところに絵を描くという行為が存在したのではなかろうか。
版木による大部数の印刷が可能になった段階でそれは爆発的に大衆化し、
かの浮世絵と黄表紙などに到達する。
師宣、広重、歌麿、写楽、北斎、国芳らを見るにつけ、
この時代の絵画はリアルを志向しつつも形状の省略と誇張を進め、
画題も極めて生活に密着し、心理表現も獲得している。
まさに漫画の絵画的な基礎はここに固まったといえると思う。

ただ江戸期の浮世絵の表現をピークと捉えるのは若干の誤りがある。
媒体としての隆盛も、業界の人口数も確かに江戸期が頂点だけれど、
絵画的な模索は、西欧画の流入の始まった明治期から大正に向かって、
浮世絵の衰退に抗うように、野心的で技巧的な思潮が生まれる。
河鍋暁斎、月岡芳年が浮世絵の最期の華ならば、
そこから大正へと流れる「新版画」の運動がそれに当たる。
川瀬巴水や橋口五葉、吉田博などが白眉と言えよう。
僕はここに漫画絵への彩色における大きなヒントの一つがあると考えている。

[つづく]

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2009年11月18日 (水)

漫画絵を塗るということ 1

その1「違和感」

まず最初に断っておかないといけないのは、
「僕自身、カラー画が下手である」という前提である。
以前、友人の皆河有伽からもきっぱりと言われているのだが、
なんとか取り繕っているけれど、僕にはそもそもカラーに才がないのだ。
経験や工夫でなんとかごまかせても、
それでは隠し切れないものがやはりあるし、
ヘタクソなりの強い個性でも絵にあればいいのに、それもない。
それは描いている自分が一番感じる。
色をこねくり回したあげくドドメ色になっていく過程を目の当たりにしているのだから。
絵具の色は重ねるほど混ぜるほど濁っていく。
自分には光がないのだ。
そのために、どうやったら上手なカラー画が描けるのか、
下手なりに他人様の絵を見ては考えるように努力してきた。
その見聞の中で気になってきたものが今回のお話になる。

漫画絵におけるカラー彩色にPCでの着彩が見られるようになってもう10年を過ぎ、
すでに珍しくないどころか主流になろうとしている。
そうした世の流れにある中で、
PC彩色を導入して、アナログのときよりも明らかに
カラー画が驚くほどみすぼらしくなった作家が頻出している。
絵具と筆による肉筆画よりも味わいがなくなったというようなレベルではなく、
稚拙で素人の描いたような著しい表現の減衰だ。
単純に言えばPhotoshopのブラシ塗りになって明らかに見劣りがしている。
メリハリのないぼやけた色と筆致が輪郭線の中で泳いでいて
それでいて絵具の拘束から解き放たれた勢いで
ビビッドでかつ重い色を調和性など考えずに用いてしまっていて
補色が乱立し気持ちの悪い状態に陥っている。
単純にPhotoshopの扱いに慣れていないと見ることもできよう。
もちろんそれも理由の一つではあろうけれど、
このブラシ塗りによる、タッチのない朦朧とした絵を描いてしまっている人を、
大勢見かけるのは、どうにも他に要因があると思う。
なぜならばそれは、所謂メジャー誌や週刊雑誌の作家さんとその系譜に属する人に
とても多いという印象があるからだ。
(検証はしてないのです。スミマセン)
このような絵を好しとする感受性が醸成される環境があるように思う。
もちろんこれは僕の主観であり、
僕の示す絵が好きだという人はいるであろうことは理解しているし、
好きならそれで良いのだ。

それでも、この状況がなんだろうと考えるとき、
古くは赤本漫画から、発行スパンの短い週刊漫画誌などにおいて
主に印刷上の便宜から求められてきた多色刷りの現状がまずあるのではないか。
赤本は黒と赤の2色(3色はあまり見かけたことないけど)で印刷して、
紙面の色彩表現を増すのだけれど、
製版で2色分解をすると(ダブルトーンではない)
かなり擬似カラーとしての印象を安価にできたこともあって
漫画誌ではフルカラー印刷のコストが下がるまではかなり用いられてきた。
その現場では、限られた時間で作品を制作する漫画家にも簡便さが求められ、
本来は主線と色の馴染みや配色のバランスなど手間と試行錯誤を要する彩色ではなく、
墨ベタとペン入れが済んだ原稿に朱と薄墨で陰影と色を付ける方法、
短時間でできる割り切りをしたこの二色での原稿がデフォルトになっていった。
日本には色彩の限られた人物水墨画の伝統もあるから、
そう大きな違和感は生まないのだけれど、
この漫画の彩色の方法は、
やがてフルカラーにおいてもそのままの発想で流用されるようになり、
ペン入れ原稿に彩色というルーチンが漫画家にとっても無頓着に出来上がっていく。
ここに大きな問題を内包したまま。
それはつまり、日本の漫画絵、特にペンの入った状態というのは
形状の省略と誇張ばかりではない、
色も光源も白黒のみで表現するべく削ぎ落とされた2値化がされた完成の状態であって、
そこに色の情報はすでに余計な要素でしかないということである。
スクリーントーンは薄墨の階調としてまだ許容される要素があるが、
色の表現する情報を加えてしまったら、明らかな「過多」なのである。
なかでも少年漫画はそこへの配慮を欠いたまま、
(少女漫画は独特の解決策を女性的な感受性の中で産んでいくのに)
2値の線と色の不和を、見慣れたあたりまえの絵として処理してしまってきた。
そして媒体にのって拡大再生産を生んでいるのが現代だ。
その経緯の中でも、絵描きとしての感受性が作用して
多くの先人が落としどころや妥協点を見出してきたが、
僕のようにカラーに対してのセンスの不足や配慮の足りない人は、ただ流されていく。
それでもアナログ肉筆における彩色の時は
筆やマーカーの筆致やにじみなどのタッチが補ってくれていたが、
PCでの彩色になって、無頓着にブラシ塗りで済ます人が増えたゆえに
この内包していた違和感が噴出したように考える。

そもそも真っ黒に塗って、しかも艶ベタまで入れた髪の毛のタッチと
ぼんやりとした表情の薄いブラシ塗りのタッチや階調で
素材を表現するものが混在しているなんて
明らかに違うものの同居でしょう。
整合性をとらないと絵として殺し合いになってしまう。
線から見た色の在り方、
色から見た線の在り方、
そこの発想に立って、彩色というものを考えていかないといけないはずなのに。

では、その打開策はあるのかということで、
西洋と日本の伝統的な絵画にヒントを求めていきたいと思う。

[つづく]

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2009年11月 6日 (金)

ガセなのか

昨日は朝から少しカゼ気味の予感。
また鼻炎からきた感じ。
外出するとタバコの煙や埃に見事に粘膜が刺激される。
それともよく耳にする「気圧の関係」ってものだろうか。
先日、病院で貰った処方薬を飲んでみるも、例によって意識がフラフラ。
ただそのお蔭か、とりあえず今日の体調はさほど悪くない。

虚数霊シナリオのための下調べ。
まったくもって使えそうな面白いネタに行き当たるが、どうにもおかしい。
webで検索すると、どこも全部同じ文章。
コピペだけで済ませている記載が多すぎる。
そして出典が定かではない。
文章中の固有名詞を日本語、アルファベット、関連項目で検索して
国内外をあたってもそれらしいものがまるで出てこない。
文中に記録が残されていると記されている博物館自体が存在していない様子。
誰かの作為によるガセネタの臭いがする。
というか都市伝説的な話題でも作りたいのだろうか、その思惑を考えると不愉快。

これでは使えない。
媒体に載る以上はその情報の信憑性はある程度は固めないとならない。
特に僕の漫画はフラッパー誌では一応ウンチク担当なので。

ネット検索をしていて辟易するのが
誰かの文章やwikiの記載をそのままコピペするようなものが多すぎる。
しかもさも自分が書いたかのように。
自分で複数の文献や情報を照会して、咀嚼して、 
自分の言葉で載せるような最低限の作法を持っていないのか。 
時折話題になる昨今の大学生のレポートや卒論がこんな感じなのだろうと想像してみる。

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