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2009年12月 2日 (水)

漫画絵を塗るということ 3

その3「東西の絵:西」

西洋画に線画はないのかと問えば、もちろん在る。
ただ、主流となる絵画はフレスコ、テンペラ、そして油彩へと連なる
強く濃密な塗りがその伝統と言えよう。
この描法の理念は、特にその到達点としての油絵を
19世紀末あたりの断面で見ていくと、以下のように受け取れる。

物体は色と面と光で立体として表現される。
つまり輪郭線で境界を示し同時に平面化するのではなく、ブロックや面で意識され、
自然の事物のように陰影や色でその差異を示すことで認識の境界を表す。
下絵の段階では線画でアタリを取りながらも、絵具を重ねるにつれ、
目標として完成スタイルは線を否定するところがユニーク。
近世絵画は肖像画としての存在価値が長かったこともあり
写真のように事物をありのままに写すことが大きな命題として存在し、
それをベースに技法が洗練されてきたためだろう。
(宗教画としての存在も長いけど)

複数の光源により多様な色面で事物の色彩が表現される。
近代絵画には特にこの傾向が見てとれる。
つまり1色で面を塗りきることはしない。
色は直射光や反射光など複数の光源の存在により
多様な色面をもって存在している。
これも同時に立体としての存在感を示す。

パースの遵守
僕の描くようななんちゃってパースと誇張で写実性を歪め
視覚表現を優先した絵ももちろんあるが、
基本は幾何学遠近法など種々の遠近法を意識した絵作りになっている。
幾何学的、数学的構造の美に神威を見出す宗教的伝統性もあろうし、
写実の正確さを重視するのも、肖像画の伝統に根ざす意識だろう。
ただし肖像画の場合、点光源で観る習慣が長く、
背景、特に風景は重視されない時期もあり、
画題が真の意味で戸外へ出るのは随分時間を要した。

画題の制限と階級化
教会などのパブリックスペースにおけるものを除けば
特に油絵などの絵画は裕福なパトロンの庇護の下に享受される。
ステイタスであり、高価なものであることが多く、
また画材の値段や簡便性、携帯性の問題から
大衆文化としての浸透はかなり遅くなったように思う。
そのために画題たるモチーフの大衆化、一般化が遅れ、
重ねて、宗教的な戒律とモラルのために制限されたこともあり
自由度も損なわれた期間が長かった。
例えば裸婦を描くためにはギリシア神話を題材に取らねば許されないとか、
宗教絵画には一定の法則や禁則、思想や教訓を満たすことを求められるとか、
一般大衆の生活を題材に選ぶことの困難とかである。
もちろん例外は存在し、自由な画題と精神性を獲得した作品はある。

そうした伝統に立脚した絵画の文化に
陶磁器の梱包材として古新聞のようにもたらされた日本の浮世絵が
相当の衝撃をもって受け留められたのは想像できよう。
驚天動地の異質な絵画文化がそこにあったのだから。
特に強く濃い線画と平板な色彩配置は大きな刺激を与え、
印象派のあけぼのに影響を強く及ぼすことになる。
ヨーロッパにおけるそれを「ジャポニズム」と呼ぶのは有名である。

ここから西洋絵画は日本の線と面の描法を吸収し始める。
もちろん同時期に日本でも西洋絵画の流入は始まり、
近代的な絵画教育もスタートする。
ここに線と色は互いの文化を背景にしつつ歩み寄りを始めるのだ。
色と面と光を主体に見た線画。
線と平面を主体に見た色と光。

それは現代に至る日本絵画の表現の変遷と獲得した描法の多様さをみれば
感じることができる。
そしてその表現の模索は、
まさに現代の漫画絵の彩色の状況と同じ思想と動きをはらんでいる。
この両方のスタンスでそれぞれ描かれている漫画絵のカラー画があることに
思いいたるはずだ。
ただし断っておかないといけないのは、
「その1」で触れた、
墨線の明瞭な処理の上にPhotoshopの安直なブラシ塗りをした絵は、
この歩み寄りの思想の外にある、
無思慮で安易なものであるということだ。
この出遅れた絵(と僕は思う)をなんとかするためには、
つまりこの東西の彩色の歩み寄りの界面の中に持っていけば良い。

そこで次回は具体的なイメージを提示してみたいと思う。

[つづく]

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