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2009年12月

2009年12月30日 (水)

ということでコミケのお知らせを改めて

現在開催まっさかりの冬のコミケットでありますが、
改めて参加のお知らせなど。

31日木曜日の東4ホール、ユ-07a
であります。

恥ずかしながら新刊はありません。
イワえもんが亡くなってから、心を入れ替え、なるべく新刊を出したいと考えてやってきましたが
連載の原稿に追われ、どうにもやりくりがつかず仕舞いでした。
夏には絶対新刊出します!とここで宣言しておきます。
今回はこの春に出した宇宙戦艦ヤマトの同人誌「YAMATO reactivate」と
既刊のヤマトのイラスト集を2種類持っていきます。
どれもそんなに在庫はもうないですが、
ウチのようなマイナーサークルはそんなに売れませんから
慌てずにお越しください。
開場前とスタート直後はお友達へ挨拶に廻っているかもしれませんが
11時以降はなるべくブースに座っております。

今回は自分で本を出しませんでしたが
友人の本には寄稿しております。
29日の「日本晴」はもう過ぎてしまいましたね。
そこには6P、漫画を描きましたよ!凄いですね僕。 やれば出来る子。
今回の御題はアニメ化目前の神野オキナさんの小説「あそびにいくヨ!」です。
サークルの代表様からは「どうしてこんな変な漫画が描けるんですか」とお褒め頂きました。
そんなオバカ漫画です。

31日には
松田未来さん(キ34a)と環望ちゃん(タ60b)、野上武志さん(ノ30a)の本にイラストを寄せました。
ぜひ覗いて見てください。
僕の絵よりはご本人の作品が凄いので、お得感が高いと思います。

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2009年12月24日 (木)

黒いLOHASとJ-WAVE

7、8年前からLOHAS(Lifestyles of Health and Sustainability ):ロハス
という響きの言葉をしばしば聞くようになった。
ああなんだかまたそういうエコロジー的な言葉を作り、ステイタスを与えて、
何か人を動かそうと仕組んでいる連中がいるんだろうなとは思っていた。
漫画家になり、また家庭のおかれた環境もあってTVの視聴時間が激減して、
日に1時間も観なくなり、ラジオで過ごす時間が圧倒的に増えた。
NACK5はAMの臭いがする番組が多く、
FM東京もそれに似たなれなれしさが鼻につくので、
もっぱらJ-WAVEとNHK-FMを聴いている。
その中で以前からどうにも気持ちの悪い印象がついてまわっていたのが、
J-WAVEの平日20:40からの「LOHAS TALK」だ。
雑誌「ソトコト」の編集長・小黒一三がインタビュー形式で
各界で活躍中のゲストからLOHASな思想を抽出するという企画番組。
だがどこか胡散臭く、粘着感のあるドロリした印象が伝わるのだ。
その気持ち悪さがどこから発生しているかというと、この小黒一三の言動。
インタビュー形式と記したが、そんな雰囲気では実はなく、
まるで盛り場のオヤジが絡んでくるような調子で番組は続く。
小黒のダミ声と、酔っているかのような笑い声に嫌悪感を禁じえないが、
それよりも酷いのは、
年下や女性のゲストには「アンタ」呼ばわりで親分気取り、
同年代やそこそこの活動家にはタメ口でなれなれしく、
そして年長者やビッグネームには媚びた言い回しだ。
立ち回りの狡猾さというか人品の卑しさが紛々と伝わってくる。
普通、ラジオパーソナリティは相手でころころ態度を変えたりしない。
その姿勢こそが番組の顔であり哲学であるからだ。
しかし小黒の、他人に対する当たり前の礼節を欠き、
パワーバランスへの邪な下心を感じさせる様は、
処世術とか生き方と称して、こずるく世渡りをする汚らしい大人、そのままじゃないか。
これが小黒の哲学なのかと思うと本当に気分が悪い。
で、漫画の資料集めの関係でwebで調べモノをしていたら、
ひょんなことでこのLOHASと小黒一三の関係をレポートした頁に行き当たった。
読んでみたら、真っ黒。
小黒というより大黒だった。
そのwebの内容を要約すると、

LOHASは98年にアメリカで作られたマーケティングの一般用語でありながら、
小黒一三の会社と三井物産が商標登録を日本で勝手にとって、
その言葉を使うごとに使用料金を徴収しようという
環境保護を謳う善人を気取った我利我利なビジネスだったのだ。
生活のスタイルを形作るビジョンや哲学ではなく、金儲けのための方便とネタということだ。
シャープが家電製品の小売店での宣伝に、この「ロハス」という文言を使用した際にも
早速に小黒と三井物産が警告を発したのは
彼ら曰く「100億円」の商標ビジネスを標榜しているがゆえの執着の表れだろう。
編集者としてヒット企画も生み、そこそこ名の知れた小黒一三だが、
その才覚は金の臭いを嗅ぎつける感覚に裏打ちされたもののような気がする。
だが、どうやらこの貪欲で汚らしい善人面に
消費者や企業からの批判、そして使用の敬遠を招き、
小黒の描いたロハスビジネスは商標使用料の徴収の断念・使用の解禁という結末になる。
詳しくは以下を参照。
「LOHASのウソと真実」 http://mscience.jp/nolohas.htm

環境への活動がすべて非商業性に基づけとは思わない。
逆にビジネスとしてキレイに回して、多くの人と社会に貢献できるシステムになることを望むけれど、
コレの場合はかなり独善独占的な利益誘導が見え見えで不潔極まりない。
彼は環境問題の周辺に関してその編集の仕事を通じて、多くの情報は知りえる立場にあろう。
それが彼の隠れ蓑でありつづけるだろうし、
恐らくはその清濁を併せ持ったまま生きるモンスターだ。
彼はきっとこの失敗のあとも環境ゴロか山師のように次の商売を模索し続けていくに違いあるまい。

だが解せないのはJ-WAVEがこの小黒と以前から結びつき、
いまだ「ロハス」名義の番組を二つも抱えている不思議だ。
J-WAVEは環境型発電による放送やエコキャンペンーンを積極的に展開している事情もあり、
その顔に「似た顔」を有する小黒とその会社のスポーンサードには
魅力があるのだろうか。
J-WAVEにはこの他にも
平日23:42からの「HAPPY BIRTHDAY FOR CHILDREN」という帯番組があるが、
これの提供は(財)日本ユニセフ協会。
あのアグネス=チャンが大使を務める、国連機関とは別組織の例の民間団体である。
番組は各界のアーチストが
世界の恵まれない環境の子供に誕生日の祝福とエールを送るというものだ。
表向きその番組趣旨に異論を唱える者はいないだろうが、
そこが児童ポルノの流布に異常に過激で教条的な行動を展開する狂信性を持っていることは
番組では知らされない。
つまり狂気を隠して善人性を宣伝する番組というわけだ。
この表現を圧殺せんとする姿勢を知ったら、
番組に出演するアーチストのはたしてどれだけが、この番組に協力するだろうか。
これもやはり小黒と同じ脈絡でスポンサーになっている感じがする。
僕自身は性的に未成熟な児童を相手にしたポルノは関係も興味もないし、
批判的ではあるのだけど、過激な規制はまったく賛同できない。
漫画の表現にも憶測や強迫観念からの予防意識で不必要な規制が増えるだろう。
フロイドほどではないが、
人間のフィジカルな面は年齢に関係なく性的なものであるし、
深層だろうが表層だろうがその心理的なものが、心を形作っている。
その滅殺は健全な人間性の喪失にもつながり兼ねないと思うからだ。

ああ、ただ思うのは
LOHASという言葉は小黒によって汚されたと思う。
彼がLOHASにまつわる言葉の90%以上の商標を持ち続ける限り
もう使いたくはない。
不景気の時って
こういう邪念や狂気を持った人間や組織が台頭しやすい気がするなぁ

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2009年12月23日 (水)

脱稿そして東へ

22日の午後に無事に連載の原稿を納めることができた。
年末進行の経験は編集者としてはあったのだけれど、
連載を抱えた漫画家としては初めてのことで、
なんとも時間との競争に身の細る思いだった。
ただ内容的にちょうど22頁で収まったこともあり、
それが幸いして比較的順調に作業が進行し、
編集部に過度なストレスを与えないで済んだ。
前中後編の三部作のエピソードの予定が
実はもう1話分挟まってしまったので、全4話構成になってしまった。
今回もますます会話劇に徹してしまって、
登場人物がちっとも部屋から出て行かない。
舞台の動性というか物語の進行と場面の展開をもっと上手に絡めるのも
自分的な課題として見えてきた。
ただ解決編になる次回は長崎や北海道稚内と舞台を移すし、
レナとサトルのぶつかり合いもあるから
動的にはなると思う。
ただまだバラバラなイメージのままなので、これから組み立てるんだけど。

原稿が上がったのが午後3時で、
それからすぐに床屋へ行って、風呂に入って、
貯まった新聞などに目を通して古紙としてまとめ、
そのまま池袋へ。
なんとか公開している「東のエデンⅠ:The King of Eden」を観るためだ。
席の確保をしてから、やっと今日初めての食事をする。
なんだか妙な勢いがついてしまって、
豚骨ラーメンを食べてから、まだ時間もあったので
ウェンディーズでチーズバーガークラシックダブル単品まで食べる。
(野菜が足りないので、あとで反省)

「東のエデン」はTVシリーズも欠かさず観ていて、
その続きが気になっていたから、楽しみにしていた。
productionI.Gの作品は
それまでなんだか一つの壁のような閉塞感が感じられていた。
例えばアニメートとして実際の人間に近い頭身でリアルよりの造作のキャラクターが
丁寧な動画で緻密に考えられた動きを見せる
ひとつの出来上がってしまったタガのような、スタイルのようなもの。
その閉塞から解放する術として
羽海野チカのキャラクターを用いたのは
漫画的な省略の中にこそ見出せる想像力に委ねる「間」というか、
自由度のようなものをもたらすことになり、
成功していると思う。
ドラマ自体も畳み込むような言葉の流入とアクションでねじ伏せるのではなく、
Girl meets Boyの心理描写が情緒的に必要な空間と舞台をこしらえるので、
その詩美的なシーンが中和剤として功を奏す。
で、今回の映画版もそうしたバランス感覚で巧みに物語は進行していくけれど、
なんとも物足りないものが幾つか印象に残った。
まずは尺が短い。
82分ってのはまるでテレビの特番のようじゃないか。
TVシリーズであれだけ時間を上手に使ってきたのだし、
映画という枠があるのなら2時間をかけて
回想や台詞で割愛したようなものの幾つかをきちんと語れたろう。
また、ヒロイン・咲の心理だって、未整理だったものがあったし、
今回のエピソードへの反応だって、あと一歩踏み込んで語られても良かったはず。
もったいない。

でもこの尺の問題は、資金面がどうだかは判らないけれど、
作画の乱れで、そうとうに厳しいスケジュールで作られたことが容易に見て取れる。
顔のUPの絵を除けば、どの絵もむずがゆさの感じる曖昧な絵が並ぶ。
まるで作画監督の手が入っていないかのように。
とにかく、引きの絵の下手さはTVシリーズより悪いくらい。(動いてはいるんだけど)
劇場版としての風格に欠ける。
おまけに後編の公開が1月9日から3月へと延期になったお詫びまで出る始末。
そうとうに厳しい日程なのだろう。

そして続編への引きはあんな中途半端なトーンのままで良かったのか。
再会を果たした咲と朗が本格的に向き合い、その気持ちを交わす場を与えないまま、
さて次回ってのは、本作があまりに淋しい内容にはならないか。
それなりに映画は楽しめはするけれど、
ちょっと気がかり。

だけど印象的でキレイなレイアウトがたくさんあって
見所の多い作品であることは変わりなし。
続編も観に行く気はまんまんだ。

さて、原稿があがっても
仕事が終わったわけではない。
web小説の「メギ曜日のハルカ」の後編のイメージイラストを描かないといけないし、
なにより来週の冬コミのため、友人達から依頼されいる原稿も描かないとならない。
ちなみに冬コミの僕の参加
31日木曜日の東4ホール、ユ-07a
今回はまた東館へ戻る。
新刊はないので、春に出した宇宙戦艦ヤマトのファンジンを持っていく。
残部はもうそう多くなく、今回も50部も持ち込まないから、
静かに細々とした参加になろう。
なにせ「宇宙戦艦ヤマト復活編」が公開になっていても、
公開当初で興行成績7位、翌週末の結果は10位以下という転落ぶりで、
見事に観衆の興味を得られなかったことを証明している。
以下は興行ランキング。
http://eiga.com/ranking/
筋の通った物語や演出というものがない、あの分裂気味の作品が
監督の西Pの引っ掻き回したせいだということが
認知されればそれはそれで善し。
というか今回の古代進の迷走と自己本位な判断や行動は
そのまま西Pの挙動に生き写しなのは笑えない感想。

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2009年12月12日 (土)

ヤマトの復活によせて

いよいよ今日から「宇宙戦艦ヤマト復活編」の公開だ。 
先行して試写会で観ているものの、 
前売券をその観賞後に購入し、劇場にも足を運ぶ意思である。 
ただそれがヤマトを観たいからなのか、 
自分の心に灯るヤマトの火に対しての義理立てのようなものなのか、 
判然としないのが正直な気持ちだ。 
どうやら劇場には僕のようなヤマト世代が列を作っている様子だけれど、 
同じ初日の「ONE PEACE」の方に動員の軍配は上がっているように見える。 
復活編の本当の成功は、ノスタルジーだけではない力をもってして、 
この世代のギャップを越えることだろう。 
僕は今回、ヤマトが復活を遂げたことには、 
嬉しさと、そして意義を感じている。 
作品の語るテーマと裏腹に、 
製作者の私利私欲と妄執によって、長い法廷闘争が行われ、 
日本のアニメの金字塔でありながら、 
再放送を含め各種媒体において疎遠にされ、 
その争いの醜さゆえに、ファンは恥じ入り、 
語ることへのタブー感が支配していた。 
その閉塞感をまがりなりにも打ち破り、 
ヤマトを未来につなげる作品がここに出来上がったということに、 
拍手を贈りたい気持ちに偽りはない。 

ただし、果たして今回のヤマトは、 
世代を越える力が備わった作品であるのか。 
結論は明らかに「否」であり。 
なにか大きな間違いが起こらない限り、支持はされないだろう。 
突っ込みどころの多い内容に、 
目くじらを立てるのは大人気ないところであろうけれど、 
その愚を冒すことを恐れずに、 
ネタバレはなるべく控えて感想を述べたいと思う。 

ストーリーは冒頭、人間ドラマが展開される予感をもって進み始める。 
古代と家族の確執や、古代自身のアイデンティティ、 
新しい乗組員たちの人間関係や成長、 
混成軍たる敵の心境。 
以前のヤマトはこうした人間ドラマの描写にいささか弱い面を、 
時代的な感受性や演出技術的に抱えていた。 
その後30年を経て培われた、日本のアニメの演出によって、 
そこに分け入ってくれる期待が高まる。 
しかし、1時間を越えた辺りで、そうしたものが 
どんどん放り投げられて、 
あるものは語られず、あるものは頓珍漢な解答を押し付けられ、 
あるものはお定まりなパターンにはめられて圧死していく。 
まさに悪い意味でのヤマト映画に成り下がる様を 
後半の1時間に石臼に挽かれる想いで見せつけられる。 
人柄もドラマも語る隙を与えられない人物が、 
突然、大上段に構えて死んでいく様のどこに感動をせよというのか。 
ブッラクホールが生命体であるという「ナレーション」での前フリが、 
どうしてまったく異なる結論へ結びつけられるのか。 
公私がぐちゃぐちゃで支離滅裂な判断と行動をする古代の 
どこに成長やリーダーの器があるのか。 
親子の融和を導く心理的な納得性がどれだけ語られたというのか。 
避難機の事故現場で我が娘のことしか目に入らず、 
他の生存者の可能性を考えもしない小さな男に地球を救えるのか。 
それが親子の絆だっていうのか。 
30年間なにをしてきたんだという敗北感に苛まれる。 

映像的には見るべきところはある。 
3DCGによるヤマト以下宇宙艦船は、 
2Dに馴染むシェードをかけられているのは、まぁ考え方なのでさておいて、 
その大きさや距離感を表現する演出がされていて、 
「艦」である存在感は満足がいくものだった。 
マクロスFのように巨大な船団がクルクル回り込んで動いてしまうような 
軽薄で幼稚な感覚などはない。 
これは恐らく、一連のシーンに関った羽原信義さんの功績なのだろうなと推測する。 
これまでの劇場版でもTVシリーズでも、十分に描写できなかった 
宇宙艦隊戦をしっかり繰り広げるのは圧巻で、 
(CGで獲得できたものであろうけど) 
ファンとしてはやっぱりアンドロメダの拡散波動砲には胸躍ってしまう。 
ブルーノアを繰る古代の緒戦も見所だ。 
種々の艦船デザインや艦載機のマーキングなど細かい部分は 
副監督・小林誠さんの仕事が光る。 
(この辺りは氏の著した「ハイパーウェポン」に網羅されている) 
なかなかにあなどれない。 
だけれども、この努力がある反面、 
キャラクター造形や描写は惨憺たるものである。 
湖川氏のデザインは一見いつものリアル志向でありながら、 
イデオンの時のような表情の豊かさは消え、 
造作のバリエーションに貧困でキャラの判別しづらく、 
なにより画面での演技に乏しい。 
顔も身体もその表現が硬く、絵としてなにも伝わってこない。 
また回想シーンとして 
完結編の画像を挿入させ、 
宇田川キャラと湖川キャラとの不気味な違和感を放置する 
演出上の陳腐は、愚の骨頂。 

音楽は基本を宮川サウンドに依拠し、 
そこに羽田健太郎さんアレンジの交響曲を合わせ、 
さらにクラシックの楽曲を引用するという構成に感じた。 
音の厚みはさすがに他の作品の追随を許さないが、 
かつてのように、新たなヤマトサウンドの創出がないのは淋しい限り。 
お二方が鬼籍に入られたことが悔やまれてならない。 
The ALFEEの歌は、 
百歩譲って、発進シーンでは若い世代の船出のイメージと受け止められるが、 
エンドクレジットは、もう耳障りなだけで、聴いていてつらい。 
ヤマトの作風には合っていないと思う。 

試写会ではこのエンドロールが流れ終わったあとのテロップに 
会場から不穏などよめきがあったのを忘れられない。 
素直な拍手などなかった。 
このどよめきの後に、 
儀礼的な拍手というオトナになった観客の対応があっただけ。 
それがこのヤマトを示していると思う。 
以前のヤマトの作品としての人気の衰退はなぜだったのか、 
成功の合成による誤算や、成功体験による蒙昧を意識しないのか、 
作り手は反省をしないといけない。 
増長は危険だ。将来に禍根を残す。 
ゆえに、復活編に厳しい評価が下ることを正直、願っている。

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光に溢れた映画だった

9日の夜のうちにネームを仕上げたので
翌午前中を利用して「マイマイ新子と千年の魔法」を観賞する。
http://www.mai-mai.jp/index.html
公開終了は近づいているし、こちらは年末進行もあり、
これがラストチャンスだったからだ。
上映館が少ないので、新宿ピカデリーを選択。
新装になってから初めてだった。
劇場もきれいだし、イスも良いけど、どこもシネコン式ってのは少し淋しい。

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で、感想。
映画というものが
物語というドグマに支配されることがすべてではなく、
一瞬一瞬の体感をもってしてその輝きを伝えることができるのだという
思いを深くさせられる作品だった。
もちろんこの映画にお話が無いということではない。
逆に緻密すぎるほどに編まれていて、そつが無い。
評判の良かった「サマーウォーズ」のほうがよほど粗忽だと言える。
この粗忽さは時として映画としての絶妙なスパイスになるのだけれど、
どこまでも心配りの行き届いた本作はしかし窮屈などということはなく、
躍動感と奔放に満ちたシーン一つひとつの輝きが、心を解放してくれる。
その美しさがあるから、お話はきっかけにしか過ぎず、
映画を支配するものではない。
「三丁目の夕日」の人気で、俄かに昭和を珍重し懐古するあのいやらしさもない。
少しでも田舎で暮らす時間をもった者ならば、誰しもが必ず重なるであろう
そんな普通の静かな体験の、でも確かな光ばかりが隣に居るだけだ。

かく言う僕も、「となりのトトロ」でもそうだったけれど、
昭和の時代に農村で育ってしまうと
そこここに自身の経験と重なってしまうものがやたら多い。
麦畑を抜ける時の音や匂い。その上を渡る風の紋。広い視界。
用水路とも川ともつかない水の流れに見出すもの。
生活の傍らにいる牛や鶏。
木造の校舎。先生との心の距離。
五右衛門風呂や縁側の高さ。
山口弁は、夏を過ごした島根県石見地方の方言に似た響きを持ち、
天の川を初めて仰ぎ見たのは、島根の夜道だった。
ついでに親戚が山口大学の地質学の教授だったことも思い出す。

今の時代には失われてしまったものも多かろうとは思うけれど、
確かにそれはそこに在ったし、
それは千年前に在ったものとも通じるものだ。
小さな何か一つを共有できるならば
きっとそこから在る事の本当をこの身の内に染み入らせることが
観客に普通の想像力があるのなら可能だろうと思う。
今はそんな時代じゃないとヤサグレル必要などどこもにも無いのだ。

片渕監督は「ブラック・ラグーン」のTVシリーズの監督・脚本もされているが
まったく構成も毛色も異なるドラマ性の強い作品から
こうしたコアの部分を宙に飛ばすような作品まで演出ができるのは
素晴らしいと思う。
CGの使い方はとても地味な要所要所に抑えられ、
基本の画面の作り方は日本のアニメーションが獲得した
PANやFOLLOWなどの手堅いものが多いのも演出の底力を感じる。
音楽も押し付けがましくなく、軽やかでまるで鼻歌のように空に広がっていく。
そしてこの映画が実写ではなく描かれた絵であることが
表現したいものの純度を上げていくことに結実しているのだ。
絵、特に漫画絵は省略と誇張である。
あたらリアルになることばかりに美徳は無く
省くことで見せたいものに集約もできるが、
省かれたがゆえに見えてくるもの、省かれたがゆえに膨らむ想いもある。
それが絵の力だ。そしてそれが動くことの至福。
ウツギの花のなんて美しいことか!
絵の表現できる輝きと体験を信じられるこの映画を僕は心から賛美したい。

今年はアニメの劇場映画が豊作だったと言われているが、
僕にとってこの映画が締めくくりになったことは
何より幸福であった。
残念なのは、観客数としては不入りが続き、来週にも上映は終わってしまう。
「宇宙戦艦ヤマト復活編」もいいけれど、
できればこちらを多くの人に見て欲しい気持ちでいっぱいだ。

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2009年12月10日 (木)

漫画絵を塗るということ 4

その4「そこでアプローチを考察」

先月から引っ張ってしまった、
漫画絵を塗るという課題についての考察というか提案のつづき。
PCでの彩色がかなり普及するに至って、
大手少年漫画誌の成立過程の中で培ってきた、
墨線のきっちり入ったコントラストの強い絵に淡彩で彩色する方法の
問題点がかなり際立ってきている現状がある。
明らかにPC導入後の絵の方が肉筆の時代より劣ってしまった漫画家の
カラー画を多く見かけるようになったし、
その系譜にある友人漫画家の幾人かがやはり
カラーが苦手だという意識を強くしてしまっている。
自分もカラー画の手ほどきをするほど上手ではないのだが、
一般的な絵画の彩色の発想を追いかけることで
その打開の着想が得られるのではないかなというのがこの文である。
そこで、その2、3で絵画の東西における特徴的な部分を俯瞰してきたところ。

現在、漫画の彩色や漫画絵でのイラストを見るとき、
日本的な絵画の系譜に連なるアプローチと
西洋的な絵画のアプローチが見て取れる。
というよりその両者のバランス配分の上に存在していると言えそうだ。
ちなみにここで問題視している「安易なPCでのブラシ塗り」は
その集合に含まれないと自分の心情的には言っておきたい。
理由は、おしきせのルーチンに身を任せて
自分で思考し、バランスすることを放棄しているから。
思い悩むことから逃げ、打算に安寧し、
創意工夫と試行錯誤を放棄した人は好きじゃないので。

漫画絵は輪郭線の存在をなかなか無視できない。
これは漫画の宿命として逃れられない。
(安彦良和さんや山下いくとさんの彩色画などは例外的なものだ)
日本画には朦朧体という線画表現を退けた彩色思潮が、
横山大観、菱田春草らによって提示されたけれど、
革新的で異彩を放ったものの、それも現在は一技法として収まり、
決して主流にはなりえていない。
線の存在は強く大きい。
明治期以降の日本絵画、特に日本画と称されるものは、
西洋絵画の影響、特に彩色とパース感を
どのように輪郭画・線画の中に落とし込むのかという発想と技法の
積み上げとバラエティの歴史のように見える。
そして現代の漫画絵の彩色の多くはやはりこの彩色の試みに通じる
技法と着想で構成されていると言えるだろう。

少女漫画の彩色は
描線をかなり細くし、かつ主線をセピアなどのカラーインクを用いたりと、
線のボリューム感を弱める方法を採ったことが幸いして、独特の成功を収められていると考える。
これには少女向けの媒体で人気を博した
戦前の竹久夢二から戦後の中原淳一、内藤ルネ、高橋真琴ら先達の影響もあろう。
(中原の線は太く強いけれど)
彼らは時に編集者や事業家として時代の少女のイメージを牽引した。
そうして淡い色調の色付けにも耐え、さらには色彩表現として美観をもって確立されていく。
女性のもつ美的感覚と嗜好に適った繊細な線描と色彩感覚は、
表現の多様性と豊かさをもって70~80年代にそのピークを迎える。
(漫画としての黄金期とは異なる)
だが悲しいかな、少年漫画にはこうした美観の牽引者がほぼいなかった。
美輪明宏が「戦争が日本人の色彩感覚を衰えさせた」とよく嘆いているが、
戦争の影の残る時代に創刊された少年漫画誌には、
その男子に求められる精神性も相まって
彩色としての美に踏み込むことを女々しいことのように捉えられ
注視することはなかったのであろう。
印刷工程や予算、時間的制約を優先させた彩色スタイルがデフォルトになっていく。

この少年漫画の強い線描と淡彩との相性はそもそも悪いことは、その1で説明した。
では日本絵画でこの強い線描に色を載せたものは無かったのか、
と問えば、浮世絵に行きつく訳で、
その絵画表現的なピークは江戸期ではなく、
明治大正にかけて西洋画の流入で衰退を見せる流れにあるとき、
西洋画のエッセンスを吸収しつつ花開いた「新版画」にあろうというのが、その2である。
つまり近代的なパース感や自然光の放つ色彩感覚を用いたことにより、
江戸期の浮世絵よりも、より現代の漫画絵への馴染みが良く、イメージを結びつけやすいのだ。
この「新版画」の描法というより色彩表現技法はしかし、
色彩設計のセンスや技巧的な緻密さを除けば江戸期の浮世絵と大差は無い。
版木によって再現された強い墨線の線描に、薄墨による線描の追加などで
多様な輪郭線の表現を有し、
その輪郭に囲まれた中にまずマットに色を流し込んだものを基本にして
そこに色や薄墨によるグラデーションや数段階に分解された階調を施す。
グラデーションはなめらかさ、
段の階調はコントラストを持った色の存在感をかもす。
刷りの工程で時には広い面積の一部分のみにタッチや階調、にじみを付けるなど、
職人の高い技が実現している。
大手少年誌の彩色の系譜にあって、その表現に苦しみ悩む場合は
まずここから参考にしてみること薦めたい。
そして既にお気づきの人も多いだろうが、
現代にこの色彩技法を採用しているのは日本のアニメの彩色である。
昨今はPCでの着彩にこちらも移行しているから、
頬の赤みや滑らかな影といったブラシ処理や色トレスなども簡便になったため、
ますます、この「新版画」の域に相似してきている。
(アニメだから背景は違うんだけど)
なので、お悩みの貴兄は所謂「アニメ塗り」をすべしという結論というか、提案なのだ。

実は僕も、幻冬舎版「虚数霊」の単行本を刊行した際は、
(マイフォトの虚数霊の「幻冬舎版カバー画」を参照)
PCを彩色に導入したばかりに加えて、
タブレットも持たず、マウスで作業し、
彩色ソフトもデジカメのバンドルソフトだったAdobe社のPhotoDeluxe forBIZ 2.0しかなく、
無意識にこの「アニメ塗り」に近い形で彩色を行っていた。
当時この僕のカバー画を見たマイミクの希有馬氏が
「PC塗りはこの位のほうが下品じゃなくって好いよ」と評してくれたが、
今まさに彼の言っていたことが実感できる。
見直してみると、そうした環境下で描いた拙さもあるが、
その拙さゆえにこの描法で体裁を取り繕えているのだとも思う。
現在はタブレットと自分のスタイルにマッチした彩色ソフトを見出せたので、
アクリルでの手彩色のイメージを変わらないところまで持ってこれたけれど、
アニメ塗りは僕もPCでの塗りに迷っていた際に通ってきた道だったとは。
カラーが苦手な人間の至る方向ってそんなに多くはないのだろう。
(今は上手くなったというより、自分の絵に近づけられたという感じ)
ただゆえに、まずはお試しアレと自信をもって薦められたりもする。

日本画の描法を俯瞰すれば、多くの参考事例はあろうけれど、
今回の考察はその細部に分け入って、
塗り方を指導するような大それたものではない。
懸念するブラシ塗りの悪癖に、
一番効果的で簡易なアプローチの発想を提示できればというものだったので
ここで筆をおきたいと思う。
前フリが長かったので、さぞや凄い解決策が出ると思われていたなら、ゴメンナサイ。
ただ絵の描法のスタイルを変えるという行為は
絵描きにとってかなりの勇気を必要とし、ストレスも不安も大きく、
特に僕のように美術教育を受けていない人間は
描法や色など絵に対する経験値がとても低いゆえに、怖いのだ。
簡単そうな結論でもなかなかに踏み込めないのが現実であるのも、ご理解を。

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2009年12月 2日 (水)

漫画絵を塗るということ 3

その3「東西の絵:西」

西洋画に線画はないのかと問えば、もちろん在る。
ただ、主流となる絵画はフレスコ、テンペラ、そして油彩へと連なる
強く濃密な塗りがその伝統と言えよう。
この描法の理念は、特にその到達点としての油絵を
19世紀末あたりの断面で見ていくと、以下のように受け取れる。

物体は色と面と光で立体として表現される。
つまり輪郭線で境界を示し同時に平面化するのではなく、ブロックや面で意識され、
自然の事物のように陰影や色でその差異を示すことで認識の境界を表す。
下絵の段階では線画でアタリを取りながらも、絵具を重ねるにつれ、
目標として完成スタイルは線を否定するところがユニーク。
近世絵画は肖像画としての存在価値が長かったこともあり
写真のように事物をありのままに写すことが大きな命題として存在し、
それをベースに技法が洗練されてきたためだろう。
(宗教画としての存在も長いけど)

複数の光源により多様な色面で事物の色彩が表現される。
近代絵画には特にこの傾向が見てとれる。
つまり1色で面を塗りきることはしない。
色は直射光や反射光など複数の光源の存在により
多様な色面をもって存在している。
これも同時に立体としての存在感を示す。

パースの遵守
僕の描くようななんちゃってパースと誇張で写実性を歪め
視覚表現を優先した絵ももちろんあるが、
基本は幾何学遠近法など種々の遠近法を意識した絵作りになっている。
幾何学的、数学的構造の美に神威を見出す宗教的伝統性もあろうし、
写実の正確さを重視するのも、肖像画の伝統に根ざす意識だろう。
ただし肖像画の場合、点光源で観る習慣が長く、
背景、特に風景は重視されない時期もあり、
画題が真の意味で戸外へ出るのは随分時間を要した。

画題の制限と階級化
教会などのパブリックスペースにおけるものを除けば
特に油絵などの絵画は裕福なパトロンの庇護の下に享受される。
ステイタスであり、高価なものであることが多く、
また画材の値段や簡便性、携帯性の問題から
大衆文化としての浸透はかなり遅くなったように思う。
そのために画題たるモチーフの大衆化、一般化が遅れ、
重ねて、宗教的な戒律とモラルのために制限されたこともあり
自由度も損なわれた期間が長かった。
例えば裸婦を描くためにはギリシア神話を題材に取らねば許されないとか、
宗教絵画には一定の法則や禁則、思想や教訓を満たすことを求められるとか、
一般大衆の生活を題材に選ぶことの困難とかである。
もちろん例外は存在し、自由な画題と精神性を獲得した作品はある。

そうした伝統に立脚した絵画の文化に
陶磁器の梱包材として古新聞のようにもたらされた日本の浮世絵が
相当の衝撃をもって受け留められたのは想像できよう。
驚天動地の異質な絵画文化がそこにあったのだから。
特に強く濃い線画と平板な色彩配置は大きな刺激を与え、
印象派のあけぼのに影響を強く及ぼすことになる。
ヨーロッパにおけるそれを「ジャポニズム」と呼ぶのは有名である。

ここから西洋絵画は日本の線と面の描法を吸収し始める。
もちろん同時期に日本でも西洋絵画の流入は始まり、
近代的な絵画教育もスタートする。
ここに線と色は互いの文化を背景にしつつ歩み寄りを始めるのだ。
色と面と光を主体に見た線画。
線と平面を主体に見た色と光。

それは現代に至る日本絵画の表現の変遷と獲得した描法の多様さをみれば
感じることができる。
そしてその表現の模索は、
まさに現代の漫画絵の彩色の状況と同じ思想と動きをはらんでいる。
この両方のスタンスでそれぞれ描かれている漫画絵のカラー画があることに
思いいたるはずだ。
ただし断っておかないといけないのは、
「その1」で触れた、
墨線の明瞭な処理の上にPhotoshopの安直なブラシ塗りをした絵は、
この歩み寄りの思想の外にある、
無思慮で安易なものであるということだ。
この出遅れた絵(と僕は思う)をなんとかするためには、
つまりこの東西の彩色の歩み寄りの界面の中に持っていけば良い。

そこで次回は具体的なイメージを提示してみたいと思う。

[つづく]

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