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2009年12月12日 (土)

ヤマトの復活によせて

いよいよ今日から「宇宙戦艦ヤマト復活編」の公開だ。 
先行して試写会で観ているものの、 
前売券をその観賞後に購入し、劇場にも足を運ぶ意思である。 
ただそれがヤマトを観たいからなのか、 
自分の心に灯るヤマトの火に対しての義理立てのようなものなのか、 
判然としないのが正直な気持ちだ。 
どうやら劇場には僕のようなヤマト世代が列を作っている様子だけれど、 
同じ初日の「ONE PEACE」の方に動員の軍配は上がっているように見える。 
復活編の本当の成功は、ノスタルジーだけではない力をもってして、 
この世代のギャップを越えることだろう。 
僕は今回、ヤマトが復活を遂げたことには、 
嬉しさと、そして意義を感じている。 
作品の語るテーマと裏腹に、 
製作者の私利私欲と妄執によって、長い法廷闘争が行われ、 
日本のアニメの金字塔でありながら、 
再放送を含め各種媒体において疎遠にされ、 
その争いの醜さゆえに、ファンは恥じ入り、 
語ることへのタブー感が支配していた。 
その閉塞感をまがりなりにも打ち破り、 
ヤマトを未来につなげる作品がここに出来上がったということに、 
拍手を贈りたい気持ちに偽りはない。 

ただし、果たして今回のヤマトは、 
世代を越える力が備わった作品であるのか。 
結論は明らかに「否」であり。 
なにか大きな間違いが起こらない限り、支持はされないだろう。 
突っ込みどころの多い内容に、 
目くじらを立てるのは大人気ないところであろうけれど、 
その愚を冒すことを恐れずに、 
ネタバレはなるべく控えて感想を述べたいと思う。 

ストーリーは冒頭、人間ドラマが展開される予感をもって進み始める。 
古代と家族の確執や、古代自身のアイデンティティ、 
新しい乗組員たちの人間関係や成長、 
混成軍たる敵の心境。 
以前のヤマトはこうした人間ドラマの描写にいささか弱い面を、 
時代的な感受性や演出技術的に抱えていた。 
その後30年を経て培われた、日本のアニメの演出によって、 
そこに分け入ってくれる期待が高まる。 
しかし、1時間を越えた辺りで、そうしたものが 
どんどん放り投げられて、 
あるものは語られず、あるものは頓珍漢な解答を押し付けられ、 
あるものはお定まりなパターンにはめられて圧死していく。 
まさに悪い意味でのヤマト映画に成り下がる様を 
後半の1時間に石臼に挽かれる想いで見せつけられる。 
人柄もドラマも語る隙を与えられない人物が、 
突然、大上段に構えて死んでいく様のどこに感動をせよというのか。 
ブッラクホールが生命体であるという「ナレーション」での前フリが、 
どうしてまったく異なる結論へ結びつけられるのか。 
公私がぐちゃぐちゃで支離滅裂な判断と行動をする古代の 
どこに成長やリーダーの器があるのか。 
親子の融和を導く心理的な納得性がどれだけ語られたというのか。 
避難機の事故現場で我が娘のことしか目に入らず、 
他の生存者の可能性を考えもしない小さな男に地球を救えるのか。 
それが親子の絆だっていうのか。 
30年間なにをしてきたんだという敗北感に苛まれる。 

映像的には見るべきところはある。 
3DCGによるヤマト以下宇宙艦船は、 
2Dに馴染むシェードをかけられているのは、まぁ考え方なのでさておいて、 
その大きさや距離感を表現する演出がされていて、 
「艦」である存在感は満足がいくものだった。 
マクロスFのように巨大な船団がクルクル回り込んで動いてしまうような 
軽薄で幼稚な感覚などはない。 
これは恐らく、一連のシーンに関った羽原信義さんの功績なのだろうなと推測する。 
これまでの劇場版でもTVシリーズでも、十分に描写できなかった 
宇宙艦隊戦をしっかり繰り広げるのは圧巻で、 
(CGで獲得できたものであろうけど) 
ファンとしてはやっぱりアンドロメダの拡散波動砲には胸躍ってしまう。 
ブルーノアを繰る古代の緒戦も見所だ。 
種々の艦船デザインや艦載機のマーキングなど細かい部分は 
副監督・小林誠さんの仕事が光る。 
(この辺りは氏の著した「ハイパーウェポン」に網羅されている) 
なかなかにあなどれない。 
だけれども、この努力がある反面、 
キャラクター造形や描写は惨憺たるものである。 
湖川氏のデザインは一見いつものリアル志向でありながら、 
イデオンの時のような表情の豊かさは消え、 
造作のバリエーションに貧困でキャラの判別しづらく、 
なにより画面での演技に乏しい。 
顔も身体もその表現が硬く、絵としてなにも伝わってこない。 
また回想シーンとして 
完結編の画像を挿入させ、 
宇田川キャラと湖川キャラとの不気味な違和感を放置する 
演出上の陳腐は、愚の骨頂。 

音楽は基本を宮川サウンドに依拠し、 
そこに羽田健太郎さんアレンジの交響曲を合わせ、 
さらにクラシックの楽曲を引用するという構成に感じた。 
音の厚みはさすがに他の作品の追随を許さないが、 
かつてのように、新たなヤマトサウンドの創出がないのは淋しい限り。 
お二方が鬼籍に入られたことが悔やまれてならない。 
The ALFEEの歌は、 
百歩譲って、発進シーンでは若い世代の船出のイメージと受け止められるが、 
エンドクレジットは、もう耳障りなだけで、聴いていてつらい。 
ヤマトの作風には合っていないと思う。 

試写会ではこのエンドロールが流れ終わったあとのテロップに 
会場から不穏などよめきがあったのを忘れられない。 
素直な拍手などなかった。 
このどよめきの後に、 
儀礼的な拍手というオトナになった観客の対応があっただけ。 
それがこのヤマトを示していると思う。 
以前のヤマトの作品としての人気の衰退はなぜだったのか、 
成功の合成による誤算や、成功体験による蒙昧を意識しないのか、 
作り手は反省をしないといけない。 
増長は危険だ。将来に禍根を残す。 
ゆえに、復活編に厳しい評価が下ることを正直、願っている。

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