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2010年2月

2010年2月13日 (土)

どこ吹く風でいいんだよ!

例によってまったく興味がなかったので
今日、冬季五輪が開幕だと昨日知った。
ニュースでも触れている
スノーボード代表の国母選手の服装マナーの話題からだったわけだけど、
なんでそんなに彼をいじめるのかな。
周囲と違う装いや姿勢を見るや
誰かがちょっと大きい声を上げて公の御旗が立つと
とたんに否定的な論調が幅を利かせて
自分と異質なものを排除する。
もう最悪。
彼の競技のスノーボードのパイプって
スケートボードでもそうだけれど
ストリートカルチャーの影響が強いから
服装や姿勢だってそれが反映されて当然。
それをまるごとでこの競技なんだから。
そこを理解しないで文句言う人間の方がまず恥ずべきだ。
相撲が仮に国際競技種目にあったとして、
ちょんまげを結って開催国に行ったらいけないの?
ファッション的なひとつの文化の要素を携えていることは、いけないことなの?
視聴者の文句を鵜呑みにして注意したJOCは
オリンピックを高校の修学旅行と勘違いしてるんじゃないのか。
JOCの市原則之専務理事は
「スポーツマンの常識からかけ離れてる。国民の代表として来ている人間の服装じゃない」と、
声を荒らげたそうな。
スポーツの多様性を尊ぶなら、人間の生き方の多様性も尊ぶべきだ。
人気のあるスポーツ種目を導入するっていうことは
その文化性にも敬意を持ち、受け入れることであって、
役員の個人的な好みや己の体裁で、否定や排除をするのは
組織として間違っている。
JOCはそういう選手を大衆の偏見から守ることが本当ではないのか。

ユニフォームが意識の結束なんて言うけれど、
本当は管理のしやすさと、思想統制であって、
そこを触れずに語るのは白々しい。
そもそもユニフォームがマナーなんてのも理由がないわけで、
幻想と妄執でしかない。
僕も高校時代はヤンキーとか不良系とはまったく違うベクトルで、制服を勝手に着ていた。
例えば冬でもワイシャツ1枚で上着を着ないで過ごすとか。
それを調和がとれないと説得しようとした教師の論法は
JOCとさして代わり映えがしない。
ましてや、まがりなりにも彼は規定のユニフォームは着ており、
どこかの野球選手のように自分勝手な服ではない。
サングラスだって
雪の反射の強い冬季競技において、目を保護する意味で
普段からかけるのは何ら間違いじゃない。
それに彼は人前で話す際は礼儀をもってちゃんとはずしている。
そこを面白がってフラッシュをたく無神経なマスコミこそ
競技に影響をしかねない愚行だと知るべし。

幸いなのは
彼がその愚かな周囲の態度に
やり過ごす精神を持っていること。
僕はオリンピックにはまるで興味ないし、
日本もまったく応援なんてしないけれど、
(国ではなく、すべての競技者の人間そのものを応援する)
この愚かな連中を黙らせるためにも
彼には気持ちの良い滑りをし、得心のいく競技をして欲しい。

しかし国母って素敵な苗字だなぁ。

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2010年2月 4日 (木)

つぶやけません

原稿執筆の傍らFMをかけている。
1月は新譜の宣伝なのか
まだいたのかとばかりに広瀬香美があちこちに露出していて驚いた。
かつてスキーブームとかなんとか、
ホイチョイプロダクションの軽薄なマーケティング映画にほだされて
ゲレンデが賑わっていたときに、スキー用品店のCMでやかましく響いていた歌い手だ。
スキーもスノボも否定はしないけれど、
流行だからと群がるのは好まないし、そういう流行の胡散臭さに警戒してしまう。
その気持ちに拍車をかけたのが
彼女の歌の泥臭さだった。
当時は聴くと気分が悪くなるから避けていたけれど、
ラジオでインタビューに答える言葉に耳を傾けると、
ロスアンジェルスで作曲を学んだりしているらしいのだが、不思議でならない。
どうしてかと言えば、
彼女作曲のメロディラインも発声もLAサウンドとはまったく異質な
コテコテの演歌そのものだからだ。
彼女の歌を天童よしみが唄うことを想像してみれば、
まるで違和感がないことに気づくだろう。
ゲレンデと演歌。
チョコパフェとヌカ漬けを合わせて食べるようなその違和感が僕には耐えられない。
自分が演歌だと気づかないでPOPSを語る姿の勘違い振りと、
その食べ合わせを尊ぶ人の感受性も信用できなかった。
で、今頃また彼女がラジオで自慢気に吹聴するのが
自らを「twitterの女王」だとか「25万人のフォロワー」だとかの話題であって、
僕も不勉強だから、
その言葉がどれだけ権威や意義を示すのかは知らないし、興味もなかったが、
良い大人がどうにも謙虚さを失ってはしゃぐ姿にまたゲンナリ。
twitterにも十分すぎる不信感が醸成されてしまった。
でも僕の周囲でtwitterを始めましたという人が頻出し、
ラジオ番組までアカウントを取得しましたと宣伝するに至り、
チラホラと眺めたりはする機会を持つようになった。
(アカウントとらずとも閲覧はできるから)
それぞれ、素直に短文で何か意思や気分、状況を語ったり、
営業や戦略を持って扱っている人など
様々なアプローチで臨んでいる様子が分かったし、
なんとか悪感情だけは除くことができた。

でも、僕はtwitterを自分では始められないと思う。
まず140字という数字制限が僕には弱りモノなのだ。

僕が短い文章が苦手なのは
僕のblogを見る人は容易に理解できると思う。
長い文章が得意という訳でもないけれど、
ちゃんと気持ちを伝えようとすると誤解が怖くて、
言葉をあれこれ重ねずにはいられないのだ。
基本的に僕は人見知りゆえに寡黙であるし、
自発的に他人に話しかけることは少ない。
また恐怖や畏怖とは別に、
普段の会話でも、理解などしてもらわなくても良い相手には
あまり多くを語らない。(し、そもそも語れない)
逆に、少しでも自分を分かってもらいたいと思う人、好きな人には
くどいほどに言葉を重ねてしまい、
うざったい奴だとかえって嫌われる虚しさを幾度となく経験している。
webの日記では後者に近く、
お粗末な自分の姿を人前さらさないですむ安心と丁寧に伝えたい衝動から
随分饒舌になってしまっていると思う。
(社長時代はこの「人前にさらされる」苦痛に心擦り減らしたのだ)
編集者として記事を書く際にも
ついつい字数をオーバーしてしまう。
特に編集後記など自分を語る部分で焦ってそうなりがちだった。
広告や見出しのコピーや俳句・短歌の類としてなら
読み手の想像力に解釈を任せる部分があるけれど
twitterでは一応作品ではなく、「つぶやき」と称した自己心情の吐露であろうから、
曲解や拡大解釈は百害あって一利なし。
それに僕は短い文章のコミュケーションがやはり下手な様子で、
友人知人の日記にコメントなどつけると
場違いでヘタクソなのか、それで止まってしまったり、
僕だけレスをつけられずにスルーされたり、
時に厳しいお叱りを受けたりする。
苦手意識ゆえに自意識過剰なのかなと思ったりもするけれど、
やっぱりあちこちで何度もそういう場面に出くわすと、
この原因は僕にあるという確信めいたものが生まれてしまう。
そう、これって、僕がもっとも苦手としている、
他人との会話のキャッチボールというか
人前のでの発言のアドリブ性のままなのだ。
なんて恐ろしいこと。
自分の日記でも推敲が足らずに、誤解を与えたり迷惑をかけたりしているだろうに、
生の声のようなものを垂れ流すなんて。
しかもtwitterのフォロワーの多くは見知らぬ人ばかり。
自分の身上や信条を理解されないまま
パット見で判断と伝言ゲームの連鎖を生んでしまう。
面白い面は同時に恐怖を抱えた爆弾のスイッチじゃないか。

また費やす時間も怖い。
朝の9時から翌朝の4時まで、
休日などないまま1日18時間近く原稿に追われながらも、
1日に1時間以上はネットに費やしていると思う。
twitterってチャットとは言わないまでも
レスの即時性を要求されるようなアクションに醍醐味を求める部分もあって、
タイミングを逃せば、惨めなものでしかない。
(僕のように間の悪い者には悩ましい遊び方)
そうしたスピードに応えられないのはもちろんのこと、
つぶやきにもし数多くコメントが付いてしまったら、応えるのにも大変だ。
また応えないならば、その事への呵責にさいなまれて心苦しい。
自分の神経を細らせてしまう。
ちゃんとそれらに応えようものなら
莫大な時間になろう。それは僕には無理だ。

そして監視装置としてのtwitterの存在。
「××ナウ」だとか、珍妙な表現が横行しているけれど、
自己の意思表現とは別次元で
自分の行動や現在位置を発信するってことは
逆に監視されているってことではないのかと思う。
人は律儀にも何かをUPしなきゃと思う中で
そうした自分の置かれた物理的な状況や位置までも
そこに意味や意義を見出さぬまま情報として発信している。
それは時にお遊びで済むものであろうけれど、
更新回数を誇るような歪さに発揮されるなら
それは他者からの監視装置に変貌する。
僕は社長時代には個人情報の多くが
帝国データバンクなどに公開されていていたし
プライバシー意識は低い方だけれど、
歌舞伎町ののぞき部屋みたいに
PCの窓を通して不用意な自分を公衆にさらすようなまねは
やっぱりどうかと思う。

僕は漫画家としてのwebというかblogでさえ、
出版社や書店サイドから仕事上必要だからと促されるまで持てなかった人間だ。
得てしてこういうことに疎い。
そして他人様が喜び群がるものは、
まずは怖くて遠巻きに見るのが
子供の頃からの習性になってしまっている。
だから不器用さと臆病ゆえに、
「皆がやっているようなので、つぶやき始めました」なんてとても言えない。

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