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2010年3月

2010年3月20日 (土)

守ることの難しさ

この数日、種々の小さな用事で出かけてしまい、
ノベルズのイラスト仕事は思うように進まず、自分に苛立つ。
昨夜はマンション管理組合理事会での大規模修繕完了の宴席。
施工業者を招いての謝恩会のようなもの。(オイラ役員なの)
お酒が入ると、ろくな絵はかけないので、早くに休んだけれど、
きっちり4時間半で目が覚めるのは、身体のリズムなのか。

昨日、一応「東京都青少年健全育成条例」改正案は「継続審議」の決定がされた。
とは言っても、一応という理解であるべき。
つまり6月都議会には再び山が来るのだから。
議会的には「継続審議」という文言は
「廃案」はもうない。
なんらかの形で改正はありきで新しい結論を見出す「必要」がある。
そういう方向を逆に確認されたという意味合いになると
小説家のひびき遊さんの得た話で知った。
(だから自公を含めた「全会一致」になった)
僕らは、もうこれまでではいられないのだ。
身体の一部は敵にくれてやらねばならぬ、そのことを覚悟して
守るべきものを考えていかないといけない。

今回の一件で
規制反対側、守ろうとする側の人たちの足並みが
どうにも揃わない様を感じた。
一部規制容認から、現状維持の放任型までと
もちろん、考え方の違いがあるのだから当然だ。
だけど憂慮するのはそこではない。
自分と守ろうとするイメージの違う人や
自分とは反対行動の方針が異なる人に
バッシングが起きていること。
古い言葉で言えば「内ゲバ」だ。
確かに、先陣を切ったことに増長しちゃったのか
浮き足立った発言をしている人もいるし、
推進派への個人攻撃を訴える人、
想定される黒幕を敵の本陣だと祭り上げる人たちには、
叩きこそしないけれど、僕もちょっと待ってと思う。
今の主戦場は議会であり、
闘うのはそれぞれ持つ武器も異なれば頭数も異なる
会派(党)という部隊に所属する議員だ。
僕らは後衛であり、補給部隊でしかない。
であれば僕らは何をするべきなのか。
多くの意思と、情報と理論武装された弾を集め、
議員が闘いやすい条件を作ってあげることしかないのだ。
議場の外から援護射撃できる人や組織も限られている。
その限られた条件をどう支えるかだ。
どこかのゲームのようなラスボスを勝手に想定して
そこを倒せばいいなんてものじゃない。
現実を見ないと。

オタクを中心として、ネットを通じて発言をしてきた多くの一般の人たちは、
自分の肯定するべき価値の主張と共有をし、
それを守ろうとすることが初めての体験に近いのではないだろうか。
アニメや漫画などの作品、または個人の思想や行動を
何の責任を負うことなく、批判・否定し斬って捨てることはとても容易だし、
斜め上方から見下ろした立ち位置は気分が良いだろう。
仮に褒めたことがあっても、「神」などという
共通スラングの曖昧さと安寧に逃げて
自らの言葉で恥を省みずに語ることなんてしない。
だが今回はその立場は規制推進派にあるのだ。
僕らは不謹慎な物、不潔な物と断じられるものを守らなければならない。
誰かの受け売りの言葉ではなく
自分の中から発するもので語らなければ価値がない。
その価値をもって仲間を増やし納得をしてもらわないといけない。
どこか恋愛にも似ているけれど、
周囲にどう言われようとも、
アバタだろうがエクボだろうが、七癖あろうが、
全身全霊で肯定して好きだと、これが自分の愛する人だと、
必ずしも自由にならない自分の身の外にある存在を価値として
人前で裸の自分と同義にさらしてなおかつ、守って立たなければならない。
さらに難しいのはそのパーソナルな価値をもって
共闘をしないといけない。
守るという行為は本当に難しいことだ。
推進派は常に足並みが揃っている。
利害は簡単に一致できるからだ。
否定されるべき物は僕らが供給しているのだ。
彼らは「コレだ」と示せばいいだけ。
そしてその推進活動も極めて組織的で権威をもって行われている。
内ゲバなんてしていたら、足元をすくわれて
こちらは容易く完全敗北をきっする。

あと3ヶ月しかない中で、僕らは何をしていけばいいのだろう。
まずは、この一件で動いてくれた都議会議員や会派に
お礼のメッセージを送って
議員達の心に達成感を与え、支持を感じてもらうことは
きっとこの先へのモチベーションには不可欠だと思う。
僕も文書を送ったり、仲介してもらった旧知の代議士にはお礼を伝えておく。
そして改正案を学ぶこと。
都や規制派は「誤解がある」という戦法をとって
議員や識者の懐柔を図り始めている。
そこを突くには学びしかない。
さらには、規制の反対を主旨にした話し合いの場を作っていかないといけない。
これは個人では限界がある。
漫画家協会でも全国同人誌即売会連絡会でも雑誌協会でも良い。
組織が音頭をとって、一定の権威を有して
理論と戦略をとりまとめていって欲しい。
それでないと推進派の組織活動と同じ重さで対抗できない。
(実はどこか動いてくれるのかが一番不安)
僕らはどこかの組織に音頭をとるよう働きかけることしかないだろう。
そして出来た場所に意見を持ち寄る。
こちらは多様な価値観があるのなら、
それは議論のための理論武装の豊かさに活かせないのか。
仮に問題の残る論理構造でも、
ディベートでは分かっていて使うことも戦略的にできるからだ。
理路整然としたものから、感情論的なものまであっていい。
交渉とは種々の局面ですべてを使うものであり、
弾は種類が多いほど良い。
冒頭述べたように、すでに身体の一部は持っていかれることは
覚悟した戦いになろう。
どこの部位になるのか、それによっては批判も生まれようけれど、
中で争えばその部位は増えていくばかりだ。
そして「どろろ」のようには取り返すことなどできないのを忘れてはいけない。

今回の一連の流れを総括したGIGAZINの記事。
『「非実在青少年」問題とは何なのか、そしてどこがどのように問題なのか?まとめ』
記事のlogはちゃんと残るところなので参考にリンクをおいておきます。
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20100319_hijituzai_seisyounen/

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2010年3月17日 (水)

まだ踊ること無かれ

都民主党が件の「東京都青少年健全育成条例」改正案について
「継続審議」の方向で調整に入ったという報道が
昨夜くらいから出始めている。
でも今朝の早い段階では、
民主党内では「廃案」「継続審議」「可決」の三者の意見があり、
その調整を行っているのが現状で、
継続審議が決定したわけではない。
都議会最大会派である民主党が仮に「継続審議」でまとまり、
党議拘束をかけても、
他の会派(党)が同調しないと、議会の意思にはならない。
そういう数である。
実際、自民党と公明党は「可決」の方針でまとまっているのだから。

さらには東京都の小学校PTA協議会など
賛成・可決の立場で
同じように請願活動をすべての会派に行っているのも無視できない。
僕らが陳情や反対集会を行ったという
これまでになかった行動に出たことに自己満足していてはだめだ。
相対する立場は、僕らよりはるかに慣れて、
しかも権威をもって行動をしている。

まだ、反対の意思を示す行動の手を緩めてはいけない段階だということだ。

そして仮に「継続審議」に都議会が決定しても
また6月に審議の遡上にのってくる。
それを忘れてはいけない。
またこれまでのように「喉元過ぎれば」では、あまりに浅はか過ぎる。
今回の「学び」を契機に
論点を整理し論法を構築し、論戦に備え、
議員へのアプローチを模索し、
継続的な意見発信をしていかなくては。
まずその場所を作ることから僕らは始めないといけないのだ。

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2010年3月11日 (木)

安易さのツケ

東京都議会での「青少年育成条例改正案」における
非実在化青少年の対象化が話題になり始めている。
ネットの記事を読んだら
一緒に仕事をしたことのある堀田さんが文章を寄せていて、
まぁ概ね冷静な異議の主軸はこういうものだろうなと思う。
この手の法案は国会や地方議会、そして法案の内容が
毎度アプローチを変えてくるので、
僕も追っかけきれず、不勉強は否めないのだけれど、
都の方は、青少年の健全育成のポジションから、
国の方は、性犯罪から児童を守るという視点
というのがそれだという印象。
お友達の何人かと違って
僕は肉体的に未成熟な幼女に性的な興味はないし、
それこそ性犯罪からは守るべきと考えるから
一定の施策は必要だと考える。
でも単純所持とかすべてをタブー視して黒とみなすのも乱暴だ。
芸術性がどうとかの前に
幼児から大人、老人に到るまで、肉体をもち性別をもっているなら、
それは常に性的な存在であり、
年齢や環境の中で性と直接間接に触れながら
精神的な成長をするものだろうに、
極端なタブー視やパージはそれこそ健全な人間性と精神の阻害と否定になると思う。
青少年の健全育成ってなんなんだろう。
性的なものから隔離することが健全さを生むのだろうか。
江戸時代なんてのは
今よりもはるかに性的な情報も多く、風紀もオープンで、
それでも300年以上も廻ってきてたし、
その歴史の上にあって、僕らはそんなに異常で淫らではない。
どこをどうとって健全なのか。
教育として育てるべきどんなイメージをもって、どう目指すのか。
そこがないままに、
しかも定量的、心理学的な検証などないまま
憶測で規制するってのは、いかがなものか。
実際、中学から大学生の消費動向を見れば
携帯電話への支出が大半を占めていて、
今回問題視するような媒体のウェイトは確実に落ちている。
それだけですでに頓珍漢な規制だと言えるのでは?

そもそも議員や役所が提案する法案や政策ってのは
往々にして管理する側のルーチンをどう作るかという視点が幅を利かせる。
実際の被害者を救済したり、決め細やかな予防を図るとか、
目的としてのイメージを作るのに何が必要なのかという
現場のニーズから乖離して、
大まかで大きな集合を対象に、
ざっくりと網をかけて規制・管理しようという発想になりがちだ。
今回の一連の動きも憶測と思い込みに支配されたイメージで
切って捨てておけば、とりあえず安心で、
そこで失われるものは関係ないという姿勢に満ちている。
本当に必要な施策には予算もかかるし人手も要る。
それに引き換えこの予防検束は
被害者不在のまま懲罰金などの収入が入る。
警察や司法などの人件費はもとから折りこみ済みの固定費なんだから、
いわば儲け事業に見える。
実に役所らしい雑で安易な動きではないか。

ではこれに対して規制される側は何をしてるのか。
すでに遅きに失した感が否めない。
出版業界をリードする大手中堅の出版社は
その収益構造の中で漫画が大きなウェイトを占めるにも関らず
黙殺を続けている。
昨夜、編集者の友人と話したのだけれど、
つまりは法案に反対の表明をすることは、
「ウチはエロで儲けてます」ってことを公言することと同義であり、
社の面子と対面を守るために、ヤブヘビは避けたいそうである。
エロ専業とも見えるような中小零細の出版社は、まさに死活問題なのに
同じくだんまりなのは解せない。
出版業界はほぼこれでダメ。
黙ってやり過ごして行こうっていうのは安易過ぎる。
出版不況と言われながらも面子が大事とは、まだまだ業界は余裕があるということか。
愚かしい。
漫画家サイドも
既存の多くの一般作品がこのコードに触れるし、
エロで食べている作家も多いのに
漫画家協会とかはこれも無反応に近い。
会長の小島功を始め、常任理事や理事の大先輩達の多くが
成人漫画を描いてここまで来た人ばかりなのに、
公式見解一つ発信していない。
業界団体として、かつ利益団体としてまさしく失格だ。
同人誌の世界もやはり巨大な市場を有しながら
目だった動きをしてこなかった。
いつぞやの豊島区民会館でのシンポジウムも
性器の描写表現の自主規制技術の話題にニヤケながら終始し、
付随する業者の「コミケ基準で商売してますから大丈夫」
という嘘でごまかされ、
(実際はコミケで販売禁止を言い渡された作品を無修正で売買している)
同人誌業界としてどう運動していくべきかのアクションには
まるで触れていなかった。
その場しのぎの安易な態度だったと誹りを免れないだろう。

本来はこの幾つかの業界やグループが組んで
学者や弁護士を交えた議論検討の中で
イメージと定量的検証、運動の方法を見出し、
都や国の複数の議員とアクセスして
まっとうな議論になるよう図るべきだったのだ。
でもどの業界も音頭をとることはしなかった。
そのツケが今なのだ。
どうやら今月末までに議会で通してしまおうという気勢らしいけれど、
もうこの段階まできてしまったら、
あとはゲリラ攻撃しかないのは常だ。
それでもゲリラにはゲリラの戦法がある。
党派会派はさておき、
まずは都議会議員に個別にメッセージを送るしかない。
(コネがあればこしたことがない)
(メールよりも手紙やFAXなどのリアルがあるツールで)
(推進派よりも懐疑派あてに)
(古参議員より若手を中心に)
なるべく感情的ではなく冷静に、
コピペなどのおしきせの文章ではなく、
筋を通した自分の言葉で、
問題を指摘していくしかない。
議員には反対するための理屈を求めている人もいるのだから。

「都知事の作品をまっさきに有害図書に指定してやれ」
なんてシニカルで安易な態度で卑屈に見栄を切り
あげく何も行動しない態度が
結局は自分の首を絞めるのだ。

(堀田さんの文のみ引用転載)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1003/09/news103.html
●「キャラクター表現へのはっきりとした蔑視」
 漫画編集者出身のノンフィクションライター・堀田純司さんは、ITmediaの依頼に対し、以下のコメントを寄せた。
 僕は20代のころ、ある青年漫画誌の編集部に所属していましたが、そこでは漫画について“人間の欲望の全肯定である”と教わったものでした。漫画表現が人間の欲望の反映であるならば、当然そこには性的な表現も含まれます。今回の改正では「非実在青少年」として、キャラクター表現における性描写を規制の対象にしていますが、これには2つの問題があると感じます。
 まず1つは、同人活動などでは、非商業ゆえに大胆な描写の漫画表現が存在します。しかしこうしたアマチュアのファン活動こそが、日本のキャラクター表現の豊かな土壌となっており、今回の規制はこの分野を直撃します。もう1つは、何が有害なコンテンツであるのか、その基準があいまいであること。表現とは時に死と愛に踏み込むものであり、読むものの感情にゆらぎを与えるからこそ表現と言えます。
 こうした領域で、何が有害で有害ではないのか、本当は誰にも判断することは難しいものです。難しいからこそ、改正案の文面もあいまいになっていることを、この案を考えた人は自覚したほうがいい。あいまいな領域を恣意的に「有害である」と解釈されてしまう風潮が高まれば、日本の表現はずいぶんと窮屈なものになるでしょう。
 大手出版社からの刊行物でも、各都道府県で有害図書に指定されることは案外、少なくないものです。それが出版物の大多数が消費される東京都でこうした規制が行われると、表現の活力が大きく奪われかねない。高名な文芸作品とされているものでも、アウトのものが出てくるでしょう。文字はよくてキャラクター表現だとアウトなのでしょうか?
 実写による児童ポルノとは違い、キャラクター表現には被害者はいません(前者への規制は必要だと考えます)。また青少年への悪影響も検証されてはいません。こうした検証が行われないままに、かくも感情的な規制が行われるのは、上のような問題があり、あまりにも影響が大きいので賛成できません。
 「青少年を性的対象として扱う図書や映画がまん延させることで性的対象として扱う風潮」という内容が改正案には出てきます。この風潮を「助長すべきではないという機運の醸成に努める」とされているのですが、しかし、そもそもそんな風潮は存在するのでしょうか。
 アダルトゲームメーカーはどこも経営がかつかつ。5000本売れたら大成功という、ささやかなペイラインでせめぎあっているのが実情です。
 逆に一般ユーザーにまで話題になるほど売れている作品は、むしろ性表現はソフトです。漫画作品でも同様です。ハードなものも存在しますが、これらはむしろニッチといってよく、「青少年を性的対象として扱う図書や映画がまん延」という風潮が、本当に存在するかどうか大いに疑問を感じます。それで売れるのなら、むしろ自分も参入したいくらいですが、そんな簡単なものではないでしょう。
 世界を白と黒に分け、黒いものを抹消すれば物事がよくなるという思考は非常に危険です。もし青少年によくない影響を与える風潮があるのであれば、それは虚構ではなく、現実そのものでしょう。何の検証も行われないままに不快な虚構を抹殺してしまうのではなく、どんなに回り道であっても、この現実社会そのものをよりよくしていくことが、文化的な国のやり方ではないでしょうか。
 今回の改正案については、オタク文化への無理解というよりも、キャラクター表現へのはっきりとした蔑視を感じます。もともと、漫画の神様、手塚治虫さんは、自分が医学博士号を持つことで、漫画への偏見が収まればと考えていたといいます。永井豪さんは、「ハレンチ学園」(1968年連載開始)のときのバッシングは、身の危険すら感じるほどだったと語っています。
 バブル崩壊後、失われた10年を経てすっかり実業分野に自信を失った日本社会は、キャラクター表現が海外で評価されているのを知り、それを「クールジャパン」などともてはやすようになった。そして、かつてのような偏見、批判は下火になったかのように見えました。しかし、ある特定のイデオロギーに凝り固まった人や、文化に対して視野の狭い人が集うコミュニティでは、かくも古色蒼然とした偏見が、まだあることを痛感させられます。白昼にネッシーが多摩川をゆうゆうと泳いでいるのを見た気分、といいましょうか。

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2010年3月 2日 (火)

雑味が欲しい

あさりよしとおさんの家を訪ねたときのこと。
コレクションされているオルゴールを聴きながら、
床に落ちていた同人誌を拾って眺めていた。
誰の本かは判らないけれど、
小奇麗でカワイイ絵が並んだ頁を繰りながら思ったことを口にしてみる。
「これ、コミスタ(ComicStudio)の線ですね」
Gペンなどのいわゆる「つけペン」を使った経験なしに
このソフトウェアで漫画を描くことに触れた人は、
押しなべて同じ線を描く。
淀みなくキレイに抜けていく硬質で鋭利な線。
ペンで描けばどうしても着いてまわる
インクのストロークの息つく所や、
不用意なアクシデントに歪む曲線、
かすれやにじみ、
白地とインクの黒の境界に存在するフラクタルで曖昧な灰色の部分、
そして墨線で描くという覚悟。
そうしたものが、ごっそりと抜け落ちた線が連なる。
それらは確かにあってもなくても良いものだけれど、
「全部が無い」姿は一様に気持ちが悪い。
あさりさんはそう言う僕に
「他人と同じ線を引くということが、どれだけ自分の価値を失わせているのか、
気づかないコイツラは愚か者だ」
と道破した。
コミスタは便利なソフトだとは聞いている。
実際、カスタマイズして素晴らしい仕事をしている友人もいる。
でも自分の線のイメージを持たない人が使うならば、
絵のボトムは容易に上げられようとも、
絵描きとして大事な資質を失うことになりかねない諸刃の剣だ。
資質とは技術だけではない、
描くことから養われるアイデンティティと魂の問題だ。
お遊びの同人誌ならばまだよかろう。
でも職業人であるなら、致命的な欠落になる。
そしてそういう作家が増えているのもまた事実。
さらにはその気持ちの悪い線を善しとする読者も。
漫画家を支えようとして作ったソフトかもしれないが、
均質化と平準化の果てには種の絶滅が待っているのは必定。
愚かしく危険な臭いがする

「コミックフラッパー」誌に連載を持って、もうすぐ1年になろうとしている。
仕事の環境も、編集者との相性も良く、
誠実さと安心に満ちて仕事ができているのは
幻冬舎など過去の出版社とのすさんだ関係を振り返ると、
本当に恵まれていてありがたい。嬉しい。
かつての富士見書房「コミックドラゴン」の頃の愉しさに通じるものがある。
そうした中で、唯一気になってならないのは
雑誌の印刷の仕上がりだ。
紙が悪いわけではない。刷り上りも綺麗だと思う。
だけどどうしても自分の描いた線とイメージが違う。違いすぎる。
もうなんというか、まるでコミスタの線なのだ。
ふくよかさも柔らかさもなく、温かみを感じない、
そして濁りというか雑味がない。
自分としては絶対に避けたい気持ちの悪い線。
最近では、そのギャップに耐えられず、自分の頁は正視できない。
見る度に泥のように落ち込む。
どうしてこんな線になるのかを考え続けている。
製版の問題なのか、
紙と印刷の相性なのか、
それともフラッパー誌から始めた
僕のフィニッシュのデジタル化において、
ペン画をスキャンしニ値化する過程で落ちる情報の問題なのか、
なかなか答えが見つからない。
連載を持つ他の漫画家さんにも印象を尋ねてみる必要もあろう。
答えのないまま、
試行錯誤も繰り返している。
不思議に思われる人もいるだろうが、
僕はあえて線を汚く描いている。
淀みや不安定さ、即興性や汚れを加えて
絵に引っかかりを与えようと思うから。
先日脱稿した原稿は、消しゴムをあまりかけていない。
キレイすぎない、ザラリとしたものが絵に残るように。
そうした線の向こうに託した想いがあることを伝えたいから。

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