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2010年3月11日 (木)

安易さのツケ

東京都議会での「青少年育成条例改正案」における
非実在化青少年の対象化が話題になり始めている。
ネットの記事を読んだら
一緒に仕事をしたことのある堀田さんが文章を寄せていて、
まぁ概ね冷静な異議の主軸はこういうものだろうなと思う。
この手の法案は国会や地方議会、そして法案の内容が
毎度アプローチを変えてくるので、
僕も追っかけきれず、不勉強は否めないのだけれど、
都の方は、青少年の健全育成のポジションから、
国の方は、性犯罪から児童を守るという視点
というのがそれだという印象。
お友達の何人かと違って
僕は肉体的に未成熟な幼女に性的な興味はないし、
それこそ性犯罪からは守るべきと考えるから
一定の施策は必要だと考える。
でも単純所持とかすべてをタブー視して黒とみなすのも乱暴だ。
芸術性がどうとかの前に
幼児から大人、老人に到るまで、肉体をもち性別をもっているなら、
それは常に性的な存在であり、
年齢や環境の中で性と直接間接に触れながら
精神的な成長をするものだろうに、
極端なタブー視やパージはそれこそ健全な人間性と精神の阻害と否定になると思う。
青少年の健全育成ってなんなんだろう。
性的なものから隔離することが健全さを生むのだろうか。
江戸時代なんてのは
今よりもはるかに性的な情報も多く、風紀もオープンで、
それでも300年以上も廻ってきてたし、
その歴史の上にあって、僕らはそんなに異常で淫らではない。
どこをどうとって健全なのか。
教育として育てるべきどんなイメージをもって、どう目指すのか。
そこがないままに、
しかも定量的、心理学的な検証などないまま
憶測で規制するってのは、いかがなものか。
実際、中学から大学生の消費動向を見れば
携帯電話への支出が大半を占めていて、
今回問題視するような媒体のウェイトは確実に落ちている。
それだけですでに頓珍漢な規制だと言えるのでは?

そもそも議員や役所が提案する法案や政策ってのは
往々にして管理する側のルーチンをどう作るかという視点が幅を利かせる。
実際の被害者を救済したり、決め細やかな予防を図るとか、
目的としてのイメージを作るのに何が必要なのかという
現場のニーズから乖離して、
大まかで大きな集合を対象に、
ざっくりと網をかけて規制・管理しようという発想になりがちだ。
今回の一連の動きも憶測と思い込みに支配されたイメージで
切って捨てておけば、とりあえず安心で、
そこで失われるものは関係ないという姿勢に満ちている。
本当に必要な施策には予算もかかるし人手も要る。
それに引き換えこの予防検束は
被害者不在のまま懲罰金などの収入が入る。
警察や司法などの人件費はもとから折りこみ済みの固定費なんだから、
いわば儲け事業に見える。
実に役所らしい雑で安易な動きではないか。

ではこれに対して規制される側は何をしてるのか。
すでに遅きに失した感が否めない。
出版業界をリードする大手中堅の出版社は
その収益構造の中で漫画が大きなウェイトを占めるにも関らず
黙殺を続けている。
昨夜、編集者の友人と話したのだけれど、
つまりは法案に反対の表明をすることは、
「ウチはエロで儲けてます」ってことを公言することと同義であり、
社の面子と対面を守るために、ヤブヘビは避けたいそうである。
エロ専業とも見えるような中小零細の出版社は、まさに死活問題なのに
同じくだんまりなのは解せない。
出版業界はほぼこれでダメ。
黙ってやり過ごして行こうっていうのは安易過ぎる。
出版不況と言われながらも面子が大事とは、まだまだ業界は余裕があるということか。
愚かしい。
漫画家サイドも
既存の多くの一般作品がこのコードに触れるし、
エロで食べている作家も多いのに
漫画家協会とかはこれも無反応に近い。
会長の小島功を始め、常任理事や理事の大先輩達の多くが
成人漫画を描いてここまで来た人ばかりなのに、
公式見解一つ発信していない。
業界団体として、かつ利益団体としてまさしく失格だ。
同人誌の世界もやはり巨大な市場を有しながら
目だった動きをしてこなかった。
いつぞやの豊島区民会館でのシンポジウムも
性器の描写表現の自主規制技術の話題にニヤケながら終始し、
付随する業者の「コミケ基準で商売してますから大丈夫」
という嘘でごまかされ、
(実際はコミケで販売禁止を言い渡された作品を無修正で売買している)
同人誌業界としてどう運動していくべきかのアクションには
まるで触れていなかった。
その場しのぎの安易な態度だったと誹りを免れないだろう。

本来はこの幾つかの業界やグループが組んで
学者や弁護士を交えた議論検討の中で
イメージと定量的検証、運動の方法を見出し、
都や国の複数の議員とアクセスして
まっとうな議論になるよう図るべきだったのだ。
でもどの業界も音頭をとることはしなかった。
そのツケが今なのだ。
どうやら今月末までに議会で通してしまおうという気勢らしいけれど、
もうこの段階まできてしまったら、
あとはゲリラ攻撃しかないのは常だ。
それでもゲリラにはゲリラの戦法がある。
党派会派はさておき、
まずは都議会議員に個別にメッセージを送るしかない。
(コネがあればこしたことがない)
(メールよりも手紙やFAXなどのリアルがあるツールで)
(推進派よりも懐疑派あてに)
(古参議員より若手を中心に)
なるべく感情的ではなく冷静に、
コピペなどのおしきせの文章ではなく、
筋を通した自分の言葉で、
問題を指摘していくしかない。
議員には反対するための理屈を求めている人もいるのだから。

「都知事の作品をまっさきに有害図書に指定してやれ」
なんてシニカルで安易な態度で卑屈に見栄を切り
あげく何も行動しない態度が
結局は自分の首を絞めるのだ。

(堀田さんの文のみ引用転載)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1003/09/news103.html
●「キャラクター表現へのはっきりとした蔑視」
 漫画編集者出身のノンフィクションライター・堀田純司さんは、ITmediaの依頼に対し、以下のコメントを寄せた。
 僕は20代のころ、ある青年漫画誌の編集部に所属していましたが、そこでは漫画について“人間の欲望の全肯定である”と教わったものでした。漫画表現が人間の欲望の反映であるならば、当然そこには性的な表現も含まれます。今回の改正では「非実在青少年」として、キャラクター表現における性描写を規制の対象にしていますが、これには2つの問題があると感じます。
 まず1つは、同人活動などでは、非商業ゆえに大胆な描写の漫画表現が存在します。しかしこうしたアマチュアのファン活動こそが、日本のキャラクター表現の豊かな土壌となっており、今回の規制はこの分野を直撃します。もう1つは、何が有害なコンテンツであるのか、その基準があいまいであること。表現とは時に死と愛に踏み込むものであり、読むものの感情にゆらぎを与えるからこそ表現と言えます。
 こうした領域で、何が有害で有害ではないのか、本当は誰にも判断することは難しいものです。難しいからこそ、改正案の文面もあいまいになっていることを、この案を考えた人は自覚したほうがいい。あいまいな領域を恣意的に「有害である」と解釈されてしまう風潮が高まれば、日本の表現はずいぶんと窮屈なものになるでしょう。
 大手出版社からの刊行物でも、各都道府県で有害図書に指定されることは案外、少なくないものです。それが出版物の大多数が消費される東京都でこうした規制が行われると、表現の活力が大きく奪われかねない。高名な文芸作品とされているものでも、アウトのものが出てくるでしょう。文字はよくてキャラクター表現だとアウトなのでしょうか?
 実写による児童ポルノとは違い、キャラクター表現には被害者はいません(前者への規制は必要だと考えます)。また青少年への悪影響も検証されてはいません。こうした検証が行われないままに、かくも感情的な規制が行われるのは、上のような問題があり、あまりにも影響が大きいので賛成できません。
 「青少年を性的対象として扱う図書や映画がまん延させることで性的対象として扱う風潮」という内容が改正案には出てきます。この風潮を「助長すべきではないという機運の醸成に努める」とされているのですが、しかし、そもそもそんな風潮は存在するのでしょうか。
 アダルトゲームメーカーはどこも経営がかつかつ。5000本売れたら大成功という、ささやかなペイラインでせめぎあっているのが実情です。
 逆に一般ユーザーにまで話題になるほど売れている作品は、むしろ性表現はソフトです。漫画作品でも同様です。ハードなものも存在しますが、これらはむしろニッチといってよく、「青少年を性的対象として扱う図書や映画がまん延」という風潮が、本当に存在するかどうか大いに疑問を感じます。それで売れるのなら、むしろ自分も参入したいくらいですが、そんな簡単なものではないでしょう。
 世界を白と黒に分け、黒いものを抹消すれば物事がよくなるという思考は非常に危険です。もし青少年によくない影響を与える風潮があるのであれば、それは虚構ではなく、現実そのものでしょう。何の検証も行われないままに不快な虚構を抹殺してしまうのではなく、どんなに回り道であっても、この現実社会そのものをよりよくしていくことが、文化的な国のやり方ではないでしょうか。
 今回の改正案については、オタク文化への無理解というよりも、キャラクター表現へのはっきりとした蔑視を感じます。もともと、漫画の神様、手塚治虫さんは、自分が医学博士号を持つことで、漫画への偏見が収まればと考えていたといいます。永井豪さんは、「ハレンチ学園」(1968年連載開始)のときのバッシングは、身の危険すら感じるほどだったと語っています。
 バブル崩壊後、失われた10年を経てすっかり実業分野に自信を失った日本社会は、キャラクター表現が海外で評価されているのを知り、それを「クールジャパン」などともてはやすようになった。そして、かつてのような偏見、批判は下火になったかのように見えました。しかし、ある特定のイデオロギーに凝り固まった人や、文化に対して視野の狭い人が集うコミュニティでは、かくも古色蒼然とした偏見が、まだあることを痛感させられます。白昼にネッシーが多摩川をゆうゆうと泳いでいるのを見た気分、といいましょうか。

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