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2010年5月 6日 (木)

物語の外へ[3]吉田康一郎都議への訪問より

前回は失念してしまったけれど、
笹井さんの冊子の名前は
『東京都の青少年の健全な育成に関する条例の改正案についてのコピー本☆条例付き☆』
である。
オマケに改正案の条例全文が網羅されている。
増刷分は「文学フリマ」にて、どこかに委託されるのは決まりそうだ。

4日からこっち、改正案においては
「漫画家を都議会に参考人招致」なる記事が産経から配信されたけど、
それもどうも確度が怪しくなってきている。
同じ漫画家といっても僕には関係がない話だし、
そんなものかいと思って日記の追記で触れてみた。
けれどその後、招致は9月になっただとか曖昧になったり、
民主の会派で議論の俎上にものってないという話も聞こえる。
編集者時代に、国会議員番をしていた男が、
デマともホントともつかない情報を仕入れるたびに、
議員秘書へ吹聴してまわり、失笑をかっていたのを思い出して、
ちょっと自分を恥じてしまった。
政治の現場はこういうことばかりで怖い。
そして本当に大切な情報や動きは、隠していなくても表に出なかったりする。
気をつけないと。

[追記]この文は事実誤認がないよう、吉田議員本人より校閲をいただいてます。

で、レポートの続き、最終回。

■僕らは何をすればいいのだろう■

僕はYoutubeで、
石原都知事がこの改正案の提案説明をする映像を見ていて思ったことがある。
http://www.youtube.com/watch?v=seH8av-Gxcw
官僚の用意した文面の棒読みで、興味のなさそうな態度から、
知事は法案を十分に理解してはいないであろうということだ。
この改正案の話題が沸騰していた折、
一部の人は知事の著作「太陽の季節」を有害図書に指定してやれと、
皮肉った罵倒をしていたけれど、
僕はまったく別のことを考えていた。
もしこの改正案が通過してしまったら、最後の手段の一つとして、
都知事に拒否権たる再議権を行使してもらうことだ。
友人の作家・皆河有伽から教えてもらったのだけれど、
「太陽の季節」の映画化(1956年)の際に、
その過激な内容が性的に露悪で暴力的であり、青少年に悪影響を及ぼすと、
映倫の法制化の動きにまでなった。
そのとき、東宝の取締役だった森岩雄(ゴジラの企画を通した人)は、
民間の自主規制が謙虚に守られているにもかかわらず、映倫立法化の強制は
映画界のみならず日本民主化の戦いであると語った。
それがあって今の自分がある恩義と、作家としてその志を都知事に思い出してもらえれば、
自らの提案の体裁なれど、審議不十分として拒否権発動も可能だと思ったからだ。
まぁその実現性は「奇跡」のような可能性、実現性ではあるのだけれど、
その知事の作家としての運命の皮肉のようなことを目の前の吉田議員に話したら、
「是非、都知事にもアクションを起して下さい」と返されて、少し驚いた。
相手の活動を見極めてという注釈つきではあったけれど、
自公はもちろんとした他党の議員や知事にも、
罵倒や非難ではなく、大切なものへの想いを伝えていかないとならないと改めて諭された。
そこには先の都議会で、多くの人から寄せられた手紙やE-mailが、
古参の議員を動かした姿を見ているゆえの確信が感じられる。
吉田氏自身、自分の活動に市民の反応があると素直に嬉しいと言う。
お礼であれば達成感がみなぎる。活動を支え、モチベーションを維持してくれる。
活動への評価が個人献金に結びついてくれたら、地方議員の苦しい財布も救われると、
事務所の風景を見まわして苦笑する。
都の議員歳費が約100万として、そこから事務所を借り、
秘書を1人雇い(もちろん自分の生活費も)、
事務機や配布印刷物や通信費などの活動の諸経費を捻出していけば、
厳しいフトコロ事情になることが僕ら社会人なら容易に計算できるだろう。
議員活動は住民に対してその歳費でまかなうボランタリィなものではあるけれど、
企業や団体、役所と癒着などせずに、熱心に活動すればするほどキツイ。
寄付や献金は、活動のみならずその意思への大きな支えになる。
吉田議員の苦笑には、そんな本音が垣間見えた。

僕は今の主戦場は議会であると考えている。
あえて物語り風に例えるなら、
闘うのはそれぞれ持つ武器も異なれば頭数も異なる会派(党)という部隊に所属する議員だ。
僕らは後衛か補給部隊、または故郷の家族でしかない。
であれば僕らは何をするべきなのか。
気持ちを多くの手紙にしたためたり、情報や理論武装をつめた弾を送ったりと、
議員が闘いやすい条件を作ってあげることしかない。
議場の外から援護射撃できる人や組織も限られている。
その限られた条件をどう支えるかだ。
議員もその考えに肯いてくれた。
そして改正案を学ぶこと。
法学部卒の僕から見ても、およそ現代に作られたとは思えない醜怪で理解しづらい文面。
都や規制派は「誤解がある」という戦法をとって議員や識者の懐柔を図り始めている。
某漫画の表現は大丈夫などと記した珍妙な見解や、解説の資料の配布もしている。
そこを突くには学びしかない。
さらには、規制の反対を趣旨にした話し合いの場を作っていかなければならない。
これは一般の個人では限界がある。
漫画家協会(政治活動はしないと明言している)でも、
全国同人誌即売会連絡会でも雑誌協会でも良い。
http://sokubaikairenrakukai.com/
http://www.j-magazine.or.jp/
組織が音頭をとったり、ノリシロとなって手を取り合い、
一定の権威を有して理論と戦略をとりまとめていって欲しい。
それでないと推進派の組織活動と同じ重さで対抗できない。
僕らはどこかの組織に音頭をとるよう働きかけることしかないだろう。
そして出来た場所に意見を持ち寄るのだ。
どこかの陳腐なゲームのストーリーのように、陰謀や黒幕を設定し、
「表現の自由」という自らの正当をもってして全面対決を煽っていく先には、
荒んだ不毛な結末しかない。
黒幕も、規制賛成派の議員ですらも対象の敵などではないからだ。
不謹慎な性描写や暴力は子供に好ましくないと至極簡単にイメージを抱いてしまう、
市井のありふれた多くの人達、その心の中にある公約数、想いの総体が相手なのだ。
それをはたして「敵」と呼べるのか。
吉田議員は経験的にそれに気づいている。
戦場と例えたが、内なるものとの対話に近い。
だから正論によるぶつかり合いではなく、多くの相手を納得させられる修正にこだわる。
着地点を見出そうとするのだ。
それが人の社会であり、現実だから。
冒頭述べたように、すでに身体の一部は持っていかれることは覚悟した戦いになろう。
どこの部位になるのか、それによっては批判も生まれようけれど、
内ゲバのように中で争えば、その部位は増えていくばかりだ。
そして「どろろ」のようには取り返すことなどできないのを、忘れてはだめだ。
かかる不安を解決するため、
物語が好きな僕らは、自ら創った物語の外へでていかなきゃならない。

漫画やアニメには確かに非倫理的で過激な描写が一部に存在するけれど、
そこには語るべき心があると、漫画家として僕は認識と自負をしている。
唐突なネットや雑誌の裸とか、AVの煽情的に羅列する画像とは異なるのだ。
漫画に描かれる性が仮に悲劇や暴力を伴っても、
そこに悲しみや苦しみがあると理解してもらえるし、
幸せなものならそこに価値を見出してもらえる。
実際の被害者など存在しない創作物であるからこそ、
漫画のみならず文学も、その心の追体験をもってして教訓性を長く使命の一つとしてきた。
また作品単体の清濁に左右されるのではなく、
多くの作品に触れることの混沌とその相対化こそ自立した情操を育む。
そして無秩序で多様な情報が、否が応でもある現代だからこそ、
そこに方向性を与えるのはドラマであり心だ。
その機会を奪うことは、教育や育成という観点からは時代にそぐわないのではないか。
僕は漫画の表現においては放任主義に近いのかもしれない。
その意味では議員の運動とは完全には一致しない。
(議員の他の政治信条とは相対してしまうものもある)
でも選別された類型の物語に閉じ込めることこそ、人間性を貧困にする。
それを回避し、機会を奪わないために最善を尽くすことでは、志を重ねられると思う。
議員事務所を退出するとき、
書棚にUCCコーヒーのエヴァ缶、アスカとレイが飾ってあるのに気づいた。
そう、僕らは同じ大切なものを守ろうとしているのだから。

ここでとりあえず筆を置くことになる。
個人商店の漫画家としては、仕事の進行に支障をきたしてしまうので。
多くの漫画家やアニメ関係者が規制反対の意思を持ちながらも
発言や行動ができないでいるのは、
厳しい仕事に追われていたり、業界独特の事情がからんでいたりするためだと知っている。
僕はこの2ヶ月、たまたま単行本作業などの関係で
連載をお休みしていたから、自分にできる範囲で動いて考えて、発言をしてきたつもり。
(まぁその間、無収入なのですが)
それはおこがましいと指差されるかもしれないけれど、
声をあげることが難しい状況の仲間の代わりに
今、自分ができるのなら、やろうという気持ちがあった。
それが叶ったかはわからないけれど、
編集者や団体交渉、企業法務や経営、そして漫画家など
どうにも珍妙な経歴で得てきたものを動員して、
この問題について冷静な目線で発信に努めてきたつもりだ。
また今回の議員への訪問で、僕は霧中から抜け、遠くが見渡せた気がした。
だからもう変な力みも、おかしなブレもないところに立てたつもり。
つもり…ばかりの自己満足かもしれないけれど、
それらが何か少しでも誰かに伝わり、役にたてたのなら、嬉しい。
改正案周辺の動きはまさにナマモノで、あちらこちらできな臭い。
東京発で全国に飛び火しているこの動きを、
やはり決着の指針になるのも東京だ。
吉田議員の言っていたように、納得性の高い修正案が
騒動のすべてを左右するだろう。
筆を置くとは言っても、注視はしていきたいし、
こうしてまとまらずとも、発信はしていくつもり。
何かあれば身体をつかって行動もしよう。
その意味ではきっと
[まだまだつづく]

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