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2010年7月

2010年7月22日 (木)

さいたまでアリエッティ

「見た人がちょっとでも元気になってもらえたら」と 
米林監督はパンフに言葉を寄せているけれど、 
元気になれっかよ!という映画。 
いや、決して悪い作品じゃない。 
ほめる所は物凄くあると思う。 
でも元気になんてなれないし、 
諸手を上げて良い作品とも言えない。 

「虚数霊」の仕事の本格稼動の前にWindows7マシンを導入しておこうと 
買ったまま実家に置いておいたPCを引き取るべく、久々にさいたま市の親元へ。 
バスを降りると東京都区部とは明らかに違う濃密な緑の芳香が、 
夏のいきれに任せて鼻腔を満たしてくる。 
街中では殆ど感じない、自分の中にある「夏の匂い」だ。 
朝から30℃を越える気温だけれど、 
この香りに気持ちが向かって、暑さはさして気にならない。 
埼玉は嫌な思い出が多い嫌いな土地だけれど、 それは人に因るものが殆どで、 
僕はまぎれもなく、こうした木や水の要素を好ましく思う。 
これがないと生きている感じがしない。 
いつかは今の都心の家を出て、自然の息吹を感じられる場所へ越すのかもしれないなと、
歩きながら漠然と思う。 

『借りぐらしのアリエッティ』を 
実家へ帰る前に、さいたま新都心のMOVIXで観た。 
予め前売券を購入していたのだけれど、窓口で1000円のサービス日であることを告げられた。まぁいい。 
お客の入りは上々。わりと年配者も多かった。 
不思議な客層だ。夏休み前の平日午前ならそんなものなのか。 

アリエッティは線の細い映画だ。 
「ご存知!宮崎アニメ」という骨の太さというか、豪放磊落な好い加減さはない。 
だからなにかそういったイメージを求めて劇場に足を運んだ人は、 
肩透かしというか、カタルシスを得ることはできないだろう。 
この物語は喪失と後悔に彩られているから。 
(実際、もの足りなさそうな顔のカップルとか多かった) 
しかしそれがいけないことではないし、 
映画の魅力を損なうものでもない。 
惜しむらくはその胸に穿たれる孔から抜ける風が 
僕らにまで多く届かないこと。 
それはこの作品がジブリ製のアニメとして生まれ、新人の監督ゆえの 
宿命であり難しい課題だったのかもしれない。 
高畑勲監督ならば、きっともっとしたたかで上手に伝えられたろうと思う。 
たぶんどこかに覚悟が足りない。 

賞賛するべきところはしかしまた多い。 
「ハウル」の時にはさながら不気味の谷にあるかのような気色悪いタッチにまでなった絵の描写が、 
(「ポニョ」はさておいて) 
漫画絵としての省略と誇張の中に含まれる想像力に裏打ちされる豊かさに
立ち返ってきたように見える。 
色彩の設計も、美術の設計も美しい。絵のテンポや構図も良い。 
音楽もこれまでの久石作品に代表されるような旋律や編成の美しさ・妙とは異なり、 
刺繍された金糸銀糸のようにキラキラと繊細に輝く。 
配役も無理や珍妙さを微塵も感じさせず、 
特にアリエッティを演じた志田未来は良かった。 
TVや映画の出演作では滑舌の悪さを感じていたのだけれど、 
驚くほどしっくりとした情感のある声と演技に驚かされた。 
またどこかで彼女が人物を演じるアニメを見たいと思わせるほど。 
だけどこの映画は足りない。 

小人の存在を感じ続けた家族の系譜、 
小人の生活の閉塞と限界、 
翔の想い、 
アリエッティの想い、 
滅びと死、 
翔とアリエッティ、 
媒介としての家と自然、 
未知の明日、 
編みこまれた幾つかの要素や想いの多分どれも 
ちゃんと誰かに感じるようにまで届いていない。 
どれか一つ、ほんの一瞬でも観る者と繋がったら 
他の要素がにわかにその存在に力を帯びて相互に結びつき、 
意味を訴えてくるだろうに、 
そのどれもがきっかけたる力を持たされていない。 
例えば翔もアリエッティもローティーンとしての生理というか、 
世代としてのリアリティを与えられていない。 
どこかに人間として当たり前に気持ちを重ねられる部分が 
弱いと言うか、どうも見つけられない。 
硬質でよそよそしくも行儀正しい、物語世界の住人でしかない。 
厚意のすれ違いのもどかしさとか、 
翔とアリエッティそれぞれの交錯や至らなさをちゃんと描けば 
それで充分な心の動きのあるドラマになるのに、それもなおざりなまま。

小人の住まう屋敷で育つ一族に連綿と続く想いというか感傷も 
さして強くは語られない。
だから劇中の人物達の動機づけに何かがいつも足りない。 
僕は絵的には表情があるようでいて、しかし情感として人物に肉迫できないのは、 
これまでの宮崎ジブリ作品が培ってしまった 
一つの型のように思える。 
良い意味でも悪い意味でもストイックで、生臭さがない。 
(高畑作品は逆にクドイくらいのえげつなさがあるのに) 
そしてテンポや絵に重きを置くがゆえに「間」や「場」がない。 
本作も100分に満たないけれど、もっと尺を与えてもよかったのではないか。 
『アリエッティ』はその「細さ」なるがゆえ、アクションでは語りきれない要素を扱う作品なのだから、 
人物の気持ちに歩み寄るための「間」が 
たとえ動かずに無言であっても、与えてあげられるべきだったろうし、 
人の住まう背景だからこそ、語れる重さや気持ちがこもると思うから、 
そんな「場」の語る情景がもっとあってよかったように思う。 
テンポでは受け取れない想いもあるのだ。 
でも、ジブリ作品はそうした演出は好むように見えない。 
だから、翔の抱える不安も、アリエッティ一家の悲壮も 
物語の底流からかもし出されてこない。 
だからエンドクレジットの映像が 
僕にはどうしても空虚で、感慨が薄い。 
アリエッティの眼差しに何かを見つけることができなかった。 

でもまぁ新人監督としては 
「ゲド」とは大違いにちゃんとしていたと思う。
責任があるとしたら、あの鈴木プロデューサーだろう。
これまでのジブリ作品とは違うベクトルなんだということをプロデューサーは伝えていくべきなのに、 
紅豚とかハウルとかトトロとかベタにジブリな作品をTVのタイアップに添えて、
二言目には「宮さん宮さん」で
売ることに執心し、
この作品への心遣いがないこと。
だから、見立て違いのギャップに困惑する観客が頻出する。
商売人として狡猾、製作者としては卑怯な姿勢だと思う。

願わくば米林監督が今後、経験とともにもう少しわがままになって、
自分で表現したいものを心に掲げて、 
ジブリの呪縛から解かれることを期待する。 
さすれば、ぐっと良い作品が撮れそうな気がするからだ。

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2010年7月16日 (金)

原隊復帰ってことかな

昨日は友人の漫画家・松田未来さんのお手伝いに清瀬まで。
帰りに西武線のホームで「西日暮里」までどう行けばよいのですか?と
アジア系外国人に尋ねられたので、
僕の乗り換え駅ということもあり、「一緒に行こう」と言って道中を共にする。
聞けばウランバートル出身のモンゴル人だそうで、
今は、日本語学校で学び、来年は大学を目指すと、片言で教えてくれた。
僕もモンゴルで合宿型の馬術学校を出ていることもあり、
つたない言葉ながらも、そこそこ共通の話題をもちつつ楽しく過ごす。
JR西日暮里駅で「おやすみなさい」という僕に
お礼の言葉を返してくれて、それでお別れ。
外国の人との出会いは面白い。
見ず知らずでも来訪者は歓待するという習慣に触れたのは
モンゴルの草原の天幕でのこと。
出会いは一期一会なれど、そのもてなしは、また誰かに返せばいい。
たとえ草原でなくても、それは巡っていく。

一昨日、世田谷でMF社の担当さんを交えて新しい企画の会合。
久しぶりに降りたその街は
昔、学友が住んでいた頃と様相を変えたけど、
人の暮らす街としての活気があって、
梅雨晴れの空を見上げて人待ちをする間に
吹き抜ける風と音を身に受けて楽しむ。
仮に「ブルー・ハーベスト」とでも呼んでおこうその新企画は、
(っていうタイトルで笑えるのは果たして何人いるかな)
どうやら漫画家としての僕の出番よりも、
会社と会社の折衝がまだ先行すべき段階であることが、
入り組んだ情報の流れを今回整えてようやっと見えた。
であるなら、スタートはしばしお預けということになる。
じゃあ僕はどうしましょうということで、
今月のフラッパー誌で「しばし休載にして再開をお楽しみに」
と触れ込んでおいた『虚数霊』の連載を
舌の根も乾かぬ9月発売号からまた続ける運びになった。
(ていうか台割が空くのかヒヤヒヤしたった)

休載だからと今月はゆっくり家事をこなしたり、
友人の仕事を手伝っていたりしたけれど、
8月の執筆日程のことを鑑みると
まるで余裕なんてないことが明らかに。
世は夏休みや連休になろうとしているけど、
今日明日からはさっそく仕事に戻る感じになる。
連載以外の幾つかの仕事を仕上げて、
夏コミの原稿を描いて、
そして連載に戻ろう。

ということで原隊復帰なのだ

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2010年7月 8日 (木)

宇宙ショーと告白

久々に映画の感想文。

「宇宙ショーにようこそ」
僕にしては珍しく試写会に当たったので、
半蔵門の東京FMホールにて観賞。
音楽ホールとして使用する会場なので音響は良いのかなと思っていたら、
フラットな床に会議用のイスが200ばかり並んでいる状態にビックリ!
しかも僕の前にはやたら座高が高い男性が座って、
しかもしかも上映中もイスにもたれて頭を低くしてくれるような配慮がぜんぜんなく、
お蔭さまで音響のことに気が回るどころか、
画面の中央下がずっと見えない状況で
左右に首を振ってなんとか観た感じ。参った。
僕のすぐ後ろの座席の人は途中で席を立って帰っちゃったのは
この前の男性のせいではないかと思うほど高くそびえておりましたよ。
なんだか普通の劇場でもそうだけど、
大勢で映画を観るときの配慮のない人が増えた気がする。
何年か前に、母親を映画に誘ったことがあったけど、
もう何十年も劇場で観る機会がなかったため、上映中のマナーが失われていて、
家でテレビを見る感覚で隣の僕に普段と同じ音量で話しかけたりと、ヒヤヒヤしたが、
レンタルDVDとかで映画を観る感覚で
劇場に来る人がけっこういるのかもしれない。

で、件の映画だけど、
そんなこともあって、もう1回はちゃんと観たいなとは思えど、
「もったいない」っていう印象の作品だった。
とても丁寧に作られていて、
作画の質も高いし、お話も誠実、総じて好印象なんだけれど、
2時間17分の尺がありながら、絵もお話も詰めこみ過ぎ。
「かみちゅ!」の神様世界の描写はこういうボリューム感で
表現したかったのだろうなという圧倒的物量が
なんだかずーっと画面に溢れている印象で、
とにかく構図にも動きにも「ヌキ」が感じられない。
どこを見ればいいのか迷ってしまったりと、オナカいっぱい。
登場人物たちの役回りには齟齬もムダもあまり感じなかったし、
心理をそれぞれ追っかけてはいるけれど、
このそれぞれゆえに、人物描写が散漫で弱くなってしまって
どっしりと気持ちが染みてくる感じが足りない。
もうちょっとナツキに寄ったドラマ仕立てにしたほうが、
しっくりと伝わるものが語れたように思う。
あと、終盤の子供達の活躍を支える設定が、
多分、一般の観客には理解しづらいかも。
恐らく重力と筋力がその鍵だと思うのだけど、
それを語る2回ほどのシーンがそれほど印象的じゃない。
「ドラえもん」の月でのエピソードで
1/6の重力ゆえに力持ちになったのび太たちの描写を
皆がこの映画と結び付けられれば大丈夫なんだけれど、
どうなのかな。
そしてこの画面の物量とお話の細かさが映画の理解を妨げ、印象を複雑化して、
すっきりしたカタルシスを得にくくしている。
「アバター」が絵的な物量に対して
脚本が極めてシンプルなプロットなのは、そういう意味で正解だったのだなと思う。
と、文句をつらねているけれど、
良い映画だと思う。ゆえに残念でもったいない。

「告白」
浦和での昼食会のあと、同席した松たか子ファンの友人を誘って
駅前のユナイテッドシネマで観賞。
1人で観ないで正解だったかな。

「リリィ・シュシュのすべて」を観たあとと同じような後味が残る。
中島監督は「嫌われ松子」や「パコ」で見せた
悲喜劇の文法を今回は用いることなく、
徹頭徹尾、怜悧な美しい画面で静かに狂気を描ききっていた。
子供は社会の未来だと思う。
しかし子供は社会の中心でも王様でもない。
その子供が自らを主役と気取り、その錯覚の狂気に満たされ、
モラトリアムを永続させていけば
社会は自死を迎える。
だから学校という閉鎖空間にありつづけたこの映画は
救いなんてないんだろうな。
僕は周囲に子供のいる環境に触れていないので、
今の学校がどのような状況にあるのか、その理解は想像でしかない。
でも描写された発狂した中学校は、
笑顔で「殺してやる」と目玉に鉛筆を衝きたてられ、避けなければ失明していた
そんな境遇を経験した僕の小学校時代の温度に酷似している。
僕が子供の頃から子供が大嫌いな理由を作った空間。
(僕の左目の下のほくろは刺さった鉛筆の芯の炭素が残ったものだ)
あの差別と暴力と集団主義と意味不明な無責任感に狂騒した感覚は
今や中学まで支配しているのかなと思うと、
なんとかその支配を解く強い必要を感じずにはいられない。
この映画は一縷の希望も楽観も許しはない。
でもだからこそ、映画を観た者に希望を与えると思う。
己を主役と錯覚し、しかし満足するほどの全能感を得られずに苛立ちを募らせる
狂った子供達に、
復讐という形で大人が全身全霊でそれを否定し、
己が小ささ惨めさ弱さ、そして無力無能を知らしめる。
自分が世の中において絶対的に脇役である。
それを意識したときから人は大人になる。
その機会が不足した社会であるからこそ、この映画は価値がある。
社会に子供への回答という希望を灯すのだ。
松たか子が演じる教師が最後に口にするセリフは
まさにここからが大人なのだと諭すように甘美だった。
R-15になんて指定せず、子供も大人もどんどん観て欲しい。

ちなみに昨今、「子供」を「子ども」と表記する風潮があるが、
だからこそ僕はその逆の思想で
編集者時代からずっと「子供」と書いてきている。

そういえば、劇場で「借りぐらしのアリエッティ」の予告編(第2弾?)を観た。
主役を演じる志田未来は普段の演技を見ると滑舌が悪い印象だったのだけど、
思いの外、味わいのある声質と芯のある演技で良かった。
垣間見える画面やセリフから、どこかにドロっとした重さがお話にも感じられ、
宮崎駿監督が脚本に入っているとは言え、
(またどこまで手を出してるか分からないけど)
これまでの宮崎ジブリ作品とは違う感触の心理描写に出会えそうな予感。
楽しみになった。

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2010年7月 6日 (火)

評価と反省

今月のフラッパー誌も発売になったので、
自分の仕事での幾つかの誤算と言うか失敗について、
触れてみようと思う。
脱稿後、機会を見つけては友人に意見やアドバイスを乞うたりして、
出来る限り冷静な判断がなせるよう努めてみたけれど、
それでも精神的にキツイものは、自分で脱稿後に絵を眺めることもできないので、
不十分な側面があるのは、判っているつもり。
僕が以前に勤めていた職場は、
年度変わりに年間事業計画の実施精度や効果を「評価と反省」という文書にして、
つまびらかにする方法をとっていた。
今度の参院選には、前の公約たる「マニュフェスト」へそうした診断を加えて各党臨むべきだと思うのだけど、
TVなどでイイワケするにとどまるのは、首を傾げたくなる。
なので、僕は僕の仕事の「評価と反省」を文章で明らかにしておく。

この数ヶ月間で自分として悔いの残る仕事は二つ。
○iPadを視野に入れた電子書籍における短編小説へのビジュアルの寄稿
○フラッパー誌8月号の「虚数霊」第10話後編の原稿

前者は、入稿以降にその絵のファイルを二度と開けていない。
編集者にデータを送信後、電話をかけて「画稿料は半分でもいい」とまで言ってしまった。
市場の新しい試みに意気をもって臨んでいる相手と、小説を執筆された作者に、
充分応える絵を描けず、申し訳ないことをした気持ちでいっぱい。
【おかれた環境】
原稿の執筆環境は、
Appleの審査への対応や事業としての目論見で議論が重ねられた関係で
小説は二つのプロットのどちらを書くかがギリギリまで検討されたため、
最終的なテキストが僕の手元にきたのは〆切の数日前。
僕がとれた作業時間は、
F誌の連載原稿の脱稿をして、単行本2巻の最終作業に入る合間のたった1日、
それはこのビジュアルの〆切の前々日という有様だった。
編集部からは、「内容に厳密にリンクせずにイメージ先行でよい」
「ネタバレにつながるような描写は注意」「女性読者開拓につながるアプローチを」
という方針を伝えられていた。
女性読者というものを意識して、
普段の自分の漫画絵的なキャラの成立を組み替え、
塗り方のタッチも実線を含め柔らかいものにしようと、
それまで時々イメージは膨らませていた新しい試みでアプローチをしてみた。
しかしそれが迷走を招いて、収拾がつかないまま、
「作る」作業ではなく「取り繕う」作業にばかり時間を費やし、
結果、タイムアウトだった。
【評価と反省】
僕の最初の誤りは、充分にイメージを練る期間がないのに、
親しい編集者からの依頼や、新しい事業展開の目論見、著名作家との仕事という
欲や甘さから、仕事を請けてしまったことだ。
この数ヶ月、僕は殆ど休みらしい時間をとらず、1日16時間位の稼動で、
自分の能力的には100%近い出力で仕事を回し続けていた。
そこに20%以上の何かを足そうというのは、
通常運転が80%で動いていればこその120%という無理であって、
己の実力を省みずとはこのことだ。
この80%とという出力は、これから長くこの仕事を続けていこうとするときに、
意識していかなければならないことは身に染みた。
自分の甘さや欲に負けてはいけない。身の程を忘れてはいけない。
新しい試みは価値がないとは思わない。野心も大切だ。
でも時間が許さない中で、商業ベースで試すことは危険。
組む相手がある。作品は自分の名前で外に不出来をさらし続ける。
プロならば、人様にお見せするに足りるクオリティが維持できる思考と作業を第一に。
今回、僕の人体構造の把握の曖昧さも露骨に出てしまった。
慣れない方向からのポーズの描写が仇になった。
絵は慣れや癖で処理すれば、見えない穴が大きく穿たれる。
修練が足りない。もっと人を描かなければ。
表現の収拾がつかなかったのも、自分のまとめ上げる見識の不足だ。
もっとものを見て、考える時間を作らないと。
家にこもらず、外にでて世界に触れなければいけない。


後者は見る人が見れば判るが、
今回は「鉛筆」だ。ペン入れをしていない。
正確に言えば「下書き」をスキャンして使い、
そこに旧版のペン入れされた原稿も合成したハイブリッドな線画になっている。
つまり漫画家として、周囲からの誹りを免れない。
読者はもちろん、編集者や仲間の漫画家に恥ずかしい。
ただ、結果的に収穫もある取り組みになったのもまた事実。 ゆえに想いは複雑。

【おかれた環境】
今月の連載は10日近くまで単行本作業をしていた状況と
30P超えという頁量がいつもより多くなってしまったことが重なり、
かなりキツイ日程で進まざるを得なかった。
僕は下書きにおいて、背景や効果線、カケアミまで全部自分1人で描くスタイルなので、
時間の短縮は図れない。
自分のスピードで粛々と前に進むだけ。
しかし今回この下書きの最中に、扁桃腺が腫れて熱を出してしまう。
この1年以上、比較的体調を崩さずに過ごしてきたのだけれど、
この数ヶ月の働きづめで免疫力が低下していたのかなと思う。
最初は熱と眩暈で仕事が手につかず、あわてて医者に行き、薬を処方して貰うも、
熱は小康したが、薬の副作用か、意識が朦朧として集中力が維持できなくなる。
まともな線が引けず、何時間もかけて描いた絵が、
見直すと使い物にならない泳いだような線ばかりで、
泣きながら消しゴムで消す作業を何度も繰り返した。
(実際、薬の服用を断ったら、この朦朧感は消えた)
また、前号からネーム(絵コンテ)の作法を変えたのも仇になった。
それまで下書きと変わらないほど描き込んで、
演技プランなどを盛り込んできたけれど、
それでは時間がかかりすぎる、
また下書き作業で、トレス的な線というか表情に感情がこもらない、
描くことのモチベーションを維持するのが大変などの弊害が生じていたので、
もっと簡易化して取り組んでいたのだ。
でもそれはつまり、下書きの段階で相当の集中力を持って、
キャラの演技を考えて、それを絵にするという作業が発生することを意味する。
それが熱と薬のせいで叶わなかったのだ。
そのため、下書きのアップが通常のペースより数日遅れる。
セリフの写植のために下書きのコピーをとりに担当が訪問したとき、
「あと5日あればペン入れが済みます」という僕に、
雑誌の本当のデッドゾーンまであと4日もないと告げる担当編集。
下書きをじっと見つめる担当が一言「鉛筆でいけると思います」。
それで下書きをスキャンし、Photoshopのトーン曲線や明度コントラストをいじって
アップコンした状態を試して、それを雑誌サイズの縮小率でプリントしてみる。
「これなら大丈夫」という判断をもらい、
鉛筆で仕上げることに決定する。
ただ、ペン入れをすることを前提にした線であったので、
1日かけて可能な限り補筆。
データに上げた段階でさらに調整をし、トーン作業に入る。
【評価と反省】
スケジュール管理そのものの失敗はまずある。
単行本作業が二ヶ月間の連載休止期間中に出来なかったこと。
これはある意味で、
通常の連載時に必要な手数を入れた原稿を納められていないことを示している。
ほぼ全部の頁に手を入れた。
デッサンの修正からコマやキャラの差替え、トーンの追加のみならず、
まつ毛の本数や瞳の大きさ、くうたんの目のハイライトまで、作業は尽きなかった。
追加の頁も20枚近くに及ぶ。
単行本購入者へのバリュとも言えるが、それではダメなのかもとも思う。
そしてそれが押した結果が今回の状況を生んだ。
風邪という要素を加味しても、先の80%出力の件も絡めて、
僕は僕の仕事の適正化をしていかないと、
多分どこかで倒れてしまうと思う。
鉛筆での執筆という発想は、実は随分以前から
編集者との間では話題になっていた。
それは僕の下書きがすでに描きこみが細かく、
また迷い線が基本的にはないので、
このデジタルの時代なら可能だろうということだった。
確かに今の下書きでOKになるなら、実質1週間は短縮できるし、
作業内容や日程を緩和できる。
ただ、「虚数霊」はペンでの作品という位置づけが
旧版との絡みもあって自分の中にはあったので、
これまでペンで通してきた。
それが崩れたのは悔しく、恥ずかしい。
今回の鉛筆主線による原稿について、
編集部サイドや友人からは決して悪い評価ばかりではない。
キャラに関しては、これまで製版なのかデジタル化なのか
原因を突き止め切れていなかった「線の痩せ細り」がなくなり、
ふくよかなタッチを再現できるようになった。
F誌の連載では、前から下書きを消しゴムで消さないで入稿するなど苦心をしてきたけれど、
そうした求める雑味や艶が残されている。
ただシャープに表したい線は逆にかすれたり、太ったりして、弊害はあるが、
それはデータに仕立てた際に補筆すれば大丈夫と考えている。
背景はペン入れを前提にした程度の線でこしらえていたこともあり、
いささか弱く、曖昧な部分が存在しているので、まだ見極めができない。
(キャラもそういう絵は若干ある)
線の強弱やシャープさ、形状の明確な提示など
まだバランスを必要としている。研究の余地があろうと思う。
トーン作業はF誌ではPhotoshopで施しているけれど
鉛筆ゆえに線が閉じておらず、「流し込み」には不自由して
作業効率を阻害しているけれど、
これもスキャンをされる覚悟をもった鉛筆線で行えば
いくつかは改善されると思う。
そしてペン作業がないことで生まれる時間的な余裕で、
今後は相応しいトーンワークを試行し実施していけると思う。
また旧作のペン入れ済み原稿と鉛筆主線の原稿を合成したということも
線の種類を選んで表現していく上でよい実績を積めた。
「虚数霊」でこの実験をすることになるとは考えていなかったし、
商業ベースでの試行は避けたかったのだけれど、
得るものは大きかった。

今回で「虚数霊」の連載は一旦お休み。
散発的な読み切りスタイルのお話構成でつなぎつつ、
しばらく同社の新しい企画に加わっていくけれど、
今回の結果をどう見て、どう活かすかは
また編集部の評価や考えを含めていかないとならない。

漫画家に限らずだけろうけれど、
よい仕事をきちんと積み上げることが、評価と未来の自分を作るし、
なにより読者への礼儀。
試行錯誤で失敗はまたあろうけれど、へこたれずにやっていこう。

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