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2010年7月22日 (木)

さいたまでアリエッティ

「見た人がちょっとでも元気になってもらえたら」と 
米林監督はパンフに言葉を寄せているけれど、 
元気になれっかよ!という映画。 
いや、決して悪い作品じゃない。 
ほめる所は物凄くあると思う。 
でも元気になんてなれないし、 
諸手を上げて良い作品とも言えない。 

「虚数霊」の仕事の本格稼動の前にWindows7マシンを導入しておこうと 
買ったまま実家に置いておいたPCを引き取るべく、久々にさいたま市の親元へ。 
バスを降りると東京都区部とは明らかに違う濃密な緑の芳香が、 
夏のいきれに任せて鼻腔を満たしてくる。 
街中では殆ど感じない、自分の中にある「夏の匂い」だ。 
朝から30℃を越える気温だけれど、 
この香りに気持ちが向かって、暑さはさして気にならない。 
埼玉は嫌な思い出が多い嫌いな土地だけれど、 それは人に因るものが殆どで、 
僕はまぎれもなく、こうした木や水の要素を好ましく思う。 
これがないと生きている感じがしない。 
いつかは今の都心の家を出て、自然の息吹を感じられる場所へ越すのかもしれないなと、
歩きながら漠然と思う。 

『借りぐらしのアリエッティ』を 
実家へ帰る前に、さいたま新都心のMOVIXで観た。 
予め前売券を購入していたのだけれど、窓口で1000円のサービス日であることを告げられた。まぁいい。 
お客の入りは上々。わりと年配者も多かった。 
不思議な客層だ。夏休み前の平日午前ならそんなものなのか。 

アリエッティは線の細い映画だ。 
「ご存知!宮崎アニメ」という骨の太さというか、豪放磊落な好い加減さはない。 
だからなにかそういったイメージを求めて劇場に足を運んだ人は、 
肩透かしというか、カタルシスを得ることはできないだろう。 
この物語は喪失と後悔に彩られているから。 
(実際、もの足りなさそうな顔のカップルとか多かった) 
しかしそれがいけないことではないし、 
映画の魅力を損なうものでもない。 
惜しむらくはその胸に穿たれる孔から抜ける風が 
僕らにまで多く届かないこと。 
それはこの作品がジブリ製のアニメとして生まれ、新人の監督ゆえの 
宿命であり難しい課題だったのかもしれない。 
高畑勲監督ならば、きっともっとしたたかで上手に伝えられたろうと思う。 
たぶんどこかに覚悟が足りない。 

賞賛するべきところはしかしまた多い。 
「ハウル」の時にはさながら不気味の谷にあるかのような気色悪いタッチにまでなった絵の描写が、 
(「ポニョ」はさておいて) 
漫画絵としての省略と誇張の中に含まれる想像力に裏打ちされる豊かさに
立ち返ってきたように見える。 
色彩の設計も、美術の設計も美しい。絵のテンポや構図も良い。 
音楽もこれまでの久石作品に代表されるような旋律や編成の美しさ・妙とは異なり、 
刺繍された金糸銀糸のようにキラキラと繊細に輝く。 
配役も無理や珍妙さを微塵も感じさせず、 
特にアリエッティを演じた志田未来は良かった。 
TVや映画の出演作では滑舌の悪さを感じていたのだけれど、 
驚くほどしっくりとした情感のある声と演技に驚かされた。 
またどこかで彼女が人物を演じるアニメを見たいと思わせるほど。 
だけどこの映画は足りない。 

小人の存在を感じ続けた家族の系譜、 
小人の生活の閉塞と限界、 
翔の想い、 
アリエッティの想い、 
滅びと死、 
翔とアリエッティ、 
媒介としての家と自然、 
未知の明日、 
編みこまれた幾つかの要素や想いの多分どれも 
ちゃんと誰かに感じるようにまで届いていない。 
どれか一つ、ほんの一瞬でも観る者と繋がったら 
他の要素がにわかにその存在に力を帯びて相互に結びつき、 
意味を訴えてくるだろうに、 
そのどれもがきっかけたる力を持たされていない。 
例えば翔もアリエッティもローティーンとしての生理というか、 
世代としてのリアリティを与えられていない。 
どこかに人間として当たり前に気持ちを重ねられる部分が 
弱いと言うか、どうも見つけられない。 
硬質でよそよそしくも行儀正しい、物語世界の住人でしかない。 
厚意のすれ違いのもどかしさとか、 
翔とアリエッティそれぞれの交錯や至らなさをちゃんと描けば 
それで充分な心の動きのあるドラマになるのに、それもなおざりなまま。

小人の住まう屋敷で育つ一族に連綿と続く想いというか感傷も 
さして強くは語られない。
だから劇中の人物達の動機づけに何かがいつも足りない。 
僕は絵的には表情があるようでいて、しかし情感として人物に肉迫できないのは、 
これまでの宮崎ジブリ作品が培ってしまった 
一つの型のように思える。 
良い意味でも悪い意味でもストイックで、生臭さがない。 
(高畑作品は逆にクドイくらいのえげつなさがあるのに) 
そしてテンポや絵に重きを置くがゆえに「間」や「場」がない。 
本作も100分に満たないけれど、もっと尺を与えてもよかったのではないか。 
『アリエッティ』はその「細さ」なるがゆえ、アクションでは語りきれない要素を扱う作品なのだから、 
人物の気持ちに歩み寄るための「間」が 
たとえ動かずに無言であっても、与えてあげられるべきだったろうし、 
人の住まう背景だからこそ、語れる重さや気持ちがこもると思うから、 
そんな「場」の語る情景がもっとあってよかったように思う。 
テンポでは受け取れない想いもあるのだ。 
でも、ジブリ作品はそうした演出は好むように見えない。 
だから、翔の抱える不安も、アリエッティ一家の悲壮も 
物語の底流からかもし出されてこない。 
だからエンドクレジットの映像が 
僕にはどうしても空虚で、感慨が薄い。 
アリエッティの眼差しに何かを見つけることができなかった。 

でもまぁ新人監督としては 
「ゲド」とは大違いにちゃんとしていたと思う。
責任があるとしたら、あの鈴木プロデューサーだろう。
これまでのジブリ作品とは違うベクトルなんだということをプロデューサーは伝えていくべきなのに、 
紅豚とかハウルとかトトロとかベタにジブリな作品をTVのタイアップに添えて、
二言目には「宮さん宮さん」で
売ることに執心し、
この作品への心遣いがないこと。
だから、見立て違いのギャップに困惑する観客が頻出する。
商売人として狡猾、製作者としては卑怯な姿勢だと思う。

願わくば米林監督が今後、経験とともにもう少しわがままになって、
自分で表現したいものを心に掲げて、 
ジブリの呪縛から解かれることを期待する。 
さすれば、ぐっと良い作品が撮れそうな気がするからだ。

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