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2010年9月

2010年9月22日 (水)

ストライクウィッチーズ 公式コミックアラカルト

以前の日記「夏の近況」で触れた、
角川書店での久々の仕事、
『ストライクウィッチーズ 公式コミックアラカルト』がもう本屋に並んでいるみたい。
仕事の合間に、届いた献本を眺めたりすると、なかなかに感慨深い。

そもそもSWの文芸や考証を担当されている鈴木貴昭さんと、
数年前に野上武志さんを通じてお友達なった縁もあって、
SW1期のDVDブックレットを彼が書いている時に、
図版の作画をお助けしたのが、SWとのかかわりの最初。
限定版4巻特典に納められた図版は「勲章」と称した「ズボン」のバリエーションで、
鈴木さんの申し送りを受けながら、僕の方でデザインをまとめた感じ。
それが2期7話でミーナ隊長に授与されるとは思ってなかったから、
TVを見てビックリだった。

今度のアンソロジーコミックも、
誰か良い作家さんいないかなという鈴木さんの声に、
SWが好きそうな、またはSWの世界観に合いそうなお友達を
推挙したのが始まり。
井上純弌っちやあびゅうきょ先生は僕から打診したし、
他の数人は鈴木さんもすでに意識していたみたいで、
出来上がった本は、なんだかベテラン勢は皆んな顔なじみだった。(笑)
(というか、野上さん竹光さんの原稿はアシスタントまでしてる)
特にあびゅうきょ先生は、やっぱり流石な原稿で、
版型が小さいのが残念な位。
あびゅうきょ先生の寄稿が叶って、鈴木さんも大変喜んでいたけれど、
ミリタリーと美少女は先生の真骨頂。
僕らの敬愛する先生の絵の魅力がSWのファンに届くといいなと思っている。
で、僕はミリタリーは得意じゃないし、
(野上さんのアシで戦艦も戦車も銃も描いたけど)
この本へのお手伝いは無理かなと思っていたところ、
鈴木さんから、イラストの頁があるのでと逆に誘っていただいた。恐縮。
丁寧な仕事を心がけたつもり。

角川はコミカライズだとか版権モノの漫画はあまり良い評判がない。
作品というより、バックヤードの事情。これは事実。
今回も予算建てや執筆条件など難しい問題が多かった。
それをTV放映の最中にもかかわらず
鈴木さんがまるで作家の抗弁をしてくれたかのように粘り強く交渉し、
条件を整えてくれた。
アニメの制作に自分の懐からの持ち出しもあると聞く。
それはある意味で問題が残るのだけれど、
彼は何か過重な見返りや権利を求めたりもしないし、作品を押し広げようと努めているだけ。
その熱意や愛情は疑いようもない。
今回も本を手にとりながら、彼のその誠意に触れている感じがする。

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2010年9月17日 (金)

渋沢栄一とかダメ酒とか

雑文だよ!

ネームはラフでは切り終わっているんだけど
この後の工程も考えてきれいに仕立て直している。
ところがなんだか妙に時間がかかってしまって難儀中。
まぁ今日には出来上がる予定。

01b

昨夜は幹事を務めている荒川区の社長会の寄り合いで、
北区と合同開催であるとか、講演企画の素案を僕が案出したとか、諸々の事情があって
漫画の仕事を休止して北区王子まで出かける。
王子というか飛鳥山は明治の大立者にして起業家の渋沢栄一ゆかりの地ということで
北区支部との共同開催ならば彼の精神を振り返ってみてはと提案したけれど、
渋沢翁については荒俣宏の「帝都物語」に毛が生えた程度しか知らなかったので、
二松学舎大学から限定出版された氏の儒教講義録や文献に山のような付箋をつけた講演者には
ただただ敬服するばかり。
特に儒教の思想を礎にした大きな構造をもった興業と殖産の経済イメージは
圧巻であると同時に、現代日本に多くの示唆を示すものだった。
まぁ示唆は示すのだけれど、それをどのように「今」へ当てはめるのかは
僕らへ与えられた宿題ではあるのだろうけれど。
「仁」に象徴される究極の人間像から派生する「経国済民」(経世済民)の理念が
企業精神のみならず、行政や法律、そして教育にまでその道筋を提起する。
また儒学の文意が、日本語の漢字におけるレトリックを重ねると
誤認を生じるというのも新鮮だった。
「経国済民」も「くにをおさめ、たみをすくう」の意であり、
「Economy」の訳としての「経済」という語句は、そこから編まれたというのも感慨深い。
渋沢翁が尊んだこの言葉は同時に彼が事業というものに描いた
「一家の富を図るための事業は覇道であって、公利公益に努めるのが王道である」
という姿勢を象徴する。
つまり利己的な事業活動はキリスト教の7つの大罪にも通じる強欲と争いの貪りであり
国と人を富ませる徳には遠い。
なんて話を聴きながら、前述した現代日本に照らしたイメージをする。
いきなり極小化するけれど、
僕は亡父から継ぐことになった会社を2年前に畳むときに、
債務者としての僕を介在させずに
従業員のみによる事業再生で職場と雇用の維持ができるという指導を顧問会計士から受けて、
その実現を社員に呼びかけた。
すると何人もの社員、特に50代の面子から
今より給与を上げろ、厚遇しろ、さすれば参加してやるという
自己利益に走った発言が相次いで、
なんとか職場を守ろうという志は空中分解してしまった。
皆が少しずつ我慢し、周囲を思いやる気持ちがあれば実現できたことなのに、
不安と保身と自己利益の温存・拡大に固執した結果に
ただただ僕は深い幻滅を感じたけれど、
それは長い不況に喘ぐ日本の企業にも同じことが言えるように感じる。
己が利益だけを求めて、社員への労働分配や下請けへの支払いを
単なるコストとみなして削っていくことが
結局は大きな経済の姿を痩せ細らせて、
デフレーションの脱却と景気回復を困難にし、社会に不安を蔓延させている。
今こそ渋沢翁の理念が必要なのだとは思う。
だけど、国際化の流れにさらされ、企業は国境を超えて活動する環境と同時に
薄利廉売の中で必至に自らの利益にすがって命脈を維持している。
そこに果たして理念はどうあてがうことができるのかヒントを求めようと
自らも企業経営者である講演者に尋ねたかったのだけれど、
質問は採用はされなかった。

で、そのあとに二次会に付き合わされる。
幹事さんは甲斐甲斐しく動いていて
苦労している様子なのだけれど、
そもそも17人で予約したので
訪れた22人分の料理が揃えられないという店の応対で、
僕のところには酒はあれど、一切の料理が運ばれてこない。
それでも同じ懇親会費を払うことになる無茶苦茶さに
さすがに腹が立ってくる。
僕は以前は年間数十回、接待席という業務で宴席の設営をこなしてきた人間なので
(週3回位は公費で飲む生活を数年は続けてた)
どうしても許せない宴席のあり方っていうのがある。
まず、お店のサービスや対応が型に囚われたり雑だったり、給仕員に商品知識と礼儀がないこと。
宴の出席者の満足のボトムを支える幹事の配慮と準備が足りないこと。
今回はどちらもハズレだった。
僕はチェーン店型の居酒屋が大の苦手。それは
給仕が基本的にバイトで、しかもバイトだからというレベルでしか仕事を意識してない。
(恐らくメイド喫茶の方が仕事に意義や意味を見出しているはず)
バイトゆえに裁量も見識もないから、客の相談に応えられない。
今回も料理の不足の改善をあれこれ相談したが対応できず、
幹事でもない僕が会費から逆算して、余剰金から料理を足すカバーをした。
北区の幹事は誠意をもって臨んでいたが、
数人の親分風の顔役の「大きな声」に翻弄されて慌てるばかりで、視野も配慮も不安定だし、
人数の齟齬のカバーをする計算もしないという決定的なスキル不足。
とにかくそういう状態が目の前をフラフラしていると
僕はまったく落ち着いて呑めない性分なのが災いする。
とまぁ参加しなけりゃ良かったかなという宴席で、
仕事はしっかり遅れてしまうし、
もう弱った弱った。

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2010年9月12日 (日)

なるほど!!あそびにいくヨ!

連載のネーム作業にようやく目鼻がついた。(なので日記)
単行本で2ヶ月、そのあと企画物の準備もあって1ヶ月、そしてさらに諸々あって1ヶ月と
間に寄稿はしているけれど都合4ヶ月も休んでしまったこともあって、
身体のリズムとか、気持ちのテンションとか
いささか崩れてしまっていて、
思いの外、時間がかかってしまっている。
来週は巻き返しを図っていかないと。

アニメの「あそびにいくヨ!」が面白い
のだけれど、同時に作画の面で悩ましいものを抱えているのも
妙に気になって仕方がなくって、
お友達が原作を書いてることもあり、
ここはなんとか全面肯定という恣意的なアプローチをしたいところで
なにか糸口はないものかなと
けっこう悶々と考えたりしていた。
そうこうしているうちに先週、
「いだいなるさいしょのあしすとろいど」が放映になった。
原作ももちろん秀逸なエピソードなんだけれど
とても端正な脚本でじんわりと心に染みいる。
人の業というものが、それがもちろん秀でた科学力を有する宇宙人でも
乗り越えるために幾世代もかかる重いものであることや、
その罪の意識は種族の記憶に刻むことで戒めとし、かつ未来に臨む姿勢に、
舞台が沖縄ということもあって、
かつての円谷作品で語られた視線の位置に通じるものを感じる。
そしてそれらの異種であり異文化を包摂し融和へ導く鍵のように示されるのが
アニメ「キャプテン・フューチャー」の挿入歌であり、その詩情である。
本来「マクロス」がSF作品として有していたはずの着眼のセンス・オブ・ワンダー、
今や商品の方便として貶められたその価値を
本作では問いかけなおし、まさにアンセムがごとき普遍の輝きを持たせるに成功している。
通常のOPやEDを外して、「この歌ひとつ」の印象に絞った判断も素晴らしい。
原作では文章でしかなかったそれが
アニメになって音を得て、何倍もの力を有する瞬間に触れられて
とても感動的だった。
さりながら!絵的には、どうにも変に稚拙なレイアウトや構図、安っぽい美術、
才気を感じさせない凡庸な絵コンテなど
どうにも歯がゆく悔しい想いをやっぱり今回もぬぐえない。
むしろこのエピソードは
ラジオドラマ(CDドラマ)で発表されたほうが幸福だったのではないのかと
そんな気持ちにまでなってしまい、
全肯定したいという僕の気持ちとの相克にまた悶々としてしまった。

そんな折、やはり同エピソードを褒めていらした知人とのやり取りの中で、
「21世紀に作った80年代アニメ」という着眼に触れた。
僕は80年代に作られたアニメを世代的に一応観てきているものの
正直、そのチープさと表現には概して良い印象を持っていない。
(日本の歌謡POPSも80年代はスカだと思っている)
でも原作の「あそびにいくヨ!」が
外国TVドラマを含め、映画やアニメと70~80年代に親しんだ作品へのオマージュとして
実に小気味良く配されて構成されているのを踏まえて
現代のアニメでありながら、
あえてそのチープさに踏み込んだアプローチなのではないかと思い到った。
チープであっても、あの頃のアニメに確かにあった「熱」のようなものを取り込もうという試み。
もしそうであれば、なんという解釈、なんという愛情、
なんとしたたかにして、なんと豪胆ではないか。
それはもう賞賛するしかない偉大な意志の姿ではないか。
そう、ここにきてやっと僕は胸をはれるのだ。

アニメ「あそびにいくヨ!」は傑作なんだと。

ちなみにTVの公式webの「応援イラスト」のコーナーでは今週、
僕のイラストが公開であります。
今日の24時間は壁紙もDLできるようになってますです。
http://www.asoiku.com/sp_ouen.html
他のページも含めてぜひ作品に触れてくださいませ。

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2010年9月 3日 (金)

夢と瞳

なんだか気忙しい日々が続いて、気がつくと連載はお休みしているのに、
8月は1本も映画を観ていないっていう結果になってしまい、
『ゾンビランド』とか『日本の一番長い夏』とか見逃してしまった。
9月1日は映画の日ということもあって、
慌てて観ておきたい映画を見繕って、有楽町と日比谷でのハシゴに決定。
いそいそと午前中から出かけてきた。
その感想。

『インセプション』
有楽町マリオンの丸の内ピカデリーにて。
公開して日がたっていることと、平日ということもあってか、
10:20の初回上映は席もまばらでゆったり観られた。
シートも良いけれど、ここの音響は重低音の再生が素晴らしい。
濁りもビリつきも少なくズンズン響いてくる。
OL御用達の安っぽい恋愛映画では価値がないが、
この手の大掛かりな映画には圧倒的な強さを見せる。
ただ、空席三つ挟んだ向こうに座っている肥った白人男性の汗の臭いがキツクて、とにかく閉口した。
手にしたハンカチでぱたぱたと扇ぎ続ける映画鑑賞になった。

で、映画は大傑作。
SFとしてもアクションとしても犯罪モノとしても秀逸で
『ダークナイト』でクリストファー=ノーラン監督が見せた、
B級扱いの素材にどっしりとした風格と詩情与え、
なおかつB級の切っ先を失わないという技量とセンスが今作も発揮されている。
編集もユニーク、構図も美しい、色に味わいがある、音楽もツボを押さえてる、
そして着想も面白い。
『メメント』や『インソムニア』の時には、小品に活かされる個性であって、
ここまでの大予算を御せる監督になろうとは思っていなかったから、
本当に嬉しく楽しみな存在になった。
本作は『胡蝶の夢』を引き合いに出されることが多いけれど、
それが夢ではなく異なる現実の境界を越えた認識であるという意味で、正しい引用だと思う。
劇中、物理空間の突拍子もない「パラドックス」の偏在や階層、技術のギミックや考証などで
「夢」であることを刷り込もうとしているけれど、
夢の中でもっとも特徴的な認識のメタモルフォーゼが一切ない。
会話の相手がいつの間にか別人であったり、
脈絡のない空間の連鎖、時間の感覚、
そして主体たる自己の容貌すらも変容や転移をする。
つまり夢のようでいて夢ではない。違う現実の認識の連続が描かれている。
なぜならばそれを裏付けるように、
夢に関る人間にはブレがなく、それぞれの意志が一貫して存在している。
そして彼らが共有する時間と理屈に飛躍がない。
つまり存在する人間にとってなんら現実と変わらないのだ。
(その意味では主人公コブだけが夢に近い認識要素を持っているともいえるけど)
認識されるものが現実であるなら、
それは夢と区別する必要のないまま人は自分の現実と受け取る。
その認識の境界を見失った象徴としてモルの存在がそれを語る。
また、逆に現実はもしかしたら幾つかのステージに別れた
認識の世界の一つにすぎないのではないかという客観の思考は、
人の脳の機能として有しているものなのかもしれない。
やはりモルの行動にそれは表れるが、
自死は次の別のステージへの解放であり扉であるという感覚は、
多分、自殺を考えたことのある人には、そうさして違和感のないものだろう。
「天国」や「極楽」もその一つの呼称であるのは明らかだ。
僕も、社長時代にその努力と犠牲と自己存在の全否定を繰り返されていた折、
電車のホームに立つのを至極恐れたのは、
この別のステージへの誘惑を感じていたからだ。
そうした認識されうるものの現実というテーマは
過去、幾つかの映画で語られてきたけれど、
『インセプション』のエンタテインメントの要素を強くしたままのアプローチは、
好事家ウケの作品にとどまらない、意欲的かつ大胆な試みとして成功している。
2時間半という尺の中で、各登場人物の描写がまたしっかりしていたと思う。
同じ尺で多くの人物を扱い切れなかった『宇宙ショーにようこそ』とは明らかに力の差がある。
人物の独白だけに頼らず、その行動や他者からの評価など、
自然に人物が浮き彫りにされていく脚本と演出は、
物語の大組みとは別に素晴らしい。
僕は、やはり大企業の社長の父親との不和を抱えていた息子には感情移入しやすかったかな。
ただ、ノーラン監督は描写にリアリティを求めるっていうのは伝わってくるんだけど、
いつも女性が普通の顔っていうか映画的な美人が出てこない。
今回のモルを演じたマリオン=コティヤールはまぁ良い方として、
アリアドネを演じたエレン=ペイジは
アメリカの地方都市のハイスクールに適当に転がってそうな
ファニーな十人並み全開のチンクシャだし、
『フォロウィング』のルーシー=ラッセルも、『メメント』のキャリー=アン=モスも
『インソムニア』のヒラリー=スワンクも、
『バットマン・ビギンズ』のケイティ=ホームズも
『ダークナイト』のマギー=ギレンホールも
美人かっていうと「?」がつく個性派とかファニーフェイスばかり。
そこだけがこの監督の作品でいつも不満なんだよね!
きっと求めるものが違うんだろうな。
さておき、公開終了はもう間近だと思うけれど、
劇場で観る価値の高い作品に仕上がっているので、
未見の人は是非!

『瞳の奥の秘密』
で、マリオンに向かう前に日比谷シャンテに寄って、
すでに14:15の回の席を確保してあったので、
ゆったり昼食をとって、劇場へ。
地下のシャンテ3は床の傾斜は些かフラットだけど
座席の間隔があってカバーしている。
公開して2週間、評判の映画なので満席だった。

アルゼンチンの映画って日本にはあまりこない。
タンゴブームの時に来たくらいだろうか。
(『ブエノスアイレス』もウォン=カーウェイの香港映画だし)
僕の初めてのアルゼンチン映画は南米的な明るさはなく、
湿度の高い人間の機微があった。

デビッド=リンチの『ツイン・ピークス』が流行したとき、
「世界一美しい死体」なんてふれこみで、
ローラー・パーマーのイメージを持ち上げたけど、
演じるシェリル=リーって別に綺麗でもなんでもないなと
僕は当時から凄く違和感を持っていたのだけれど、
『瞳の奥の-』の冒頭で他殺体で発見される新妻リリアナの姿は
僕の知っている映画の中で、見たことがないほど美しい死体だった。
もちろん血にまみれた全裸の痛々しい姿なのだけれど、
その不謹慎を超えた神々しいまでの美しさがあるからこそ、
主役の裁判所書記官や、妻を亡くした夫の気持ちを
長い間、縛り続けるに到ったのだろうと思う。
リリアナを演じたカルラ=ケベド(Carla Quevedo)は
女優ではなくファッションや企業CMで活躍するモデルで、
アルゼンチンのRABELマネジメントというモデル事務所に在籍し、
今はNY在住みたい。

Calraquevedo2
ノーラン監督はこの象徴性としての女性像を用いないからなんだろうけれど、
彼の監督作の女優達より、このアルゼンチン映画の小さな役の女性は数段美しい。
そして彼女に魅了され、犠牲を神格化しそうになるのは観客も同じはずだ。
ゆえにこの静かに閉塞したドラマの随行者になるのだ。
ドラマは二転三転するけれど、決して複雑な構成でもないし、
どんでん返しを仕組まれたような印象はない。
時系列も前後するようだけれど、
心象の骨子は順を追って流れてとても素直で丁寧だ。
技巧やケレン味に走った演出よりも、
南米の人にはこの位の方法が良いのであろうし、
それは決して演出力が劣るということを意味しない、
逆に人間の感情とその理解の公約数はここまで高いのかと思わせる。
この映画は「目は口ほどに物を言い」って感じで
黙してもあまりに多く心情を語ってしまう目・瞳を鍵に語り続ける。
主人公が上司の女性を見つめる眼差し、
それと重なるかのような叶わぬ恋情を宿した写真の男の目、
期待と諦めが交錯する上司の目元、
亡き妻への愛情の矛先を求める夫の眼、
シャツから覗く乳房に劣情をたぎらせる目線、
邪まな欲と敵意の視線、
愛すべき友への温かい瞳、
それらが時代の色とともに丁寧にまとめられ、
後悔や寂しさを抱えながらも、25年という大きな円弧を描いて、
自分の下に決着をつけていく。
佳作だと思う。
そういえば、この主人公の書いた小説はきっとダメダメなものだろうな
というのが判るのが、一応仕込まれたギャグなのかな。
やたらと喋りすぎる安っぽいTVドラマみたいに成り下がった
日本のお涙頂戴映画の演出なんかは、
少しは見習うべき映画。

追記:cocologがYoutubeの動画を貼れることが判ったため
先日の日記を修正して、日記の画面で直接音楽が聴けるようにしておきました。

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