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2010年9月 3日 (金)

夢と瞳

なんだか気忙しい日々が続いて、気がつくと連載はお休みしているのに、
8月は1本も映画を観ていないっていう結果になってしまい、
『ゾンビランド』とか『日本の一番長い夏』とか見逃してしまった。
9月1日は映画の日ということもあって、
慌てて観ておきたい映画を見繕って、有楽町と日比谷でのハシゴに決定。
いそいそと午前中から出かけてきた。
その感想。

『インセプション』
有楽町マリオンの丸の内ピカデリーにて。
公開して日がたっていることと、平日ということもあってか、
10:20の初回上映は席もまばらでゆったり観られた。
シートも良いけれど、ここの音響は重低音の再生が素晴らしい。
濁りもビリつきも少なくズンズン響いてくる。
OL御用達の安っぽい恋愛映画では価値がないが、
この手の大掛かりな映画には圧倒的な強さを見せる。
ただ、空席三つ挟んだ向こうに座っている肥った白人男性の汗の臭いがキツクて、とにかく閉口した。
手にしたハンカチでぱたぱたと扇ぎ続ける映画鑑賞になった。

で、映画は大傑作。
SFとしてもアクションとしても犯罪モノとしても秀逸で
『ダークナイト』でクリストファー=ノーラン監督が見せた、
B級扱いの素材にどっしりとした風格と詩情与え、
なおかつB級の切っ先を失わないという技量とセンスが今作も発揮されている。
編集もユニーク、構図も美しい、色に味わいがある、音楽もツボを押さえてる、
そして着想も面白い。
『メメント』や『インソムニア』の時には、小品に活かされる個性であって、
ここまでの大予算を御せる監督になろうとは思っていなかったから、
本当に嬉しく楽しみな存在になった。
本作は『胡蝶の夢』を引き合いに出されることが多いけれど、
それが夢ではなく異なる現実の境界を越えた認識であるという意味で、正しい引用だと思う。
劇中、物理空間の突拍子もない「パラドックス」の偏在や階層、技術のギミックや考証などで
「夢」であることを刷り込もうとしているけれど、
夢の中でもっとも特徴的な認識のメタモルフォーゼが一切ない。
会話の相手がいつの間にか別人であったり、
脈絡のない空間の連鎖、時間の感覚、
そして主体たる自己の容貌すらも変容や転移をする。
つまり夢のようでいて夢ではない。違う現実の認識の連続が描かれている。
なぜならばそれを裏付けるように、
夢に関る人間にはブレがなく、それぞれの意志が一貫して存在している。
そして彼らが共有する時間と理屈に飛躍がない。
つまり存在する人間にとってなんら現実と変わらないのだ。
(その意味では主人公コブだけが夢に近い認識要素を持っているともいえるけど)
認識されるものが現実であるなら、
それは夢と区別する必要のないまま人は自分の現実と受け取る。
その認識の境界を見失った象徴としてモルの存在がそれを語る。
また、逆に現実はもしかしたら幾つかのステージに別れた
認識の世界の一つにすぎないのではないかという客観の思考は、
人の脳の機能として有しているものなのかもしれない。
やはりモルの行動にそれは表れるが、
自死は次の別のステージへの解放であり扉であるという感覚は、
多分、自殺を考えたことのある人には、そうさして違和感のないものだろう。
「天国」や「極楽」もその一つの呼称であるのは明らかだ。
僕も、社長時代にその努力と犠牲と自己存在の全否定を繰り返されていた折、
電車のホームに立つのを至極恐れたのは、
この別のステージへの誘惑を感じていたからだ。
そうした認識されうるものの現実というテーマは
過去、幾つかの映画で語られてきたけれど、
『インセプション』のエンタテインメントの要素を強くしたままのアプローチは、
好事家ウケの作品にとどまらない、意欲的かつ大胆な試みとして成功している。
2時間半という尺の中で、各登場人物の描写がまたしっかりしていたと思う。
同じ尺で多くの人物を扱い切れなかった『宇宙ショーにようこそ』とは明らかに力の差がある。
人物の独白だけに頼らず、その行動や他者からの評価など、
自然に人物が浮き彫りにされていく脚本と演出は、
物語の大組みとは別に素晴らしい。
僕は、やはり大企業の社長の父親との不和を抱えていた息子には感情移入しやすかったかな。
ただ、ノーラン監督は描写にリアリティを求めるっていうのは伝わってくるんだけど、
いつも女性が普通の顔っていうか映画的な美人が出てこない。
今回のモルを演じたマリオン=コティヤールはまぁ良い方として、
アリアドネを演じたエレン=ペイジは
アメリカの地方都市のハイスクールに適当に転がってそうな
ファニーな十人並み全開のチンクシャだし、
『フォロウィング』のルーシー=ラッセルも、『メメント』のキャリー=アン=モスも
『インソムニア』のヒラリー=スワンクも、
『バットマン・ビギンズ』のケイティ=ホームズも
『ダークナイト』のマギー=ギレンホールも
美人かっていうと「?」がつく個性派とかファニーフェイスばかり。
そこだけがこの監督の作品でいつも不満なんだよね!
きっと求めるものが違うんだろうな。
さておき、公開終了はもう間近だと思うけれど、
劇場で観る価値の高い作品に仕上がっているので、
未見の人は是非!

『瞳の奥の秘密』
で、マリオンに向かう前に日比谷シャンテに寄って、
すでに14:15の回の席を確保してあったので、
ゆったり昼食をとって、劇場へ。
地下のシャンテ3は床の傾斜は些かフラットだけど
座席の間隔があってカバーしている。
公開して2週間、評判の映画なので満席だった。

アルゼンチンの映画って日本にはあまりこない。
タンゴブームの時に来たくらいだろうか。
(『ブエノスアイレス』もウォン=カーウェイの香港映画だし)
僕の初めてのアルゼンチン映画は南米的な明るさはなく、
湿度の高い人間の機微があった。

デビッド=リンチの『ツイン・ピークス』が流行したとき、
「世界一美しい死体」なんてふれこみで、
ローラー・パーマーのイメージを持ち上げたけど、
演じるシェリル=リーって別に綺麗でもなんでもないなと
僕は当時から凄く違和感を持っていたのだけれど、
『瞳の奥の-』の冒頭で他殺体で発見される新妻リリアナの姿は
僕の知っている映画の中で、見たことがないほど美しい死体だった。
もちろん血にまみれた全裸の痛々しい姿なのだけれど、
その不謹慎を超えた神々しいまでの美しさがあるからこそ、
主役の裁判所書記官や、妻を亡くした夫の気持ちを
長い間、縛り続けるに到ったのだろうと思う。
リリアナを演じたカルラ=ケベド(Carla Quevedo)は
女優ではなくファッションや企業CMで活躍するモデルで、
アルゼンチンのRABELマネジメントというモデル事務所に在籍し、
今はNY在住みたい。

Calraquevedo2
ノーラン監督はこの象徴性としての女性像を用いないからなんだろうけれど、
彼の監督作の女優達より、このアルゼンチン映画の小さな役の女性は数段美しい。
そして彼女に魅了され、犠牲を神格化しそうになるのは観客も同じはずだ。
ゆえにこの静かに閉塞したドラマの随行者になるのだ。
ドラマは二転三転するけれど、決して複雑な構成でもないし、
どんでん返しを仕組まれたような印象はない。
時系列も前後するようだけれど、
心象の骨子は順を追って流れてとても素直で丁寧だ。
技巧やケレン味に走った演出よりも、
南米の人にはこの位の方法が良いのであろうし、
それは決して演出力が劣るということを意味しない、
逆に人間の感情とその理解の公約数はここまで高いのかと思わせる。
この映画は「目は口ほどに物を言い」って感じで
黙してもあまりに多く心情を語ってしまう目・瞳を鍵に語り続ける。
主人公が上司の女性を見つめる眼差し、
それと重なるかのような叶わぬ恋情を宿した写真の男の目、
期待と諦めが交錯する上司の目元、
亡き妻への愛情の矛先を求める夫の眼、
シャツから覗く乳房に劣情をたぎらせる目線、
邪まな欲と敵意の視線、
愛すべき友への温かい瞳、
それらが時代の色とともに丁寧にまとめられ、
後悔や寂しさを抱えながらも、25年という大きな円弧を描いて、
自分の下に決着をつけていく。
佳作だと思う。
そういえば、この主人公の書いた小説はきっとダメダメなものだろうな
というのが判るのが、一応仕込まれたギャグなのかな。
やたらと喋りすぎる安っぽいTVドラマみたいに成り下がった
日本のお涙頂戴映画の演出なんかは、
少しは見習うべき映画。

追記:cocologがYoutubeの動画を貼れることが判ったため
先日の日記を修正して、日記の画面で直接音楽が聴けるようにしておきました。

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