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2010年12月

2010年12月27日 (月)

このあとのお仕事とか

MF社フラッパー誌の月刊連載も先日脱稿し、
エモーションのwebマガジンの小説のビジュアルも一昨日納めたので
商業の仕事は年内まずは一息。
このあと29日からの冬コミの同人誌への寄稿も済んだ。
今回の寄稿は、
◎29日 『日本晴』 西 れ-47a
「神のみぞ知る世界」の中川かのんちゃん本。
◎31日 『峠茶屋』 西 あ-64b
峠たん(峠比呂)のところ。
「ストライクウィッチーズ」のバルクホルン×ハルトマン本。
どちらもイラストなのだけれど。
後者はどうやらエロエロな本らしい。
しまったエロだと思ってなかったのでHな絵にしてない!と焦ったのはつい最近。
本当は環望ちゃんのところにも絵を寄せる約束だったのだけど、
連載の年末進行とか他所の同人誌のエディトリアルとか諸々で手が廻らなかった。
この場を借りてお詫び。(ごめんなさい)
僕は3日目31日に、東 カ-30a で出展。
お誕生日席なのに在庫でお茶を濁しまする。

で、年明けの10日頃に1本短編漫画の〆切があるので、
明日には着手したい予定。
そろそろ発売が告知されているのでお知らせすると、それは
ストライクウィッチーズ・公式コミックアラカルト2」に掲載予定。
前回はイラストを寄せたが、今度は漫画をという誘いがあったので。
角川の提示してくる契約条件は相変わらず酷いけど、漫画は楽しんで描きたい。
現在、プロットは仕立ててあるものの脚本になってないので、
頁数は12か14かというところでウロウロ。一両日中には確定したい。
2期8話の前、
お忍びで坂本+宮藤の二人が欧州派遣された扶桑艦隊の旗艦・大和の見学へいくという内容。
海軍さんとはいえ、連合艦隊旗艦にそうそう乗艦できるものではないので、宮藤わくわく。
という展開ではなく、TVのストーリーの穴を補完するような感じにするつもり。
恐らく他の漫画家さんは軽妙なノリのものが殆どだろうし、僕は箸休めのつもり。
戦艦大和は写真や資料が少ないので、
また脳味噌で大和を構築して、誰も見たことがない構図を描かないといけないのが
愉しくもアリ恐ろしくもアル。
(僕は不器用で模型を作らない作れないしね)

それが済んだら「虚数霊」の連載にかかる。
今度の原稿、2月発売号が実は一応の最終回。
簡単に言えば打ち切りなのだけれど、
編集部には感謝ばかり。
幻冬舎コミックスで冷遇された本作を、継子ながらとても大事にしてくれて、
1年半も連載させてくれたのは本当に嬉しい。
やりたかったこともかなりできた。
移籍時の幻冬舎の契約違反にも等しいゴネっぷりの酷さを
(あちらの担当編集は「ローゼン」移籍のきっかけを作った人なので、随分強引にあらがった)
(契約書に基づいた事前の申告期間をもって契約解除・権利の引上げをしたいと言ったら「ふざけるな」と返された)
(単行本は売れて在庫はもうないし、責務はまっとうしたはずと言ったら「君の漫画なんて出すだけ赤字だ」と嘲笑された)
(あげく、絶版にしてやってもいいが、権利は返さないと長くゴネられた)
「大丈夫、任せて」と支えてくれたことも忘れられない。
フラッパー誌での人気は半分より上かなーって辺りをウロウロしていたと聞くので、
迷惑をかけたわけではなかったし、
MF社の社長も「ダヴィンチ」の編集長も好んで読んでくれていたらしいのだけど、
どうも単行本が売れていないらしくて、
営業サイドからNOが出たという流れ。
商業作品だからそれも致し方なしと思う。
ただ、丸善・御茶ノ水店は200冊以上も売ってくれているし、
MF社が手作りの小冊子を作っておいてくれた書店は軒並み売れ行きもよく、
どうやらTSUTAYA系列が極端に悪かったのが原因らしい。
確かに近所のTSUTAYAを覗いたとき、
環のんちゃんの「バンパイアバンド」がアニメ放映中にも関わらず
1冊も置いてなかったんだから、
そもそも仕入れ段階でかなり相性が悪いのかも。
だけど再版がかかる漫画もあるんだから、TSUTAYAのせいにはしていられない。
自分の作品の商品価値ってなんだろうなと
いろいろ考えているところ。
お話自体は正確には終わりではなく、その先がある形で長いお休みに入る感じ。
それは編集部も快く同意してくれた。
もしチャンスがあれば再開をという気持ちを互いにもっての判断。

なので2月に入ったら見事に無職になるわけで、
単行本3巻の直しをする意味では、手は動かすけれど、身入りは刊行時までないし、
生活がかなりピンチだなぁという状況。
以前からMF社から打診のあるタイアップの話は
MF社が正式に受注しないと僕には廻ってこないし、まだ会社間の段階で、編集部も確約をできない状況。
(受注になると急転直下に忙しくなるんだけどね)
自分としては作品的にも請けたい仕事だし、
その結果待ちをする間、他社で連載の仕事を請けるわけにもいかないタイミングになるので、
他から声はかかってきているけれど、もどかしい。

そうこうしていたところで、
お友達の輸入雑貨商社の社長さんから相談をしたいと打診があったので、
今日、訪ねてみたところ、商品開発へのアドバイスを求められた。
ベトナムで作らせるオリジナル雑貨のデザインに関してなのだけれど、
版下とか縫製工程、資財調達や流通まで勘案して意見を交わしたら
とても喜ばれた。
どうやら巷のデザイナーは絵だけ提出して、そういうのを考えない人が多いらしい。
まぁ僕はメーカーの社長だったし、
中国で商品開発して輸入する計画に携わっていたから知っているというだけだけど、
もう少し相手の仕事を理解した提案ってしてるものかと思ってた。
単にお友達へのお付き合いのつもりだったのだが、
そのままデザインをしてくれと、2月中納めで受注してしまった。
僕の言い値で良かったのだけれど、
恐らくデザイナーとかデザイン事務所に依頼する額の1/5程度の額で受けた。
友達だし、僕は漫画家だから。
それにお金はそんなに好きじゃない。日々生きるに足りればいい。
将来の商品開発も相談にのって欲しいというし、愉しそうだからいいなと思う。
現地の工場の能力を推し量りながら、しばらくは模索して商品化を試み、
最終的には面白いものを作っていきたいな。
てなことで、なんとか2月はしのげそうな感じ。

漫画家って大変だ。

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2010年12月25日 (土)

鐘の鳴る町

僕がこの町に住み始めた頃、よく鐘の音が聞こえた。
お寺の「ゴーン」とかいうものではなく、
目の前の隅田川をはさんで向こう側にある教会の鐘だ。
複数の鐘から鳴り下ろされ、町と川と空に不思議に反射と拡散をしたその音は、
複雑でかつ、まろく、町に染みるようだった。
不動産屋は「マンションとは眺望を買うものだ」と僕に言った。
それは確かに13階からの眺めは悪いものではないけれど、
それより僕はあの教会の鐘の音が気に入っていたように思う。
サラリーマンの薄給からローンを組んで、この家を買ったのも、
町の音と川の流れに惹かれたからだった。
そうして住み始めて数年して、
荒川区は防災無線の施設として拡声器のついた電柱ほどの柱を近所の公園に立てた。
そこからは無線の稼動の確認もあってだろう、
毎夕、押し付けがましく子供に帰宅を促す声と、
荒川区の区歌かなにか知らないけれど、
貧相な校歌のごとき音楽が大音量で流されるようになった。
この時間が、まさに鐘の鳴る時間に重なってしまい。
僕の好きな音は、無粋な大騒ぎに掻き消されるようになってしまった。
また、この区の音楽が電子音ときている。
ピロピロとした薄く尖った音で、耳に痛いようだ。
かつての小学校で下校時に流されたりしていた音は
「遠き山に日は落ちて」
つまりドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」第2楽章冒頭だったりして
ちゃんとレコードの音源を利用し、厚みと柔らかさのある音だった。
それがどうしてこの現代で電子音なのだろう。
機器だって今のほうがぜんぜん良いし、
生楽器で編成された音だってちゃんと再生できるはずなのに、
この安っぽい音を押し付けてくる感覚は、
いかにも役所の仕事っぽくて辟易する。
そもそもその土地の音環境というものをまるで理解していない。
町にはその立地や自然環境、人と活動から生まれる「場所の音」が存在する。
それはまぎれもなく、土地ならではのアイデンティティだ。
最近はヘッドホンステレオを耳に刺して、
音を聴きもしない輩が増えたが、
町の音の記憶は、人が人と社会と土地と共有できる貴重な共通項であり、
そこから養われる感覚は意外に大きい。
区のおしつけは、もちろん意識なんてしていないだろうけれど、
塗りつぶしによる音環境の摩り替えだ。
防災に必要だというなら、
せめて鐘と重ならない正午の報だとか、棲み分けはできただろうに、
つくづくこの無理解無頓着には呆れる。
以来、10年以上、この不愉快で耳に痛い大音量の電子音を
苦々しく思い続けている。
心無い音は心を痩せさせる。

今宵はその川向こうの教会で、ミサが行われていたことだろう。
僕は2000年も前の新興宗教の教祖の偽りの誕生日を祝う気なんてさらさらないし、
皇族の誕生日だって、友人や家族の誕生日以上に大事に思うこともない。
昨日も一昨日も、これまでとさして違わないどうでもいい「日常」であることに
感謝をし、素晴らしいことだと思う。
逆に過剰に「非日常」を尊ぶ精神はどっかへいってほしい。
ただまぁ、それをダシに人の気持ちが愉しく明るい方向へ押されるなら、
まぁ目くじらを立てずに、ゆるゆると自然に過ごしたい。

こんな夜に自分が聴きたいなと思うのは
賛美歌なんかではないし、
あつかましいマライア=キャリーの金切り声でもない。
例えば、Herbie Hancockの「Speak like a child」のような曲。
輪郭が曖昧で、それゆえに音の間口が広くいろんなカタチをしているから、
ともすると特別な印象を残さずに身体を通り抜けてしまうのだけれど、
ちゃんと耳を傾ければ、その深さと厚みに触れられる。
3本の金管のアンサンブルが温かみをかもし、
スケッチのようなハービーのピアノを支えながら、
しかしホーンもピアノも強い旋律をとって曲を支配しない絶妙な関係。
まるで淡彩画のような世界だ。

1968年3月に録音とは感じさせない音。
ジャケットのハービーと妻の口づけをシルエットでとらえた淡く温かい色は
アルバムの表題曲でもあるこの曲のイメージを象徴するかのようだ。
(この写真はインナーにもちょっとした仕掛けがあって微笑ましい)



これはLIVE音源。JAZZには同じ演奏はない。
一期一会。長い人生の中で垣間見る日常の出会いと一瞬の輝き。




皆が静かで暖かな冬の夜でありますよう。

僕はもう少し絵を描いてから寝ます。

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2010年12月23日 (木)

今頃ヤマトの感想

連載も脱稿したし、そろそろ感想を記しておこうと思う。

正直な気持ちで、この映画はヒットして欲しいなと思う。
「復活篇」の時はまったくそんなことは思わなかったが、今度は切に願う。
「復活篇」の空前の大失敗で、作品の信用とブランドに傷をつけ、
またなおかつこのブランドが過去の栄光に過ぎないのではないかという
烙印を押されてしまったがゆえ、
ヤマトという作品、コンテンツを未来へつなげていくためには、
この実写版ヤマトが相応のヒットをして貰わないといけない。
宇宙戦艦ヤマトがそれこそ人類の命運を託した一本の矢であったように。

公開3週間を過ぎ、上位ランキングを維持しているようで、まぁヒットとは言えそう。
まずは安心とは言いたいが
ヒットすれども、評価はされないだろうなというのが、また正直な感想。
キムタクファンや適当にデート映画を探している人はどうぞって印象。
ネタバレになってしまう文章は映画の感想を書く際にはなるべく控えているのだけど、
もうこの作品ばかりは堪えられないかもしれない。

実は公開初日に観に行っている。
劇場は自転車で10分少々のTOHOシネマ西新井。
平日とはいえ封切りにして「映画の日」なので、
混雑を警戒して、都心部の映画館は避けたが、
開場前の劇場にはすでに50人近い行列が。
どうやら殆どがヤマト待ちだったのは、チケットカウンターで判った。
客層は僕と同世代のオヤジかキムタクファンであろうことが見え見えの女性陣。
それで初回の入りは座席の6割程度。
僕は前寄りD列の中央だからまずまず。
ここを選んで正解だった。

この映画は山崎貴監督に決まる前の話を個人的に聞いていることもあるけれど、
キムタクのヤマトへの強い執着と事務所の力があっての製作実現だし、
Part1や「さらば」の幹や末枝に呪縛されての作劇は必定だったのは
容易に想像できるから、苦労があったろうなとは思う。
まぁ頑張ったなとは思うけれど、
映画としては及第点にはならないかな。
僕はヤマト原理主義者じゃないので、お話の改編もデザインのアレンジも
基本的には楽しめるし、構わない。
(石津版小説もひお版漫画も好きだし、ミードヤマトも復活篇ヤマトも好き)
もちろん、旧作への愛情や解釈は大事だけど、
まずは単体の作品として楽しめるかだと考える。
じゃあこの映画がどうであったかというと、
アニメ劇場版Part1よりは骨とドラマがあったけれど、
映画としてお話が薄っぺらで、ドラマが軽い。

ヤマトのお馴染みのキャラが勢ぞろいはいいけれど、
どうにも人物描写が中途半端だったり、浅かったり、効率が悪くて、
そこにきて所謂「名セリフ」をトレスするものだから、上滑りの連続で、
さらに大仰な音楽の付け方をするものだから、興醒めしていく。
(音楽自体が悪いわけではない)
特にキムタクが全艦総員に高説を垂れる場面は、
演技の酷さが相まって、誰がこんな演説聞いて命をかけるかっていう代物。
古代進を演じたキムタクの演技はそう全部駄目なわけじゃない。
無言だったり、力まずに語る限りは、やさぐれていた古代に合った感じはする。
ただ、ああいう絶叫調の演説は陳腐でみすぼらしい。
彼はコンサートなどを除けば
実生活で大勢の多様な考えを持った人に語りかけて
気持ちを動かそうとした経験とかないんだろうなと思う。
そんなことで、お約束のように「名セリフ」は消費され、自壊を繰り返す。
そもそもそれらに意味を与えるドラマと場をかもす雰囲気が決定的に貧弱だ。
もういつからだったか判らないけれど
日本映画にはどこかこうした芯が欠如してしまっているように感じる。
画面から伝わる濃密な時間や空気、念みたいなものがない。
人の生き様ってものが描かれてない。
(難病の恋人が涙ながらに死んでいくばかりが生き様ではないと思う)
古代守の最期、沖田とのやりとりも軽く珍妙で情感のかけらもない。
苦渋に満ちた悲壮さなど伝わってこない。
古代と森雪のラブシーンも失笑をかいそうな唐突さで、
内なるものの発露として、あまりにもどかしい言葉に
堪えきれなくなった情動とその交錯とはちっとも見えない。
まるで古代と雪は恋人になるという前提とか予定調和を消化する
お約束としてのプロセスのようだ。
ここを有無を言わさぬ強い脚本と演出で語らなければ、どうする気なのか。
また14万8千光年という旅の時間の感覚がまるで語られず、
あっという間の出来事に見える。
経てきた時間という経験を感じさせないから、
物語にもセリフにも重さが無くなる。
ヤマトという制約と言うか約束事がドラマのシナリオと演出を絞め殺していると
考えていては足りない様子だ。
決定的な欠落感は脆弱な脚本と演出の不足、つまり脚本家と監督の責任だと言える。
そもそもこの映画を観ていて
どうして「STAR BATTLE SHIPヤマト」=「宇宙戦艦ヤマト」というタイトルなのだろうと思う。
アニメのヤマトを下敷きにしているとはいえ、
この映画は艦(ふね)としてのヤマトのアイデンティティが殆ど感じられない。
島の「良い艦(ふね)だ」というセリフも、まるで実感を持たず空虚だ。
この映画はヤマトを名乗りながらヤマトである必定を示してはくれていない。
なにかもうその辺りから、根本的な間違いを犯しているのではないか。

デザイン面のアプローチは試みとしては悪くないけれど、
これまでの山崎監督の流れでしかなく、
リターナーでもジュブナイルでも見た形で、 どこか安っぽく、
「復活篇」のデザインには在ったデザインの思想や理念が本作からは感じられない。
それとヤマト艦内に、船としての流れが感じられない。
今回アニメのスケールの倍にしたとはいえ、
ヤマトは艦船で曲面と竜骨で構成された「流れ」があるはずだ。
アニメのヤマト艦内は例えば廊下がRを描いているように、
それが意識されていたけれど、
この映画ではどこも直線的な部屋でしかない。
船という場をどれだけ意識して、表現しようと思っていたのだろうか。

まぁでもCGはさすがに白組で綺麗だったと思う。
ただグリーンバック撮影のせいか 、はたまた予算か時間のせいか、
場としての空気感とか光の感覚が弱くて
そこにセットの安っぽさが相まって
ここでも雰囲気を作り出すまでには到っていなかったと思う。
山崎監督はライティングがどうも平板で、セット臭さが目立つ。
そのせいもあるのだろう。
SFは実感のある実生活社会や風景とことなるので、
ことさらセットやライティング、空気感にこだわって存在感を強調しないと、
映画が学芸会に見えてしまうのだけどな。

昨年の「STARTREK」で
お話への切り込みとイマジネーション、旧作への敬意と解釈と創造、
そして巧みな脚本と演出を見せ付けられているがゆえに、
実に悔しい。
ああでもなにかいいところを探そう。
………
アナライザー凄げぇ!


画像はその昔描いたヤマトの絵。

Tower

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2010年12月19日 (日)

夜が明ける前に

仕事をしながら音楽を聴く。
アーチー=シェップ(Archie=Shepp) 『Attica Blues』(1972)の 10曲目。 "Quiet Dawn" 

力強く泥臭いサキソフォンとフリューゲルホーンのアンサンブルに重なるストリングスの相性が絶妙。
ファンクと思いきや意外にメロディアスな展開局面も含んで
渋好みのシェップにしては甘めな感じ。
当時シェップのバンドに参加していたトランペッターのCal=Masseyの娘がヴォーカルをとる。
幼女にたどたどしく「静かなる夜明け」なんて歌わせるんだから、一筋縄ではない。
いやらしいオジサンたちの遊び心だ。
フレンチロリータのPOPSも蠱惑的で好きだ
けれど、こういう幼女趣味も愉しい。
70年代当時のシェップの曲は懐かしいアメリカのTVドラマの都会的な臭いがして、
この泥臭さと叙情性がなんとも心地よいノリがある。
シェップはテナー奏者としてだけでなく、文筆家であり、アフロアメリカンの政治活動家でもあった。
アルバムの表題曲、Attica Bluesも拷問や劣悪な待遇への抗議から起きた黒人囚人暴動のあった
アティカ刑務所の取材に基づいているそうな。
不屈にして反骨、そしてマニアックな人なのね。
青少年の健全育成だ、エロだ規制だとぐだぐだやってるのもいいけど、
そんな先人の魂をちょっと見習いつつ音楽でも楽しんで、
ひょいとぐだぐだのその先まで見通していく心持ちになりたいものだ。


ああ、そのうちJAZZの似合う漫画を描いてみたいな。
「虚数霊」はわりと歌謡曲な作品世界だし。
「Ringlet」は佐々木昭一郎のドラマ「四季ユートピアノ」のクラシカルな楽曲がイメージだった。
背景で音楽が導く作劇って、いいなぁ。

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2010年12月16日 (木)

やめておけば?

東京都の青少年育成条例改正案が議会を通過して、
来年には施行になることに決まった。
これにはもうすでに日記で触れたような、ある程度の考え方は自分の中でまとまったし、
今それにもう一度言葉を割くにはちょっと時間が無い。
(恥ずかしながら仕事が遅れている)
昨日は作画のための下準備(枠線とかフキダシとかを原稿用紙に書く作業)だったので、
適度にネットに接続しながら、かといって深堀もしないのだけど、
つらつらと眺めながら仕事をしていた。

その中で気になったのが
「石原都知事オンリーイベント」なる同人誌即売会の話題。
知事の著作、とりわけ「太陽の季節」あたりを題材にするのだろうけれど、
どうなのかなぁ。
人の言動や思想、作品に批判的になるのはまぁ良しとしても、
正々堂々とした作家性をもって批判や風刺、パロディの作品にする。作品にしようとするなら
理解もするけれど、
単なるあてつけや品性のない罵倒や嘲笑、おためごかしのパロディにもならない間に合わせ漫画に
満ちたイベントになったなら、
それは負け犬の遠吠えでしかない。
そんな態度や作品で溜飲を下げるなんて情けなくも見苦しい。
おまけに僕らの守ろうとした漫画の表現とはそんな程度のものだと
相手につけいる隙を作るようなものだ。
それに特定の個人の言動や作品であっても
人格への攻撃や侮辱を目的としたものなら、
当然、都知事から名誉毀損の訴えを持って裁判になるリスクは覚悟してしかるべき。
長い裁判にお金と人生をかけて耐えうるだけの覚悟と作品への責任や自負があるなら、
やればいい。
ただいつものなかよしクラブでやっているアニパロのようなノリであれば
太刀打ちはできないと思う。
同人誌だからと、無責任に二次創作で暴利をむさぼり、
誰もとがめないからってヘラヘラ笑っていられるお祭り気分でよいものではない。
今回の騒動で高らかに鼓舞していた「表現の自由」とは
自分の一身をかける覚悟の上に成り立つものであることを忘れていけない。
評論でも作品でも自分と自分の能力をさらして立ってこそ、相対せる資格を有する。
漫画家や作家はみなそうしている。
同人誌でも「本気」で堂々とやってのけるならやればいい。
でなければやめたほうがいい。
せめて主催者はその覚悟をもって、
参加するサークルでも個人でも
開催の趣旨と指導を徹底するべきだろう。
主催者が幼稚にはしゃいで煽っていたなら最悪だ。

そもそも都知事の挑発的な暴言に煽られて、
今回の条例改正への批判の矛先がぐちゃぐちゃになってはいまいか?
都知事名で提案されようと、案件は役人が作ったものだし、
議案とは議会があって承認通過される。
都知事が別に親玉でもラスボスでもないのは自明だ。
それをいちいち個人攻撃してなんの意味があるのか。
挙動を妄言をいちいち槍玉に嘲笑して何が報われるのか。
無駄な行為をしている自分に空しくはないのか。
それこそが議論や行動の本質を見失い、相手の思う壺だろう。

都知事の言動なんて無視してやればいいだけだ。




追記:12/17
どうやら各方面からの指摘や注意で
このイベントは趣旨を変え、大幅トーンダウンになった様子。
というか指摘を受けてここまで変説ってことは、
最初から何も考えてない、配慮もしてない、単なるお祭気分であったということで、
それも真っ暗な気分になります。

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2010年12月 5日 (日)

反対するということの未来

連載の原稿に追われて色んなことができないでいる。
漫画の原稿は今や口に糊する大切な仕事だし、読者や出版社への責任もある。
それに自分の存在をかけて想いみたいなものを記し伝える意味でも、
仕事を超えてかけがえのないものだから、色んなことに我慢もしようと思う。
そんな日々の時間のやりくりの中で、やっぱり声をあげておかないといけないものはある。
自分と自分の周り、そして広く大きな社会を構成する人の心を踏みにじる行為、
東京都の青少年健全育成条例改正についてだ。
にわかにこの春から動きを増し、その独善と誤った論理に
至極当然の批判がされてきたにもかかわらず、
今の平成22年第4回都議会にも再提出されている。
改正案を読む限り、文言の修正を行われているが、
批判の象徴にもされた「非実在」の表現は消えているものの、
実質は曖昧さを余計に含んだ、拡大解釈の幅を広げた改悪でしかなく、
議論を煙に巻き、思惑を成そうとする役所特有の議会誘導技術の空々しさに満ち、
不愉快でしかない。

今も有志の諸氏・団体から、多くの誠実で筋の整った批判・反論が繰り返されているし、
見方を変えれば、それは春から一貫したものであるのは、
相手の狙いも筋道もまた変化を一切していないことの現れである。
僕も吉田康一郎・民主党都議とお話をする機会を得て、
この問題の流れをある程度見渡すことができ、
自分の見解みたいなものを含めて文章にまとめることができた。
http://murakawamichio.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/1-d4ae.html
http://murakawamichio.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/2-8e20.html
http://murakawamichio.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/3-7a13.html

 漫画やアニメには確かに非倫理的で過激な描写が一部に存在するけれど、
 そこには語るべき心があると、漫画家として僕は認識と自負をしている。
 唐突なネットや雑誌の裸とか、AVの煽情的に羅列する画像とは異なるのだ。
 漫画に描かれる性が仮に悲劇や暴力を伴っても、
 そこに悲しみや苦しみがあると理解してもらえるし、
 幸せなものならそこに価値を見出してもらえる。
 実際の被害者など存在しない創作物であるからこそ、
 漫画のみならず文学も、その心の追体験をもってして教訓性を長く使命の一つとしてきた。
 また作品単体の清濁に左右されるのではなく、
 多くの作品に触れることの混沌とその相対化こそ自立した情操を育む。
 そして無秩序で多様な情報が、否が応でもある現代だからこそ、
 そこに方向性を与えるのはドラマであり心だ。
 その機会を奪うことは、教育や育成という観点からは時代にそぐわないのではないか。

見出した考えはその後も揺らぐものではない。
僕は極論すれば今以上の規制は一切必要ないと考える「廃案」を支持する者だ。

だけれど、世の事情は必ずしもその流れにはない。
子を持つ親であれば子供を性商品化されることへの嫌悪や不安は至極当然だし、
ごく普通の人達のごく自然なその想いは、
規制をしたいと目論む人々に常に利用され、つけいられる。
反対を謳った議員や党(会派)にも、同じこの普通の不安を持つがゆえに
規制の理不尽との間のせめぎあいがされ、悩みを重ねている。
そこにきて、今回の改正案の提出前、議員にも文面が公開されていない段階で、
都議会民主党が賛成をするかのように書かれた
読売新聞の記事などが発表され、(この姿勢は報道機関として批判されるべき)
前哨戦から不穏な誘導がされている。
実際、ここまでの情勢を眺めると、
「可決もやむなし」という雰囲気が醸成されつつあるようだ。
僕が解せないのは、
都民主党は夏前から20数名からなるこの話題への勉強会を発足させていたことが、
なんら活動的に議論も議会もリードできなかったことだ。
改正案の再提出はすでに自明だったにも関わらず、
都(役所)からの提案を待つという結果になってしまったのは、明らかに失策だ。
議論とは常に提案した側がイニシアティブを持ち流れをリードをしていく。
提案者以外はすべて修正者でしかないからだ。
であればこそ、民主党は党内や連携野党、外部の意見集団と
一定のコンセンサスを得た自らの改正案を先んじて提出し、
力を持ってこの議論に方向を見出すべきだった。

だがそれが何故できなかったのかを、僕らは考えるべきだ。
そうすると実は単純に民主党会派を批判できなくなる。
その大きな要因には僕らの方に問題があると思うからだ。
僕らはあまりに政治という現場に無理解だ。
政治は思想や理念を掲げても、社会という器の中の利害調整でしかなく、
これからを見据えながら今の着地点を見出す、見出しながらまた進んでいく、
終わりの無いマラソンだと僕は思う。
「ゲゲゲの女房」でも語られたように「有害図書規制」の運動は40年を越え、
手塚治虫の作品でさえ批判・廃棄の対象になったことを忘れてはいけない。
その思想は形や行為者をかえて今にまで連綿と続いている。
今が決着ではないのだ。これからもずっと続くだろう。
息が切れたほうが負けだ。短距離走じゃない。
「憲法に保障された表現の自由」という正論をかざし、
「断固撤廃」「廃案」をストイックに主張し続けることが、
実は政治の現場では不利に働くことがあるのを考えてみるべきだ。
廃案ありきの頑なさを貫こうとし、
規制の一部容認や方法論の検討すら拒否感を示したのであれば、
それが民主側の対案をまとめる障害になったのではないか?
実際に取材したわけではないので、憶測には過ぎないけれど、
今議会の民主党の流れに「裏切り者」を声高に叫ぶ人たちを見る限り、
そのように思えてしまう。
また、自主規制を打ち出して相応の努力を業界は重ねるものの、
不景気を言い訳に自らの利益しか考えず、
邪まに規制の擦りぬけをする一部の出版社もまた足並みを乱している。
それらがどれだけ有効で迫力をもった議員・議会活動を損ねているか。
自分の味方の武器を奪う行為をしているとは言えまいか。
PCのモニター越しに正論をかざしているのでは
戦場の苦労と丁々発止を理解できない軍の典型的ダメ司令官と同じではないか。
忘れてはいけないのは、こんなにバラバラで足並みが揃わない僕らに対して
規制側はほぼ1枚岩で、なおかつ民意を得ているポーズをとり続けている。
このままなら僕らは本当の意味で「大敗」を喫する。
僕らは何が目的なのか。
狡猾にしたたかに動いてこそ、その目的が実現される。
政治の現場はそんなナマモノであって、
同じ理念を印し、心重ねられるのなら、もっと現場の議員に委ねてあげるべきだ。
僕らが誠実でありつづけるなら、きっと応えてくれる。
味方の背中を銃で撃つことをしてはいけない。

「可決やむなし」は終わりではない。
業界誌の編集者として全国の地方議員を取材してきた僕でなくても
静かに考えれば判る事が多い。
都議会民主党は勢力では第一党だ。
法案に関して鵜呑みにせず、十分に意見を加えられる立場にある。
その程度はあれど、今改正案をかなり修正した上での条件付可決はあるじゃないか。
もちろん一時的に業界も表現も萎縮はするだろう。
でも政治はそこで止まらない。
今度こそ、こちらから改正案を出して、その誤りを正していけばいい。
新しいシステムを提案して、覆してやればいい。
警察出身の某が現況だと言うのであれば、役職定年や異動・退職を待てばいい。
石原都知事もしかり。来年は都知事選だ。
国連組織を語る某協会が悪だというなら、欺瞞を暴き、公益法人資格を失わせればいい。
それができるのが議会であり議員であり、
今に固執しない僕らの不断の努力の継続だ。
ただ、不断の努力とは議員をその場限りで良い様に利用するということではない
ということも肝に銘ずるべき。
政権への批判を地方議会に照らし、
民主政権を支持できなくなったから、都議会へも支持できないという論理も
いかがなものだろうか。(まぁ個人の勝手ではあるが)
都民主党の実績が政権の実績になるという発想からの忌避感も飛躍がすぎる。
国政と地方行政は根本的にステージが異なる。
政権の不手際や主張の混乱を一番悩み苦しんでいるのは、
地元で地道に活動を積み上げてきた地方議員だ。
それはかつての公明党の地元関係者からも聴いていたし、民主もまた同じだ。
どこを見るのか?
僕らが僕らのために目の前で頑張っている人を信じないのでは、
自分の目を信じないことなのではないのか。
インフレーション的に物事が動くときこそ、静かに事象を整理していかないと、
やはり大義や目的を失ってしまう。

規制を反対するための、自分に都合の良い机上の論陣にだけ
耳を傾けていてはいけない。
内に外に無為な争いに疲れて厭世的になるのもまた同じ。
それは甘言であり落とし穴だ。
反対することの未来はその先、汚泥をすするような試練を越えて築ける。

地方議員の現場と実情を肌身で知っている友人の玄くま さんのTwitterでの主張が
http://twitter.com/45Bears
自分には一番しっくりと共感できるもので、
原稿で動けない僕の支えだった。(僕はアカウントないけど閲覧できるからね)
機会があれば一読を。

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