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2010年12月 5日 (日)

反対するということの未来

連載の原稿に追われて色んなことができないでいる。
漫画の原稿は今や口に糊する大切な仕事だし、読者や出版社への責任もある。
それに自分の存在をかけて想いみたいなものを記し伝える意味でも、
仕事を超えてかけがえのないものだから、色んなことに我慢もしようと思う。
そんな日々の時間のやりくりの中で、やっぱり声をあげておかないといけないものはある。
自分と自分の周り、そして広く大きな社会を構成する人の心を踏みにじる行為、
東京都の青少年健全育成条例改正についてだ。
にわかにこの春から動きを増し、その独善と誤った論理に
至極当然の批判がされてきたにもかかわらず、
今の平成22年第4回都議会にも再提出されている。
改正案を読む限り、文言の修正を行われているが、
批判の象徴にもされた「非実在」の表現は消えているものの、
実質は曖昧さを余計に含んだ、拡大解釈の幅を広げた改悪でしかなく、
議論を煙に巻き、思惑を成そうとする役所特有の議会誘導技術の空々しさに満ち、
不愉快でしかない。

今も有志の諸氏・団体から、多くの誠実で筋の整った批判・反論が繰り返されているし、
見方を変えれば、それは春から一貫したものであるのは、
相手の狙いも筋道もまた変化を一切していないことの現れである。
僕も吉田康一郎・民主党都議とお話をする機会を得て、
この問題の流れをある程度見渡すことができ、
自分の見解みたいなものを含めて文章にまとめることができた。
http://murakawamichio.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/1-d4ae.html
http://murakawamichio.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/2-8e20.html
http://murakawamichio.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/3-7a13.html

 漫画やアニメには確かに非倫理的で過激な描写が一部に存在するけれど、
 そこには語るべき心があると、漫画家として僕は認識と自負をしている。
 唐突なネットや雑誌の裸とか、AVの煽情的に羅列する画像とは異なるのだ。
 漫画に描かれる性が仮に悲劇や暴力を伴っても、
 そこに悲しみや苦しみがあると理解してもらえるし、
 幸せなものならそこに価値を見出してもらえる。
 実際の被害者など存在しない創作物であるからこそ、
 漫画のみならず文学も、その心の追体験をもってして教訓性を長く使命の一つとしてきた。
 また作品単体の清濁に左右されるのではなく、
 多くの作品に触れることの混沌とその相対化こそ自立した情操を育む。
 そして無秩序で多様な情報が、否が応でもある現代だからこそ、
 そこに方向性を与えるのはドラマであり心だ。
 その機会を奪うことは、教育や育成という観点からは時代にそぐわないのではないか。

見出した考えはその後も揺らぐものではない。
僕は極論すれば今以上の規制は一切必要ないと考える「廃案」を支持する者だ。

だけれど、世の事情は必ずしもその流れにはない。
子を持つ親であれば子供を性商品化されることへの嫌悪や不安は至極当然だし、
ごく普通の人達のごく自然なその想いは、
規制をしたいと目論む人々に常に利用され、つけいられる。
反対を謳った議員や党(会派)にも、同じこの普通の不安を持つがゆえに
規制の理不尽との間のせめぎあいがされ、悩みを重ねている。
そこにきて、今回の改正案の提出前、議員にも文面が公開されていない段階で、
都議会民主党が賛成をするかのように書かれた
読売新聞の記事などが発表され、(この姿勢は報道機関として批判されるべき)
前哨戦から不穏な誘導がされている。
実際、ここまでの情勢を眺めると、
「可決もやむなし」という雰囲気が醸成されつつあるようだ。
僕が解せないのは、
都民主党は夏前から20数名からなるこの話題への勉強会を発足させていたことが、
なんら活動的に議論も議会もリードできなかったことだ。
改正案の再提出はすでに自明だったにも関わらず、
都(役所)からの提案を待つという結果になってしまったのは、明らかに失策だ。
議論とは常に提案した側がイニシアティブを持ち流れをリードをしていく。
提案者以外はすべて修正者でしかないからだ。
であればこそ、民主党は党内や連携野党、外部の意見集団と
一定のコンセンサスを得た自らの改正案を先んじて提出し、
力を持ってこの議論に方向を見出すべきだった。

だがそれが何故できなかったのかを、僕らは考えるべきだ。
そうすると実は単純に民主党会派を批判できなくなる。
その大きな要因には僕らの方に問題があると思うからだ。
僕らはあまりに政治という現場に無理解だ。
政治は思想や理念を掲げても、社会という器の中の利害調整でしかなく、
これからを見据えながら今の着地点を見出す、見出しながらまた進んでいく、
終わりの無いマラソンだと僕は思う。
「ゲゲゲの女房」でも語られたように「有害図書規制」の運動は40年を越え、
手塚治虫の作品でさえ批判・廃棄の対象になったことを忘れてはいけない。
その思想は形や行為者をかえて今にまで連綿と続いている。
今が決着ではないのだ。これからもずっと続くだろう。
息が切れたほうが負けだ。短距離走じゃない。
「憲法に保障された表現の自由」という正論をかざし、
「断固撤廃」「廃案」をストイックに主張し続けることが、
実は政治の現場では不利に働くことがあるのを考えてみるべきだ。
廃案ありきの頑なさを貫こうとし、
規制の一部容認や方法論の検討すら拒否感を示したのであれば、
それが民主側の対案をまとめる障害になったのではないか?
実際に取材したわけではないので、憶測には過ぎないけれど、
今議会の民主党の流れに「裏切り者」を声高に叫ぶ人たちを見る限り、
そのように思えてしまう。
また、自主規制を打ち出して相応の努力を業界は重ねるものの、
不景気を言い訳に自らの利益しか考えず、
邪まに規制の擦りぬけをする一部の出版社もまた足並みを乱している。
それらがどれだけ有効で迫力をもった議員・議会活動を損ねているか。
自分の味方の武器を奪う行為をしているとは言えまいか。
PCのモニター越しに正論をかざしているのでは
戦場の苦労と丁々発止を理解できない軍の典型的ダメ司令官と同じではないか。
忘れてはいけないのは、こんなにバラバラで足並みが揃わない僕らに対して
規制側はほぼ1枚岩で、なおかつ民意を得ているポーズをとり続けている。
このままなら僕らは本当の意味で「大敗」を喫する。
僕らは何が目的なのか。
狡猾にしたたかに動いてこそ、その目的が実現される。
政治の現場はそんなナマモノであって、
同じ理念を印し、心重ねられるのなら、もっと現場の議員に委ねてあげるべきだ。
僕らが誠実でありつづけるなら、きっと応えてくれる。
味方の背中を銃で撃つことをしてはいけない。

「可決やむなし」は終わりではない。
業界誌の編集者として全国の地方議員を取材してきた僕でなくても
静かに考えれば判る事が多い。
都議会民主党は勢力では第一党だ。
法案に関して鵜呑みにせず、十分に意見を加えられる立場にある。
その程度はあれど、今改正案をかなり修正した上での条件付可決はあるじゃないか。
もちろん一時的に業界も表現も萎縮はするだろう。
でも政治はそこで止まらない。
今度こそ、こちらから改正案を出して、その誤りを正していけばいい。
新しいシステムを提案して、覆してやればいい。
警察出身の某が現況だと言うのであれば、役職定年や異動・退職を待てばいい。
石原都知事もしかり。来年は都知事選だ。
国連組織を語る某協会が悪だというなら、欺瞞を暴き、公益法人資格を失わせればいい。
それができるのが議会であり議員であり、
今に固執しない僕らの不断の努力の継続だ。
ただ、不断の努力とは議員をその場限りで良い様に利用するということではない
ということも肝に銘ずるべき。
政権への批判を地方議会に照らし、
民主政権を支持できなくなったから、都議会へも支持できないという論理も
いかがなものだろうか。(まぁ個人の勝手ではあるが)
都民主党の実績が政権の実績になるという発想からの忌避感も飛躍がすぎる。
国政と地方行政は根本的にステージが異なる。
政権の不手際や主張の混乱を一番悩み苦しんでいるのは、
地元で地道に活動を積み上げてきた地方議員だ。
それはかつての公明党の地元関係者からも聴いていたし、民主もまた同じだ。
どこを見るのか?
僕らが僕らのために目の前で頑張っている人を信じないのでは、
自分の目を信じないことなのではないのか。
インフレーション的に物事が動くときこそ、静かに事象を整理していかないと、
やはり大義や目的を失ってしまう。

規制を反対するための、自分に都合の良い机上の論陣にだけ
耳を傾けていてはいけない。
内に外に無為な争いに疲れて厭世的になるのもまた同じ。
それは甘言であり落とし穴だ。
反対することの未来はその先、汚泥をすするような試練を越えて築ける。

地方議員の現場と実情を肌身で知っている友人の玄くま さんのTwitterでの主張が
http://twitter.com/45Bears
自分には一番しっくりと共感できるもので、
原稿で動けない僕の支えだった。(僕はアカウントないけど閲覧できるからね)
機会があれば一読を。

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