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2011年5月

2011年5月29日 (日)

自由をわれらに

午前中、家事をしながらのテレビを観る。
「新日曜美術館」のルドン特集のあとに合わせたNHK総合で
亡くなった児玉清さんの追悼の意味で「龍馬伝」第7話が放送された。
久しぶりに観たけれど、
やっぱりこの作品はこれまでの「大河ドラマ」とは姿勢がまったく異なる。
演出チーフの大友啓史は、サラリーマン演出家の多いNHKの中で
久しぶりの逸材であるが(今年NHKを退職してフリーに)、
その目線が遺憾なく発揮されている。
セットやライティング、メイク、演技、カメラワークとつなぎのタイミング、
どれもそれまでの大河が用いた「型」に当てはまらない。
もちろん大友流の「型」がそこに存在はするのだけれど、
それは映像の向こうに存在する「空気」を描くためのものだと感じる。
「型」を表現するためではく、「空気」に存在する場の「自由」を表現したいがための
作法なのだ。
それは福田靖の脚本にも及んでいる。
原作のないオリジナル脚本であるからか、
これまでの大河にあった時間の進行と人物に心理の寸断への暗黙の了解はなく、
4つの大きな流れのくくりで人物を追い続ける構成に加え、
やはり演出意図を汲ん空間が台詞によって作られる。
主語が曖昧で、そしてあちこちに倒置され、
修辞のかかりが複数にわたり、
そして婉曲で含みのある語り口。
床に伏した龍馬の父(児玉清)と絵師・河田小龍(リリー・フランキー)の対話も
140字とか、短いセンテンスだけで性急にキリキリとやり取りを繰り返すようなテンポや作法とは
およそ馴染まない
気持ちと考えを巡らせる心と時間の懐を持った人のもの。
時代が違うのだからなんて容易く喝破してしまえるものではない
人がそもそも持っていた「自由」がある。
この感覚は日本という場所に住むがゆえ。日本語を媒介とするがゆえ
心に備わるものじゃないのかな。
随分前に日記に記したことがあるけれど、
元の職場で、海外に事業の説明をしたいからと
国際部から僕へ、専門用語を平明に解説した文章を求めてきた。
それを翻訳してwebやパンフに利用しようというものだ。
もちろん僕は丁寧にわかりやすく書いて戻したのだけれど、
英文科卒留学経験ありの国際部の女子が泣きついてきた。
僕の文章がまったく翻訳できないというのだ。
僕にはその理由が不明だったのだが、
その後、同僚の佐藤レナ(青山大英文科卒)に話したら、
カラカラと笑って、
どんなにわかりやすく解説したものでも、
僕の文章はもうコテコテの日本語の作法でどっぷり構成されていて、
センテンスは長いし、主語は曖昧、修辞が主語のように振舞うし、
圧倒的に英語へしづらい文章構造を持っているからだと言われた。
(しかも文学少女のレナは日本語の扱いも正確にして巧みでオイラは敵わん)
どうりで英語をどんなに勉強しても惨憺たるままだったと思い至る。
今もTwitterでの意思・情報伝達に苦手意識が強いのも
この日本語配線の脳味噌のせいなのかもしれない。

「龍馬伝」はこのあと、龍馬が地下活動家として自らを強いていくなかで、
自由で豊かな感受性を抑え、目的の完遂を描き、邁進する中で
面白みのない人間へと変化していく。
自由を狭めていくがゆえに死が迫ってくる構図も
ドラマの構成として暗示的だ。
まぁだから僕にとっては既に成立時から「型」を表現することが大義な
他の大河ドラマの殆どが、すでに死んでいるようにしか見えない。
なのでアニメでも漫画でも
萌えだとかツンデレだとかハーレムだとか
ウケるために「型」を優先したあげく語りたいものがないような作品は
約束事のお遊びを越えて感じるものが少ない。
シャルルは可愛いけどね。

溜まった新聞の切り抜きをしていたら、
岸田衿子さんの追悼記事に出会った。
新聞もテレビもない山小屋暮らしが長く、
久しぶりに東京に出ると見慣れない文字。
「平成ってなんだろう」と思った。
そんな書き出しで故人を偲んでいた。
この人もまた自分の歩幅で生きる自由を持っていたのだ。
僕は岸田森の従姉で、今日子の姉、絵本は「かばくん」程度しか知らず、
その詩作に触れたのはアニメの名作劇場への歌詞だった。
「ハイジ」がもっぱら取り上げられるのだけれど
僕は「赤毛のアン」の主題歌挿入歌が印象深い。
子供向けアニメの挿入歌は本編中に使用されることは稀で、
どちらかというと幼児への販売目的のパッケージということが多いのに、
「アン」ではそれらがドラマと密着して用いられ美しいシーンを作り上げていた。
それは楽曲はもちろんなのだけれど、歌詞の力が大きいと思う。
短文詩は日本語の美しく秀でた姿の一つだと思う。
タルコフスキーが絶賛したように、
言葉の少ない間口から想像力の翼をもって心象と空間を押し広げる力と
そして母音の響きの持つ流れと丸さ、リズムを有している。
(詩は吟じるものだ)
前述した冗長な日本語文章のセンテンスの特性とは異なる
詩歌ゆえの特性だ。
商品のキャッチ、コピーライティングや雑誌記事のタイトルなども
これの流れにあるものだと思う。
「アン」に寄せられた歌詞は多様な場面のあるドラマの中にあって、
揺るがないアンの心のあり方、魂のありかに触れているがゆえに
想像力を持ってして、どこにでも寄り添うことが出来る。
そしてそれは僕自身の情景にも。
もし短文で誰かに何かを伝えようとするときに、
相手に委ねられる自由さを持ち合わせられるのなら、
僕はこの「詩」が日本語にとっては望ましい姿なのかもと思っている。
願うならTwitterに集う人たちに、
そうしたしなやかさと自由さを意識し交感できる場所であってほしい。
ぎすぎすと目くじらを立ててつけいる先を求めるような応酬の
なんと不幸で虚しいことか。
書く言う僕は、
大切な人に何かを伝えようと思えば思うほどに
誤解が怖くて言葉を重ねに重ねてしまって、
逆にくどいと嫌われるほどになってしまう。
(なので日記も長い)
そんな悪循環の小心者だから詩作にはむかないみたいだ。

岸田さんの挿入歌が収められたLP「うたとおはなし」(79年発売)を
僕は随分長く探し続けて、なかば諦めかけていたときに、
音盤に未収録だったBGMも含めてCD化されて、
ようやっと手元で聴くことができるようになった。
その中でもとても好きな詞を一つ。

 ほんのしばらく
 白い花の中で
 ねむってしまっていいでしょう
 あしたの宿題も約束も忘れて
 ほんのしばらくちょうちょみたいに

 ほんのしばらく
 白い雲の上を
 散歩したっていいでしょう
 悲しい夢も 思い出も忘れて
 ほんのしばらく
 風船みたいに

心の中に「空気」が満ちてくる。
短い言葉の中だからこそ、
押し付けられる条件や定義などなしに僕らは自由に手を広げ
身を重ねることができる。
人生の随行者になった創作を生み、
その優しい力に触れる機会をくだすった方の訃報を
日々の雑事に気づかずにいたことを恥じ、
ここにご冥福とともに、感謝をお伝えしたく思います。

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2011年5月26日 (木)

シャルの絵

Gebageba

ちがーう!

はい、スミマセン!!ちゃんと描きます描きます。
と、この間載せたこの画像。
これもシャルだよ。そうなんだよ。
マミ先輩をマミったと言われる魔女はシャルロッテって名前だから、嘘じゃないよ。
っていうか、僕にはどうしてもこう見えちゃうんだ。
そういう年頃なんだよ。
だからつい合成してみたくなるんだ!
で、こんなコラージュ作っててふと思ったのは
「ゲバゲバ90分」って番組を知らない人は
お友達の中でももう相当数いるかもしれない。
なのでこの木下蓮三さんの手になるゲバゲバおじさんの図像もイメージになかろうし、
マミ先輩のこのシーンに結び付けられるっていう感覚も
あまりピンとこないのかも。

わっはっは。そして今度こそ本物だよ。
シャルルだよ!
ちゃんと描いたよ。
IS(インフィニット・ストラトス)の真のヒロイン、シャルロット=デュノア嬢だぃ!

Charlotte0

ちょっと僕の絵よりはアニメよりになっちゃったのが残念。
こういうお遊びは自分の味が出ないと面白みがない。
自分の個性はウシガエルとの取り合わせくらいかなー。

しかし最近のアニメは鼻の穴を描かないよね。
もう点一つとか鼻ナシだものね。
日本の漫画絵の記号化とはここまでされたのかっって感じをうけるときもある。
例えば鼻峰の影を縦二本の短い線描で表現して鼻とするのもあるけど、
これって記号的了解がないと骸骨の鼻孔に見えるのよね。
なんか素人さんが見たらゾンビのように感じてしまうのではないかな。
耳の形の表現もそうなんだけれど、
リアリティの持つ生物的な一種のグロテスクさに興醒めするから
敬遠するのかなぁ。

閑話休題。
シャルルの良さは、普通に真面目な子なのに、なぜかエロ展開で「はわわ~」ってなりながら
でもツンでもデレでもなくて小ざっぱりとした笑みでそこに居てくれる
居心地の良さでありましょうかね!
嫁に欲しい。
掃除道具みたいな名前の人や中華ルッキーニとかはどうぞ皆さんにお譲りします。

あ、そういえば、中国嫁日記の井上純弌(純一)こと希有馬っちの家を
先日襲いに行って、
初めて女房殿と会ってまいりましたよ。
甲斐甲斐しくて、気のつく、可愛らしい人でありました。
ダンナが結婚前からオイラに言っていたけど、確かにスタイルもよろしい。
ともあれ、一緒にいると元気を貰えそうな人。
彼の中国フィギュア製作レポート漫画に僕が登場したときにあった台詞だけど、
中国を訪れるとどこも皆元気で、自分と未来を信じていて、
行くと元気を貰える。
そんな雰囲気を運んできてくれるお嫁さんでありました。
希有馬っちもなんだかすっかり優しい男になってしまって、
人は変わるものなのね…。

もげろ!

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2011年5月25日 (水)

ようやっと まど☆マギの感想文

デビルマンの現代的再生になるのかな。
途中まではそんなことを考えていた。
あの時代より遥かに今のほうが爛熟と混沌と陰鬱が空気を満たしていて、
顔の見えない男の主人公よりも
少女達は踊るのか躍らせるのかに関わらず印象としての破壊力をもって存在しているから。

何を期待するでもなく見始めた「魔法少女まどか☆マギカ」だったのだけれど、
劇団イヌカレーのイメージの強さと
アニメオリジナルという強さに惹かれて、
とうとう最後までわくわくして観ることができた。とても楽しかった。
誰も知らないストーリー、それに思いをはせて、人と語らい、同時的に体験する共感と喜び。
陰鬱なれど謎の多い展開は、オリジナル作品ゆえに実に相応しかった。
作品の出来不出来とは別に、こういう体感と勢いこそが、
時代に刻まれる作品になる要素だと思う。

最終回まで通して観ると、
主人公のまどかの精神的な過程は流れとして不安定で、
修練や成長をしていっているようにはちょっと見えない。
成長するべく促された母親からの素晴らしいアドバイスが、
見事に瓦解したのは大変驚いたが、
ゆえにまどかは、階段を上ることなく右往左往していただけに思える。
それは「ストライクウィッチーズ2」の宮藤のそれと似た印象がつきまとう。
宮藤はそれでも主人公たる対面を取り繕ったけれど、
まどかの場合は10話で ほむほむが真の主役だったことが露わにされる。
主題歌「コネクト」の歌詞はほむほむの視点だったことが
ここで明らかになることでも判る。
そしてほむほむにとっての主人公まどかと
観る者の主人公ほむほむの構造で最終回までなだれ込む。
まどかの主体の弱さは脚本の不備のように思えるけれど、
この「スイッチ」は成功であり正解であったろう。
僕を含め多くの人が恐らくこの10話ですっかりほむほむに転ぶ。

僕は自分のトラウマから誰かの友達になれるということに弱い癖もあって、
臆病なほむほむの細糸をたぐるような想いの寄せ方にもうメロメロ。
奇跡のような幸福感とその喪失の痛みの中で選択した道は
波のように彼女の心の形も削り変えていく。
ケン=グリムウッドの「リプレイ」もそうした時を繰り返す主人公の男の話だったけれど、
ほむほむはしかしその主人公のように成長はしない。変質をしていくのだ。

QBがまどかの魔女としての資質の増大を、
ほむほむが並行宇宙の因果をまどかを軸に束ねてしまった結果としている。
けれど、ほむほむという主体が一貫した記憶と自我を保持し続け、
またその時空世界での自分が別に存在していないことからも、
これは ゆかにゃんの「運命のタロット」にある、
歴史の「幹」として固定される前の「枝」なのではないのかなと思う。
つまりQBの説く並行世界とは若干論が異なる。
ゆえに魔法少女としてその枝を司るほむほむが、
まどかと自分を軸に何度もその枝を繰り返すのでまどかの因果の増大を招く。
実際、枝ごとにまどかの性格は沈み込むように微妙に変わっている。
そして同時にほむほむが自ら述懐するように
自分自身の変容と喪失をもたらしている。
その反復はアニメで語られる以上の回数を踏んでいることは想像に難くない。
その中で、まどかとは別の形でほむほむは既に少女の姿のままで
世界を統べる唯一無二の「魔女」になってしまっていたのだと思う。
そして、魔女「ワルプルギスの夜」はほむほむの陰画であり、
一つの可能性の未来に訪れたほむほむの魔女として姿のように思えて仕方がなかった。
かの魔女もまたその怨念で時を渡り、姿を変容させ、対峙を続けた。
だからほむほむは何度闘っても克服できないないのでは。
そんなふうに見ていた。

そしていまひとつ感情の変転と昇華が釈然としないままなんだけど、
物語のスピード感に圧されて
まどかは宇宙の構造をも凌駕する無限プリキュア、じゃなくて魔法少女として起つ。
釈然としないものを抱えつつ圧し切れる作品は、
その突っ込みに物語が崩壊せずに
観る相手に何かを預けて思い廻らせる力があるということ。
(完璧すぎる作品は必ずしも記憶に残る作品になるとは限らない)
まどかはでも観る者にとっての主人公ではないので、
必ずしもその精神の行程が明瞭でなくても構わないような気がする。
ほむほむの主人公としてどんな存在であったのか。
10話ではまさにほむほむがデビルマンのハルマゲドンへと誘うシーンがあるが、
まどかは救いを選択する。
そして終回、全ての魔法少女の絶望を救済する意思を謳うがゆえに、
ほむほむにとっては残酷な救済者であり解放者になったのかもしれない。
そのために僕らの主人公は
唯一無二、最後の魔法少女として戦い続けることになる。
まどかは上位シフトしたのか。
クラークの「幼年期の終わり」でのそれは
仏教的な解脱の思想観に影響されてか、
すでに既存の人類とは心通わすことのない彼岸の精神体になってしまう。
人類に固執せず、感情より理性、ある種の人非人になることだとすると、
それとは異なる。
まどかは「魔法少女の希望の救済」たらんとした人の思念としてのシフトだ。
それはキリスト教的な人間属性の強い存在になろうとしてるとも見える。
しかしながら極端に教条的な依存や統治を示すものでもない。
ゆるやかな日常の神様や、お盆に還ってくる死んだ親族の存在感や霊などに近しいもの、
偏在する厳かなる神性が、
自分の生き方を律する糧になっているのを示しているようにも感じる。
それはまどかとほむほむの自己犠牲の精神と共に
とても日本的な回答のように見える。
そして能天気なハッピーエンドで結末を歌い上げずに
無常観でくくったところもそれを感じる。
かくて残酷で優しい神は「頑張って」とほむほむの耳元に囁き続けるのだ。

TVではかからない主題歌の2番の歌詞を読むと、
それはほむほむの心情ではないことが見て取れる。
これはまどかの歌だ。
この物語の構造に良く似ているなと思う。
作り手の創意や野心が込められた
久々に心地よくのれたアニメだった。
(ブルーレイも買っちゃったよ)

Homuhomu3

ということで、仕事の合間にふむほむの絵を描いていたら
この日記を書く時間がなかなかできなかった。
ようやっと一区切り。
キャラでキャッキャウフフと遊ぶ感覚が僕にはあまりないので、
そもそもイメージしていたデビルマン的な絵になってしまった。
もうちょっと陰影を調整してもいい感じだけど、
この辺で一応手離れしておく。
さぁ次はシャルルの絵だな!

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2011年5月17日 (火)

めまぐるしく

この1ヶ月くらいは、修羅場続きの野上さんのスタジオへ手伝いに入り浸っている。
だから絵を描く身体は弛んではいない。ありがたいことだ。
先日のCOMIC☆1に出た「スフィンクスの魔女・3」を購入された方は判るかもしれないけれど、
分業で作品を仕上げていくというシステムの中で独特の工程が組まれている。
前からも幾度かあったことだが、
僕の描いた絵だけれど僕の絵じゃないものが沢山ある。
下画きは僕だけれど、ペン入れは別の人の絵なのだ。
もちろん日程に余裕があれば僕が全部仕上げるべきものなのだけど、
ここでは、僕は良質な下画きを沢山生産することが最優先に求められた。
(一応キャラの顔を含めて似せられるし)
背景や脇役もいくつかやったけれど、
「モブ」と呼ばれるその他大勢の絵は8割以上が僕の手による下画きだ。
ご存知の人もいるだろうが、僕の下書きは迷い線があまりない。
そのままなぞればいいだけの完全な線画になっている。
だから一定の能力以上あれば、誰がペン入れしてもそこそこの形にはなる。
でもやっぱり僕の絵とは違うんだな。
僕には僕のペンタッチがもちろんあるし、
漫然と「なぞる」「トレスする」では、線に表現は生まれないのだ。
何が描かれていて、線の1本1本に何の意味と意思があって
何を表現しようとしているのか、
それを意識して描いてこそ、線に命が宿る。
野上さんのところでペンを入れてくれた人はそれなりに上手なんだけれど、
どうしてこう線にみなぎる意志が感じられないのかなと色々考えた。
そしてそれは僕の下画きに大きな原因があると気づいた。
ようは僕の下絵が描きすぎなのだ。
だからつい気持ちがトレスに傾いて思考する線から離れてしまう。
集団作業はなかなか難しい。そして興味深い。
この本ではそれでもいくつかは僕がペン入れまでしているので、
それがどれだか探すこともお楽しみになればと思う。
土曜まで手がけていたのは、全裸の美少女の群れ。
野上さんの絵や頭身に合わせつつ、とにかく描く。
これは一応全部僕の手で仕上げているので、
気持ちイー。

同じCOMIC☆1で、からサンところで出た
「中国嫁偽日記」へ寄稿したのは前に触れたけれど、
さすが井上くん(というか嫁)効果。
委託した同人誌書店も品薄や完売の状態に
それが、アキバblogやmoeyo.comに紹介されたりしたものだから
http://blog.livedoor.jp/geek/archives/51255851.html
http://www.moeyo.com/2011/05/doujin_nihonbare.html
一時はお祭り状態で、
その記事からのリンクのために
僕のこのblogも通常の10倍以上の訪問があって、まぁびっくり。
というか、漫画家になって
アキバ関連のwebに初めて名前がまともに採り上げられたり、漫画を褒められたりってのが
コレってのはどうよ!?
と自分で突っ込んでみたりする。
だけど振り返ってみると、僕が同人誌で長めの漫画を描いたときって
環望ちゃんの「バンパイアバンド」のアニメ化、
神野オキナさんの「あそびにいくヨ!」のアニメ化、
そして今回と、お友達の慶事に合わさってる。
サイタマンとか昆虫食とか脳内嫁とか、ろくなこと描いてないようだけど、
読者へ面白がって描いてるっていうより、
彼らに楽しく読んで欲しい気持ちが沢山のページを描かせる気がする。

自分からの告知は随分後手になってしまったけれど、
赤松健先生が主催するJコミという無料の漫画配信で
拙著「Ringlet」が先日から公開になっている。
http://www.j-comi.jp/book/detail/3551
事業拡張で作品数を伸ばそうという戦略でもあったのか、
樹崎聖さんからの赤松さんへの推薦をしたいという打診があって
前から意欲的な取り組みに興味と賛意を持っていたから
お願いしますとお返事したら
僕もびっくりするほどのスピードでトントン拍子に掲載となってしまった。
凄い機動力だ。
もう随分前の作品だから、絵なんて恥ずかしくて見ていられないけれど、
感想が周囲から届くのは凄く嬉しい。
絶版の折に幻冬舎の法務からは酷い仕打ちを受けたけれど、
ちゃんと権利を掌握しておいて良かった。
「Ringlet」には連載直後にはもうイメージができていた続編があって、
そのうちに続編とは判らない形で描いてみようかな。
第二次世界大戦の直前、イディスの住む在郷へ鉄路で黒い魔女がやってくる話。
単行本1冊分くらいのボリュームでどうだろうか。

僕の加盟している社長の寄り合いからの依頼で
7月にヒューマンアカデミーという学校の漫画学科で
90分ほどの講演をすることが決まった。http://haa.athuman.com/
依頼のルートの関係もあって講演料は交通費だけなのだけれど、まぁいい。
さして有名でない漫画家だし、
僕のいささか特殊な経歴や考え方が
これから絵を生業にしたいと思う人の何かの役にたてるなら。
(まぁ学校は商売でやってるんだがね)
先日、岸田メルさんがTwitterで書いていた
原稿料と生計の考えも汲みながらやってみたいな。
とりあえず、まだ先の話だけど
学校とは打ち合わせを済ませて、今日はその構成を練っているところ。

今は連載の仕事をもってないけど
妙にあわただしくめまぐるしい。
でもなんとかちゃんと生きられている。
宴席が続いたり、野上さんのところで二食ちゃんと食事をとってしまうので、
少し肥ってしまったから、節制もしよう。
そして一ツ橋での漫画のプロットもかかっていこう。
っていうか、シャルルの絵も早く描きたい。
ほむほむの絵は塗り始めたところ。

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2011年5月 1日 (日)

ということで中国嫁日記

実は昨日までCOMIC★1の新刊原稿をやっていたりした。
ホンマ間に合うんかい!っていう状況で11Pも描いちゃったお題は「中国嫁日記」。
われらが悪友、希有馬っちこと井上純弌っちゃんの
大好評人気blogである。
http://blog.livedoor.jp/keumaya-china/

今回、当の本人もカバーイラストからして寄稿しているから、
(カバーのデザインはオイラがやっている)
二次創作っていうのかどうかももう判らん。
1_4china3

とにかく楽しくリア充なお友達をちゃかすことに心血を注ぐ同人誌だ。
最近の彼、とくにこのblogは
どうやらコミスタなんて使って描いているようで、
すっかり線がつまんないものに成り下がっているけれど、
まぁこの私生活切り売り漫画が本来の仕事ではなく余技であり、
他にお仕事をちゃんとしている(はず)なのだから
時間も惜しかろうし、仕方がない。
で、かくいうオイラは、
彼の同人フィギュア製作の中国レポート漫画の
筆ペンやマーカーのタッチを再現するべく、
ちゃんと筆ペンとマーカーを買って描いている。

Keuma01
一見、本人が描いているように見える(見せる)ところが肝。
いやぁ、しかし、オイラ上手いな。
優秀なアシスタントになれそうだ。

内容もバカみたいに面白いオバカ漫画だから、
(っていうか自分の漫画よりこういう漫画の方が面白く描けるのは問題だ)
手にとっていただける方は
コミ1でどうぞよろしく。
サークルスペースは
『日本晴』え57a
とのことらしい。

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