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2011年5月25日 (水)

ようやっと まど☆マギの感想文

デビルマンの現代的再生になるのかな。
途中まではそんなことを考えていた。
あの時代より遥かに今のほうが爛熟と混沌と陰鬱が空気を満たしていて、
顔の見えない男の主人公よりも
少女達は踊るのか躍らせるのかに関わらず印象としての破壊力をもって存在しているから。

何を期待するでもなく見始めた「魔法少女まどか☆マギカ」だったのだけれど、
劇団イヌカレーのイメージの強さと
アニメオリジナルという強さに惹かれて、
とうとう最後までわくわくして観ることができた。とても楽しかった。
誰も知らないストーリー、それに思いをはせて、人と語らい、同時的に体験する共感と喜び。
陰鬱なれど謎の多い展開は、オリジナル作品ゆえに実に相応しかった。
作品の出来不出来とは別に、こういう体感と勢いこそが、
時代に刻まれる作品になる要素だと思う。

最終回まで通して観ると、
主人公のまどかの精神的な過程は流れとして不安定で、
修練や成長をしていっているようにはちょっと見えない。
成長するべく促された母親からの素晴らしいアドバイスが、
見事に瓦解したのは大変驚いたが、
ゆえにまどかは、階段を上ることなく右往左往していただけに思える。
それは「ストライクウィッチーズ2」の宮藤のそれと似た印象がつきまとう。
宮藤はそれでも主人公たる対面を取り繕ったけれど、
まどかの場合は10話で ほむほむが真の主役だったことが露わにされる。
主題歌「コネクト」の歌詞はほむほむの視点だったことが
ここで明らかになることでも判る。
そしてほむほむにとっての主人公まどかと
観る者の主人公ほむほむの構造で最終回までなだれ込む。
まどかの主体の弱さは脚本の不備のように思えるけれど、
この「スイッチ」は成功であり正解であったろう。
僕を含め多くの人が恐らくこの10話ですっかりほむほむに転ぶ。

僕は自分のトラウマから誰かの友達になれるということに弱い癖もあって、
臆病なほむほむの細糸をたぐるような想いの寄せ方にもうメロメロ。
奇跡のような幸福感とその喪失の痛みの中で選択した道は
波のように彼女の心の形も削り変えていく。
ケン=グリムウッドの「リプレイ」もそうした時を繰り返す主人公の男の話だったけれど、
ほむほむはしかしその主人公のように成長はしない。変質をしていくのだ。

QBがまどかの魔女としての資質の増大を、
ほむほむが並行宇宙の因果をまどかを軸に束ねてしまった結果としている。
けれど、ほむほむという主体が一貫した記憶と自我を保持し続け、
またその時空世界での自分が別に存在していないことからも、
これは ゆかにゃんの「運命のタロット」にある、
歴史の「幹」として固定される前の「枝」なのではないのかなと思う。
つまりQBの説く並行世界とは若干論が異なる。
ゆえに魔法少女としてその枝を司るほむほむが、
まどかと自分を軸に何度もその枝を繰り返すのでまどかの因果の増大を招く。
実際、枝ごとにまどかの性格は沈み込むように微妙に変わっている。
そして同時にほむほむが自ら述懐するように
自分自身の変容と喪失をもたらしている。
その反復はアニメで語られる以上の回数を踏んでいることは想像に難くない。
その中で、まどかとは別の形でほむほむは既に少女の姿のままで
世界を統べる唯一無二の「魔女」になってしまっていたのだと思う。
そして、魔女「ワルプルギスの夜」はほむほむの陰画であり、
一つの可能性の未来に訪れたほむほむの魔女として姿のように思えて仕方がなかった。
かの魔女もまたその怨念で時を渡り、姿を変容させ、対峙を続けた。
だからほむほむは何度闘っても克服できないないのでは。
そんなふうに見ていた。

そしていまひとつ感情の変転と昇華が釈然としないままなんだけど、
物語のスピード感に圧されて
まどかは宇宙の構造をも凌駕する無限プリキュア、じゃなくて魔法少女として起つ。
釈然としないものを抱えつつ圧し切れる作品は、
その突っ込みに物語が崩壊せずに
観る相手に何かを預けて思い廻らせる力があるということ。
(完璧すぎる作品は必ずしも記憶に残る作品になるとは限らない)
まどかはでも観る者にとっての主人公ではないので、
必ずしもその精神の行程が明瞭でなくても構わないような気がする。
ほむほむの主人公としてどんな存在であったのか。
10話ではまさにほむほむがデビルマンのハルマゲドンへと誘うシーンがあるが、
まどかは救いを選択する。
そして終回、全ての魔法少女の絶望を救済する意思を謳うがゆえに、
ほむほむにとっては残酷な救済者であり解放者になったのかもしれない。
そのために僕らの主人公は
唯一無二、最後の魔法少女として戦い続けることになる。
まどかは上位シフトしたのか。
クラークの「幼年期の終わり」でのそれは
仏教的な解脱の思想観に影響されてか、
すでに既存の人類とは心通わすことのない彼岸の精神体になってしまう。
人類に固執せず、感情より理性、ある種の人非人になることだとすると、
それとは異なる。
まどかは「魔法少女の希望の救済」たらんとした人の思念としてのシフトだ。
それはキリスト教的な人間属性の強い存在になろうとしてるとも見える。
しかしながら極端に教条的な依存や統治を示すものでもない。
ゆるやかな日常の神様や、お盆に還ってくる死んだ親族の存在感や霊などに近しいもの、
偏在する厳かなる神性が、
自分の生き方を律する糧になっているのを示しているようにも感じる。
それはまどかとほむほむの自己犠牲の精神と共に
とても日本的な回答のように見える。
そして能天気なハッピーエンドで結末を歌い上げずに
無常観でくくったところもそれを感じる。
かくて残酷で優しい神は「頑張って」とほむほむの耳元に囁き続けるのだ。

TVではかからない主題歌の2番の歌詞を読むと、
それはほむほむの心情ではないことが見て取れる。
これはまどかの歌だ。
この物語の構造に良く似ているなと思う。
作り手の創意や野心が込められた
久々に心地よくのれたアニメだった。
(ブルーレイも買っちゃったよ)

Homuhomu3

ということで、仕事の合間にふむほむの絵を描いていたら
この日記を書く時間がなかなかできなかった。
ようやっと一区切り。
キャラでキャッキャウフフと遊ぶ感覚が僕にはあまりないので、
そもそもイメージしていたデビルマン的な絵になってしまった。
もうちょっと陰影を調整してもいい感じだけど、
この辺で一応手離れしておく。
さぁ次はシャルルの絵だな!

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