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2011年6月

2011年6月19日 (日)

なんの免罪符だ?

TVのCMや、新聞、雑誌、webに到るまで、その広告欄の端々にやたらと
東日本震災の被災者へのお見舞いの言葉を目にする。
あまりにも似たような文言で、あまりにもあちらこちらで出くわすと、
もうルーチン化してしまったそこに心がこもっている様には思えない。
というか逆に呪符か祈祷札のように見える。
何に怯えてるのかっていえば想像はつくけれど、
企業が広告を打つこと、商行為をすることは
そんなに不謹慎なことなのかな?
技術やサービスを売ったり、幸せや愉快さのイメージを届けたり、
仮に贅沢品の売買であっても、
それは経済や社会の機能を担い支える大切なものだし、
自分達の活動に誇りと自信を持って、堂々と胸をはればいいことじゃないか。
これは震災直後にACの広告ばかりになったころから感じていたけど、
さすがにもう災厄への喪に服して首を垂れ、口をつぐむ時季ではないだろう。
「不謹慎だ」という的外れのそしりによるイメージ低下を恐れるのは、
うがった見方をすれば
自分達が不謹慎な広告なり企業活動をしているという自覚があるということ。
少なくとも自分達が口に糊するための行為行動が
無理解や理不尽な理屈による非難を退ける哲学も理念を持ててない。
自らに責任がとれないという弱い心の裏返しに見られても仕方がないだろう。
被災者への配慮にかこつけて
リスク管理という美名に摩り替えた保身としての思惑ならば
そういうスタンスが広告を打てるような日本の有名企業の心根なんだろうか。
人は組織になると、どうしてこんなに無責任で愚かになるんだろう。
そしてなによりもそれが被災者の困苦を愚弄していることには思い至らないのかな。

マンションの自治会の役を受けたので月例の会合など出ると、
地元の公的行事の報告の中で「自粛」という言葉がちらちらとまだ聞かれる。
そういえば6月上旬にある地元のお祭りも
ポスターは貼ってあったのに今年はお囃子が聞こえなかったなと思っていたら、
さっき買出しの折に見た近所の町会の掲示板には、
「氏子祭りの中止のお知らせ」と差し替わっていた。
(僕の住む地番はこの神社の氏子に当たらない)
神殿で定例の祭式は行うけれど、
震災被災者に配慮して神輿かつぎはしないことで決定したそうな。
はてな?
祭りは祀りであって、
単なるお楽しみ会でもお遊びでも、お祭騒ぎでもないはず。
もちろん神社の縁起にもよるけれど、
神殿での祭礼だけでなく、神輿にも祀りとしての意味があって、
それぞれに関係性を持ちながら成立するものでしょう。
神輿は進む先々に神威を満たし、地を鎮め、豊穣を祈るもののはず。
それこそ地震があったのなら、
地鎮めに念入りに執り行なうのが筋道じゃないのかな。
お祭りって、祭事であると同時に、
地域や世代間のコミュケーションの機会だったり、地元の経済振興だったり、
文化芸能の伝承だったりと、
担う役目も多いし影響も大きい。
それなのに被災地に申し訳ないような
「お楽しみ」としか考えてない人が沢山いるってことだ。
祀りとしての意味や筋道を立てて主張できる人がいないってことだ。
そうしてまた「不謹慎」のレッテルを恐れてばかりで
責任を逃れたい人ばかりなんだ。
神社としてするべき責任を全うし、
被災地への慰霊と地鎮へと祭の意味と意義をきちんと打ち出して、
氏子や地域に呼びかけ志を共有し、
堂々と催していこうという人がいないんだ。
その態度のどこが被災地への配慮なんだ。
どうしたもんだろうね、この大人の理念や哲学の不足と無責任っぷりは。

責任は問われるのを避けるものではなく、
果たすためにあるものだ。
いつからそれが変わった?
そうそう、免罪符ってのはやましい心や罪がある奴のためにあるのだった。
彼らにとっては「被災地へ配慮して」の文言はそれなんだろうね。
昨夜、被災地へ医療ボランティアに入っていた人達と夕食を共にして
色々と話を聴いたので
このギャップについ憤ってしまったよ

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2011年6月15日 (水)

ハズレ2本

近所の映画館が14日は1000円DAYということで、夕方から突進してきた。
もちろん仕事にキリがついたからである。
今回も微妙の呼び声高い邦画2本立てというコース。
ああ、でも最初に言ってしまうけど、ハズレだよ。
今年はそんなに映画観てないのに、こうも立て続けに地雷を踏むとは。
信じてないけど神様の意地悪。
映画は「GANTZ:Parfect answerhttp://www.gantz-movie.com/perfect-answer/
と「プリンセス トヨトミhttp://www.princess-toyotomi.com/
もうGANTZは終映だけど、どっちも皆んな観ちゃらめぇ!!!!!
1000円でも大後悔なんだから。

で、「GANTZ」の感想。
前編が原作のエピソードを上手く入れながら、独自の人間像を深め、
特撮もチープさが目立つ邦画の体たらくからは一線を画す出来で、
とても好印象だったのだけど、後編はだめだ。
原作から離れたオリジナルの展開が悪いとは思わないけれど、
今回は人物描写がどれも未消化。
山田孝之演じる、主人公たちGANTZの徒を追う男も、
結局はドラマに主体的に絡めないままで空振り。
伊藤歩演じるトップモデルも人間的な軸が覚醒後も曖昧。
吉高由里子の多恵も絵を描くという行為や履歴が印象的にドラマに結びつくには不十分。
「千手だ」って確信めいてつぶやいても実は「黒服星人」だったりするし。
黒服星人も「オマエ達が先に殺った」とか言う段階で、地球人を糾弾する裁定者の資格なんてないし、
そいつの論理を結局クロノは論破も克服もできないし。
前作でクロノが唱えた「人にはそれぞれ役割がある」っていうフレーズが
今回はまったく出てこない。
言葉にしないけれど、それを身に引き受けた苦渋の選択があれなのか、
あれが「Parfect Answer」なのか。
人の経験や記憶、そこからの想いという要素を大切にしないでロハでめでたしとは、
脚本的には随分と楽な方法をとったんだなと思う。
同じく世界を司る能力を得た「まどか☆マギカ」のまどかの選択の方が
よほど難しい橋を渡る勇気に満ちている。冒険的で野心的な姿勢が見える脚本だ。
映画人として自分の安易さが恥ずかしくないのかな。
カメラワークもアクションも特撮もかなり頑張ってるだけに脚本での惨敗感が悔やまれる。

プリンセス トヨトミ」 はTVの2時間ドラマ以下の酷い作品。
原作は未読だけど万城目さんの作品は風呂敷の広げ方が大胆かつユニークで、
それが妙にコンパクトな個人の中で動き回るこの微妙なスケール感の抑揚が楽しい。
今回も骨子はそうなんだけれど、
なんだか演出もカメラも脚本もTV的な気ぜわしいだけのこけおどしで、
映画的な風格がぜんぜんない。
ワイド画面なんだから1ショットで表現できるところを
コチョコチョ画面を意味不明にいじってカットを割って
今風なテンポでございと気取った様の浅はかさ。
ヤマト実写版でもそうだったけれど、光る死人を登場させて懐かしみ語り合う情景は
役者の演技も観客の解釈も信用しない、期待してないっていう
ダメダメでベタな馬鹿演出の典型でしょう!
しかも心情を最後にぺらぺらぺらぺら喋るのは、ドラマや行動や演技で示せてない証拠。
カメラも脚本も演出も最低だよ。
(笹野高史や中井貴一の演技は良いんだけどな)
映像的に見せ場っぽく使われるからっぽの大阪市内も特にカタルシスを感じないのは、
そこを徘徊する綾瀬はるかの演じる会計検査院の女子に存在価値が薄くて、重みがないからだ。
それに、単に人が大阪府庁へ集まっただけなのが分かるしね。
(消失でも停止でもない。ただの離席サボタージュ)
それを重く大変なことに見せることが演出なのに、
空っぽの街っていうビジョンにのみ頭がいってる感じ。
父親と息子という構図が軸の作品らしいのに、
この女子は人物設定の伏線としても心情的にもまったくドラマに絡まないのに、
中途半端に展開に関わるからお話のベクトルが散漫になってしまう。
そういう男達の外にいる女達との相関構図がもっと明確なら
女性も立場があったけど、これじゃ綾瀬は笑えないボケた迷惑女だ。
しかも結局クライマックスになにも関わらない。
もしかして原作にはいなかったんじゃないかなと思うくらい。
最近は客ひきのためにわざわざ女性キャラを儲けることがあるから。
特撮もセットも安っぽかった。
無人の大阪の合成は綺麗だったけど、そこで息がきれたのだろう。
赤いオーラの大阪城は陳腐だし、
ペカペカのセットにパカパカの照明はまるで学芸会。
まぁイメージ専行だろうけど7月の富士山はあんなに冠雪はないから!
しかも富士山のふもとの十字は意味不明。
先日、「星を追う子ども」がパチもん臭くて、志も低いって書いたけど、
こういう三流以下の作品はパチもん以下だ。
鈴木雅之っていう似非監督の映画はもう二度と観たくないし
メガホンなんてとって欲しくない。

あー、なんか口直ししないとだめだー。
やっぱり「SUPER 8」http://www.super8-movie.jp/
か「スカイライン」http://skyline-movie.jp/
か「世界侵略:ロサンゼルス決戦」http://www.worldinvasionbattlela.net/
かなぁ。全部侵略ものでゲソ!

ところで予告編で7月16日封切りのジブリの「コクリコ坂から」が流れた。
絵はゲドよりもよほどジブリだし、
手嶌葵の歌は上手くはなさそうでしかし雰囲気はある。
「上を向いて歩こう。」って書かれたいつもの筆跡が
この書体を使えばジブリ的で情緒や威光が分かるだろ的な
手垢にまみれた下らない常套手段のようで、このルーチンを尊ぶ精神が不愉快。
また、宮崎御大は少女漫画をやっぱりぜんぜん読解できないんだなと思う。
http://kokurikozaka.jp/project.html
吾朗監督は、周囲の事情で業界では有名な親父の跡を継がされた背景が僕に重なるようで
二代目の悲哀と苦悩に同情を禁じえないが、
よそで「ゲド」よりよほど立派なパチもんが作られる時代に、
いつまでもこの不自由で惨めな状況を是とせず、 迷惑な父親と腐った組織を捨てて
早く自分で自分の人生を御せる場所に帰ることを薦めたい。

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2011年6月13日 (月)

宴会敗残兵

Father
「まどか☆マギカ」の最終話の魔獣は
ファーザーに見えて仕方がない むらかわです。

負けた。大敗を喫した。
10日は午後から(社)日本漫画家協会の総会が帝国ホテルであったので、
出席するべくいそいそ出かけてきた。
お仕事で出席できない野上武志さんの議決委任も受けていたし、
昨年末に入会した新会員ということもあり、
心して出かけたつもりだった。
事前に会員名簿を見て、顔の見知った漫画家さんをチェックしておいたし、
名刺もしっかりと数を持参した。
朝から風呂に入り、洗濯したアロハを着て用意万端、
会場にも開会40分前には着いた。
受付を済ませ、どうぞとばかりに総会会場に通されたら、
大御所の先生たちが居並ぶ中、総会の前の支部長会の真っ盛り。
うわ~、場違いだなぁと汗をかきながら隅で小さくなって傍聴する。
こういう会議を傍聴するのは組織の内情が見えて良いのだけれど、
なんで末端のヒラ新会員をここに通すんだろうと、もやもや。
その支部長会が佳境にさしかかったところで
やなせたかし理事長御大が到着。
そもそも参加が危ぶまれていたらしく、杖をついて登壇。
今年になって耳に加えて目を悪くして、もうよく見えないし、絵も描けないから、
「もうすぐ死ぬので引退する」「だから協会の理事長も辞する」
と92歳が吼えたところで
そのまま「私は漫画家として地獄を見たからここまでやってこれた」とか名調子で話し続ける。
とうとう支部長会の時間はなくなって、慌てた事務局がそのまま総会へと進行する。
ところが総会になっても会場の席がそう埋まるでもない。
意外と少人数で総会議事はスタートしてしまった。
各理事の大先生方がまったりと議題説明などを続けるのは微笑ましいのだが、
結局、委任状が足りているからなのか議決をしない。
なんじゃろこれは?シャンシャンどころじゃない。いやびっくりした。
こんな総会初めて。
で、ここにきて嫌な予感がしたのは、
総会出席者の殆どがご高齢者というか年配の方々ばかりで、
面識のある人が一人もいないってこと。
そして会場を中二階に移して宴会へ。
漫画家協会賞受賞式を兼ねたこのレセプション。
会員の漫画家よりも圧倒的に部外者というか外部の取引先などの人が多い。
比にして漫画家1:3取引先という感じ。(印象ね)
で、ここまできて、新会員だから、理事さんたちに面通しするでもなく、
何か目印の花とかをつけるでもなく、
会話ができるように、強制的にテーブルを設けるでもなく、
基本的にまったくの放置状態。

ここで僕の失敗その1。
子供の頃からジャンプはもとより、サンデー、マガジンから青年誌に到るまで
少年漫画らしきものを殆ど読んでこなかったので、(今もあまり少年誌は読まない)
殆どの漫画家さんを知らない。作品も知らない。
自分は少女漫画ばかりで育ったし、その先生の大半はいまや引退されているので、
僕の分かる方は皆いない。
とにかく、眼前に高名な先生がいらしても、作品を読んでないから話の切り出しようがない。
失敗その2。
予め準備してきた顔見知りの会員さんがすべて欠席。
宴席の時間からの参加者もいらしたのだけれど、とにかく誰も知らない。
松本零士先生がいらしてたら是非ご挨拶をと期待をしていたのだけれど、欠席。
そこにきて外部の取引先も知らない会社、付き合いのない会社の人ばかりで、
もうチリメンジャコの中に混じってる小エビのような孤独感でいっぱいになった。
失敗その3。
宴会場はウェイティングドリンクがあるのは良いのだけれど、
受賞者を雛壇に、やなせ先生が歌い踊っているので、(いつ死ぬ気なんだよ!)
開会後1時間以上、料理に手もつけられないから、
結局待っている間に白ワインを1本分すきっ腹にあけてしまった。
これでかなり酔いが廻ってきてしまった。
失敗その4。
ここまで孤独でお酒が入ると、気の張りようもなく、
すっかり一人ぼっちイジケ癖のスイッチが入ってしまって、
周囲を不快にしないようにニコニコしてるんだけど
誰とも口をきかずに、駄目な自分を呪う様に責め続ける状態になっちゃう。
自分がキライ。自分がキライ。自分はダメ人間。自分はダメ人間。
これをずっと頭の中で回し続ける。
ドロドロのヘドラみたいな状態になっていたら、
プロはだしの絶妙な司会をされている里中満智子先生のお声で、
今期の新会員の登壇を促され、そこには僕の名前も。
それなりの人数が呼ばれたはずなのに、来場していたのは僕を含め4人。
その顔ぶれには安倍夜郎さん、藤本由香里さんがいらした。
僕は簡単に「40代で漫画家になりました」と自己紹介。
すると里中先生が「それまで何をされてたんですか?」と問われるので、
「経営していた町工場が倒産しまして…(あと苦笑)」
すると「地獄を見ていらしたんですね。そういう方は強いから」と里中先生のツッコミが入る。
凄い司会っぷりだ。
ここでやっと会場で言葉を発してつかえが少しとれたこともあり、
安倍さん、藤本さんにご挨拶。
安倍さんは、僕の地元での行きつけの小料理屋に何度かいらしたのを知っていたので、
そこの縁で話題をふる。
藤本さんは少年画報社フデ様の名前を出したらコロリと表情が和らいだ。(さすがフデ様)
つまりは自分のエネルギーや話題で誰かとお話できる力が残ってなかったのだ。
その後舞台は、バロン吉元先生がテンガロンハットとウエスタンシャツで踊り廻り、
続いてやなせ先生があの「赤毛のアン」の主題歌も歌った大和田りつ子さんと
お化粧直しを繰り返しながら唄い踊るステージが繰り広げられた。(いつ死ぬ気なんだよ!)
当然、アンパンマンも登場する。
その間に、さいたま市盆栽町の漫画会館の学芸員の人を見つけたので
僅かな時間だけれど、名刺交換。
そこで自分にはもう精一杯で、すっかり元気を奪われてた。
ちばてつや先生の中〆で散会となったのだけれど、
そのあとも挨拶する人が絶えない ちば先生にやっとの思いで、握手を申し出る。
僕の住むところは以前、先生が住まわれていた地域なので、
そのことと、新会員であることを告げると
快く笑顔で握手をして下さった。
僕は僕が嫌いだから、他の多くの人のように写真を一緒に撮ることはできない。
自分の写った写真は残したくない。
だから握手だけ。

社長時代には商用のパーティの鉄則をちゃんと実践してきて、
名刺を何枚配ってどれだけ話をしてきたかを自らに課してきたのに、
その力はもう枯れちゃったのか、磨り減った心がまだ元に戻らない。
営業職としてなら、今回はもう落第点の大敗北。
なんだか負け続けで、ぬかるんだ塹壕を這い回るような散々な宴席だったけれど、
「ハリスの旋風」を「あしたのジョー」を描いた先生の右手を握った感触だけがその夜の戦利品。

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2011年6月10日 (金)

君に届け 2nd Seasonに思う

保守的な二人だと思う。
日本から絶えてしまった言葉を体現するかのような女の子と
爽やかでまっすぐな男の子。
その折り重なる気持ちの物語。
二人はでも決して旧い過去のノスタルジーに支配された人となりではない。
今の時代を生きる人の気持ちをちゃんと重ねられる心の鏡だと思う。
風早はともすると、僕が一番苦手になりかねないタイプだ。
人の輪の中心で皆んなの気持ちを動かしていける人気と人望があり、
スポーツも得意、頑固でまっすぐで、一本気な性格の持ち主。
亡くなった僕の父親や大学の藤田和日郎先輩と似てる。
ただ風早が決定的に違うのは
周囲から与えられるような伝統的な価値基準や関係性、既成概念や風評などに
ものを見る基準を置かず、
少年的な瑞々しさを残した感受性から発する
フェアな目線と自由度の高い感覚を持って向かい合うことだ。
それは僕のようなマイノリティにも光をかざしてくれうる存在となる。
(しかしこんな精神的なバランス感を持った高校生はまずいないよな。もっと子供だよ)
爽子は素直にして貞淑、誠実で思いやりがあるけれど遊びの少ない精神構造で
結果的に努力家だ純粋だと評されることになるが、
今の高校生的には当然のごとく異端視され敬遠される存在だ。
1期はそれを一歩ずつ変えていく姿だったけれど、
2期では冒頭、恋愛を意識したがゆえに戸惑い。余計に臆病さが先に立って、
ネガティブな面が強調されてしまう。
それでも彼女をヒロインたらしめるのは、
天然にして愚直なるがゆえに、おかしみすら持って切り抜けるの芯の強さと、
何より彼女を構成する美徳や心のありようが
どんなにスレてしまった人にとっても、自分の中のどこかに必ず有している、
か細くあやういけれど大切なものの欠片に重なるからだ。
表層にある型や伝統ではなく、
「人」の中に通底する公約数的な大倫や美徳のようなもの。
だから人は爽子へ嫌悪があっても、どこかに自分を見出してしまう。
無自覚になっているその自分の心の具現(爽子)に触れることの感化。
それはまさにドラマの中で友人が繋がっていく様であり、
その友人の心境も行動も僕ら受け手の軌跡をトレスする。
それはもう保守ではない。
風早と爽子のそうした存在感の妙が、
昔の少女漫画のメンタリティの域を出ない韓国メロドラマの多くとは、一線を画す。
(まぁ儒教的封建制が根強い半島では旧いと見える感覚がまだリアルを占めるのだろうが)
ゆえに、古臭さなど感じられない。
まぎれもなく現代に求められ、今を語るための作品だ。
ちなみに僕は、二人の恋愛の動向よりも、
友人を求める爽子の孤独とあきらめと微かな期待に気持ちが動いた。
ネガティブで孤独だった昔の自分に重なって1期前半の6話までで、
散々泣かされてしまったのだ。

リリースされたDVDには収められなかったけれど
今期全13話の序章(Episode.0)は、くるみの視点で幕を開ける。
彼女の視点から前期を総覧することが目論見だけれど、
それは同時にライバルを認識する爽子との関係性を描く目的なり必然があるのだろうと考えていた。
「君に届け」の雑誌連載で風早との告白をピークと捉えて、
以降は蛇足と見る言葉も散見されたけれど、
少なくともそれは見かけ上のピークでしかなく、
物語の本質としては
風早との関係性だけが、爽子の持つ世界でも人間関係でもない。
恋愛の一つの成就は二人とその周囲に新たな関係と変化をもたらす。
その当たり前のことを爽子の視点でちゃんと意識し、気持ちの定まりを見出さねば
彼女という人物を語る上で片手落ちになる。
その代表格が親友達ではなくライバルのくるみとの関係だ。
爽子とくるみの人間関係をちゃんと語らないと
アニメとしての作品の軸足が定まらないというか
爽子の恋愛っていうものへの視野が浅くて舌足らずになってしまう。
人の痛みのわかる心根を持つ爽子らしからぬまま終わることになるので、
それでは物語としての真のピークを語らないことになる。
爽子とくるみの決着は並行して周囲にも新しい居場所と、
集団劇としての物語の大きな回答をもたらすのだから。
原作を大きく逸脱するものではないけれど、
初回のアニメオリジナルの前振りがあったからこそ、
くるみの存在がドラマにより有機的になったと思う。
また、文化祭、風早の爽子への告白時に反応する周囲の中で、
画面がPANする先で唯一背を向けていた妖精の女王の扮装がくるみであることは
その前段の会話の中で彼女のクラスが「七人の小人」、
白雪姫ではなくドイツの妖精譚をテーマとしたことで、容易に想像がつく。
原作でもあった構図だけれど、そこまでの解釈が与えられる扱いの絵ではなく、
これはアニメでのアプローチだ。
くるみはくるみの物語をこうしてつむぎながら、爽子と向き合うことになる。
そうして恋を成就させながらも、
失恋する喪失の重さも身に引き受けた形で
爽子は爽子らしい歩みを始める。
アニメは二人の初デートをエピローグとして付け加えたのは少し驚いたが、
その必要も理解できる。
とても納得性の高い所で物語を締めくくったと思う。

2期は作画のボトムが1期よりも高かった。
それは今回、IGが質の低い下請の制作会社(トランスアーツ)を使わなかったという指摘もあるが、
定かではない。
でも、最終回まで観て、作画の乱れが酷く気になる回は皆無。
1期のような頻出とは明らかに異なる。
2期はキャラのデッサンクオリティはもちろんなのだけど、
瞳や手の演技付けが印象的なシーンが多かった。
先日のマクロスFの感想で書き忘れたのだけれど、
マクロスではこの目の演技が全然出来てなかった。
それは最近の漫画やアニメで見受けられるけれど、
目のデザイン形状が設定的に「型」が優先されて、
表情が与えにくいものになっているからだ。
結果、瞳や目に変化がつけづらく形状固定のままで、
表情は眉や口で変化させることになってしまっている。
(自分の漫画では常に気をつけてるけどね)
(「オカルト学院」のマヤは逆に表情が柔軟で素晴らしかった)
「君に届け」ではそもそもの目のデザインが少女漫画の文法もあって、表情がつけやすいがため、
場の雰囲気を語るに、止め絵でも力を持つし、
アニメならではの瞼や瞬きのニュアンス、瞳の移動などをもって
例えば1話「バレンタイン」でのくるみの企みのある語りなど、十分な演出ボリュームを出せている。
また、手の表情に関して特筆すべきは9話「告白」だろう。
(9話は目の表情も豊かなんだけどね)
どうしても台詞の緊張感へ気持ちが向きがちになるけれど、
爽子の手の表情はその心理をとても伝えていた。
原作にもある絵だけれど、多くは引きのシーンの中での部分でしかなく、
もちろん動かないから漫画での印象としては強くない。
そこをアニメでは心を映すものとして意味をしっかり与えていた。
不安に震える様、力を込める様、恥らう様、
そして抱きすくめられているときに風早のシャツを探るように頼るようにつかむ仕草。
気持ちを伝えるということに
ここまで手の表情を尽くしたアニメのシーンは皆無だったのではないか。
僕は手や腕の持つ艶っぽさを再認識させられた。
8話「届け」Bパートの
原作の構図や構成を踏まえながら、解釈の入った絵コンテも見事で、
人物の心象を校舎など背景と絡めてとてもしなやかに語られていた。
「ガンダムUC」の古橋監督の本領発揮というところか。(1期第6話も担当)
2期の「動的」なピークはやはりこの8、9話にあったと思う。
逆にここへリソースを配分したためなのか、7話など新人がコンテ担ったが、
原作の絵に呑まれて、構図も演出も脆弱で芯のない腰砕けの回もあった。
そういう回は前述の目や手などの演技もまるでなくて喰い足りない仕上がり。
とはいえ、概ね1期26話の続く話として、健闘したと思う。
欲を言えばキャラの顔が回を進めるにつれ原作にどんどん準拠して
目鼻のバランスが可愛くなりすぎてしまったことが残念。
単純な可愛さではなく素朴な美しさが魅力のヒロインなので、
そういう造作の意味をアニメとしては大切に貫いて欲しかったな。
(つまり最近の原作の絵は可愛くなりすぎて疑問視してる)

2期で新録された音楽は、爽子や風早の苦悩と、
それを超え勇気を持って踏み昇っていくような実直な力を感じさせる曲が印象的。
1期の蕾がふくらんでいくような面持ちの楽曲と相まって、
ボレロのような2期のドラマにとても合っていた。
1期も2期も生楽器の編成は少なく、打ち込みと電子楽器で作られている様子で
音にいささかの深みのなさは禁じえない。
でも旋律として身に染みてしまったので、CDは購入したいとは思うのだけど、
ジャケットに流用された版権画とデザインがあまりに不出来で、なかなか購入に踏みきれない。
こうなったら自分でPCで作っちゃおうかな。
(いい時代だ)

漫画を描いたり読んだり、アニメを観たり、小説を読んだりしていると、
創作なんだけれど、その人物が実際にいるかのように
生き生きと自分の中で存在を強めてしまうことがある。
長い友人のように想いを注ぎ、その未来を思う。
(自分にとっての最初は宇宙戦艦ヤマトだった)
沢山のアニメや漫画が作られている中で
そういう相手になり得ることは希である。
アニメになって声と動きを与えられた「君に届け」の人物たちは尚更に
きっと多くの人にそういう存在になったと思う。
恐らくもうアニメでは風早と爽子の今後を語るべきものは作られないだろう。
(原作はそれを描き続けてはいるけれど、それもいつかは結ばれる)
でも僕らはもう、このアニメのエンドから風早と爽子の将来を自由に思い描くことができる。
それはとても幸福なことだ。
Kimitodo2

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2011年6月 2日 (木)

マクロス、星を追う

実は先月、駆け込むように映画を観た。
振り返ると2月の「GANTZ」以来だから2ヵ月半以上も劇場にいってなかった。
その「GANTZ」も年末の実写ヤマト以来だったから、
今年は本当に映画を観ていない。
で、既に公開中の「GANTZ」の後編とかも視野にあったけれど、
ここは「微妙」の呼び声高いアニメ二本立てのまんが祭りにしてみた。
映画は「超時空要塞マクロスF~サヨナラノツバサ」http://www.macrossf.com/movie2/
「星を追う子ども」。http://www.macrossf.com/movie2/
劇場はどちらも池袋のシネマサンシャイン。
もう小屋からして微妙…。
池袋は近くて便利なんだけど、施設も客層もちょっと良くない。

で、マクロスの感想文。
今回は前編と違って作画は殆ど新作なんだろうと思う。
というのは、TVシリーズの時はもう後半はしんどくて
とばしとばし観てたので絵まで覚えてない。
なんだろうけど、ガックリするような動画にしばしば出くわすし、
表情のつけ方も演技も大味、胸躍るような作画が全然ない。
(キャラデザの江端里沙の手が入ってる部分はなんとか見られるけど)
作画の弱い部分をCGの賑やかしで誤魔化しているような印象ばかり。
マクロスFはやっぱり映画としての「格」を持っているようには感じない。
(というか製作のサテライトにその資力や能力がないのかな?)
(パチンコマネーは何に使ってるんだ?)http://fever-macrossf.jp/
特筆すべき酷いシーンは、実は殆どがこの作品の「華」であるべき歌曲の舞台。
誇張と言うか、お約束の部分はあっても
シェリルの毎度のお色気演出は陳腐だし、
それを一層陳腐に見せるのは絵に艶がない上に、動画が稚拙。
そしてそれをまた誤魔化すかのように、
CGでこしらえた物量のシェリルが作画との違和感を残したままくねくね踊るから
興醒めしてしまう。
ランカの大げさな「少女趣味」満載のシーンは
実際の内面のドロドロした粘着性と、気持ち悪いほど裏腹で、
このキャラの造作には拍手を送りたい部分だけれど、
やっぱりアルカトラズでの舞台などで
歌の振りがモーションキャプチャーの動きをトレスしたような
メリハリのないぬるぬるした、
動画の演技づけや誇張のまるでない絵だった。
(半世紀前のディズニーの作画法かっての!)
ランカのお面をつけた人間が踊っているような茶番に見える。
これってどういう勘違いなんだろう。
「STARDRIVER-輝きのタクト」でニチ・ケイトの人気が上がったのは
一人カラオケのシーンでの動画の演技や小気味の良さだったはず。
それと逆のことをするなんて理解不能。
「マクロスF」をシェリルとランカの音楽商売上のPVに過ぎないっていう揶揄もあるけれど、
仮にそれでも、これでは最低だ。
ぜんぜん魅力的に見えない。可愛くもない。

戦闘シーンはCGの良さは出ていると思う。
複雑な動きや構図をぐねぐねできるし、ディティールが減らない。
だけどこれってうるさいだけなんだよね。
相変わらず、動きすぎるがゆえに大きさを表現できてないし、
絵としての見得が切れてない。
凄いなぁって印象がかけらもなく、カタルシスを感じない。
なんか初代マクロス劇場版の冒頭とかの全作画の方が断然感激するんだよね。
ああいったメカアクションでの見得を、「F」のCGでは切らない。
なにか根本的に大きさとかスピードに関する感覚が違う気もする。
CGスタッフを始め、コンテ関係の人は
大きなものを間近で見たことがあまりないのかな。
タンカーのドックなんて行くと、大きさに圧倒される。
そして人間や作業車との比較で移動感や空間のイメージが入ってくる。
そういう視野の感覚を養っているように感じない。
お話の感想に移ろう。
この映画ってランカという人物は必要なのかな?
アルトは純粋に踊ることと空を飛ぶことばかり考えていて、
それに向かい合えるのは、
やっぱり純粋に歌に命かけてるシェリルだけで、
俗物のランカは泣こうが叫ぼうが媚を売ろうが蚊帳の外に見える。
設定やお話の構成としてではなく人間関係として整理していくと、
ランカが主人公の一人として存在しなきゃいけない道理を感じない。
ランカなしで、シェリルにその役を上乗せすれば、
リソースが余程節約できドラマに厚味がだせる。
厚味が出せないから、ブレラが兄だと明かしても
疑いもなく信じちゃうようなすっ飛ばしが散見される。
そんなだから観客に無理やり納得させるために
「はっはっは、見事なトライアングラーだなっ」とか
取り繕うような説明台詞が必要になっちゃう。
TVシリーズよりはお話として練ってあると思うんだけど、
三角関係とか、歌だとか、マクロスの商売ネタが
結局は脚を引っ張ってしまったように思う。
まぁそれでもちゃんとお話に決着がついたのは善しとしたい。
ただ最近の受け手側は、人間関係の帰結を求めるのではなく
関係性をモラトリアムに楽しむみたい。
だから、トライアングラーが条件であるのだろうし、
決着がつくのを好まない意見が聞こえるだろう。
だけど僕はそういうモラトリアムは好まない。
人生には判断や決意で失うものがある。
屈辱や後悔があってもそこから学ぶことは大切なものばかりだから、
人は安寧を壊すべきだと考えて生きている。
かくて物語は括られる。
キャラの必要性が薄いからランカは狂言回しとしても薄っぺらなんだけどね。

星を追う子どもの感想。
「やっちゃった感」がずーっとつきまとう作品だった。
いやそりゃ、「フラクタル」よりはちゃんと「やっちゃってる」んだけど、
なんで「やっちゃわないと」いけなかったのかな。
喪失だなんだとテーマは掲げていらっしゃるんだけど、
監督自らパンフで『ジブリのキャラが普遍性があるから意識した』とか語っちゃう段階で、
30代の男が多様性とデザインの可能性を信じないで
なに日和ったこと言ってんだよ、ふざけんな!
って思うんだよね。
ガイナックスが「王立宇宙軍」を作ったとき、
そういう日本のアニメの文脈を自分の根の部分としながらも
新しいものを信じて作り出そうと全力で奮闘してたのと大違い。
もうこの発言だけで、お話はどうでも僕は軽蔑してしまう。
ええ、パンフは上映後に読むものですね。
そうしてよかった。先に読んでたら、観ないで劇場を出てたかも。
で、まぁ映画はアリエッティとかゲド戦記に比べたら
遥かに立派な、いかにもジブリアニメでありまして。
「あれ?シュナの旅だっけ」とか思ってしまうぐらいなところがまた皮肉だった。
背景美術も相変わらず綺麗だし、音楽もナカナカ、
声優も好い感じ、動きもとりあえず頑張ってる。
そこまでは新海映画なのだけど、
だけど動きはどこか「まがい物」な印象がついて廻る。
食事のシーンもどこか真似っぽくてポーズに見える。
この時代の女の子はこういうサンドウィッチの食べ方はしない。
演技の設計に芯が感じられないのだ。
借り物というかパチもんというか、なにか「型」に支配されていて、
トレスをしているような心の不在が見える。
そのお約束で成立するのは、ある意味で老人の娯楽だ。
観客がこの似非ジブリ的なものを違和感なく受け入れ礼賛する様子が見受けられるが、
ジブリ的なものの大衆作品としての存在が、スリコミや洗脳として成されているのか。
実に恐ろしく気持ち悪い。
多様性の欠如は「滅び」への道だ。
製作側が、口では「意識した」と模倣を例え唱えても、
実は、アリエッティやゲドのようなジブリに胡坐かいたぬるま湯の駄作に対して
余所者でも「このくらいのことはできるんだよ」と
ケンカ売ってるのならまだ評価するけれど、
ジブリ的なものを超えていくテーゼなり、アプローチが感じられないから
そういう意図はないのだろう。
だから軽蔑と言う言葉しか見当たらない。
お話も自分には負に落ちない点がある。
例えば、自分の死を意識していたシュンが、故郷に帰るでなし、
なぜ世界の鍵たるクラヴィスを持ち出したのか。
アスナが亡父から受け継いだクラヴィスの欠片は
結局、彼女の資質の何かを物語るものだったのか。
ところどころで所有者たる資質みたいなのを垣間見させるので、
偶然なら偶然、必然なら必然と示して欲しい。
そして何より、アスナを突き動かすシュンの喪失や日常の孤独がどれだけのものなのか、
物語前半でちゃんとしたボリュームや印象を持って語られないから、
その心にちっとも観客の気持ちが重ならない。
イカちゃんこと金元寿子は凄く頑張っていたと思うのに、
なんだか可哀想じゃなイカ。
ジブリもどきに目をつぶれば、難しい題材に向き合ったなとは思うけれど、
もう一工夫は必要だったかな。
残念な映画であった。
っていうか「子供」を「子ども」って表記するだけで僕は嫌なんだよね。

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