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2011年6月 2日 (木)

マクロス、星を追う

実は先月、駆け込むように映画を観た。
振り返ると2月の「GANTZ」以来だから2ヵ月半以上も劇場にいってなかった。
その「GANTZ」も年末の実写ヤマト以来だったから、
今年は本当に映画を観ていない。
で、既に公開中の「GANTZ」の後編とかも視野にあったけれど、
ここは「微妙」の呼び声高いアニメ二本立てのまんが祭りにしてみた。
映画は「超時空要塞マクロスF~サヨナラノツバサ」http://www.macrossf.com/movie2/
「星を追う子ども」。http://www.macrossf.com/movie2/
劇場はどちらも池袋のシネマサンシャイン。
もう小屋からして微妙…。
池袋は近くて便利なんだけど、施設も客層もちょっと良くない。

で、マクロスの感想文。
今回は前編と違って作画は殆ど新作なんだろうと思う。
というのは、TVシリーズの時はもう後半はしんどくて
とばしとばし観てたので絵まで覚えてない。
なんだろうけど、ガックリするような動画にしばしば出くわすし、
表情のつけ方も演技も大味、胸躍るような作画が全然ない。
(キャラデザの江端里沙の手が入ってる部分はなんとか見られるけど)
作画の弱い部分をCGの賑やかしで誤魔化しているような印象ばかり。
マクロスFはやっぱり映画としての「格」を持っているようには感じない。
(というか製作のサテライトにその資力や能力がないのかな?)
(パチンコマネーは何に使ってるんだ?)http://fever-macrossf.jp/
特筆すべき酷いシーンは、実は殆どがこの作品の「華」であるべき歌曲の舞台。
誇張と言うか、お約束の部分はあっても
シェリルの毎度のお色気演出は陳腐だし、
それを一層陳腐に見せるのは絵に艶がない上に、動画が稚拙。
そしてそれをまた誤魔化すかのように、
CGでこしらえた物量のシェリルが作画との違和感を残したままくねくね踊るから
興醒めしてしまう。
ランカの大げさな「少女趣味」満載のシーンは
実際の内面のドロドロした粘着性と、気持ち悪いほど裏腹で、
このキャラの造作には拍手を送りたい部分だけれど、
やっぱりアルカトラズでの舞台などで
歌の振りがモーションキャプチャーの動きをトレスしたような
メリハリのないぬるぬるした、
動画の演技づけや誇張のまるでない絵だった。
(半世紀前のディズニーの作画法かっての!)
ランカのお面をつけた人間が踊っているような茶番に見える。
これってどういう勘違いなんだろう。
「STARDRIVER-輝きのタクト」でニチ・ケイトの人気が上がったのは
一人カラオケのシーンでの動画の演技や小気味の良さだったはず。
それと逆のことをするなんて理解不能。
「マクロスF」をシェリルとランカの音楽商売上のPVに過ぎないっていう揶揄もあるけれど、
仮にそれでも、これでは最低だ。
ぜんぜん魅力的に見えない。可愛くもない。

戦闘シーンはCGの良さは出ていると思う。
複雑な動きや構図をぐねぐねできるし、ディティールが減らない。
だけどこれってうるさいだけなんだよね。
相変わらず、動きすぎるがゆえに大きさを表現できてないし、
絵としての見得が切れてない。
凄いなぁって印象がかけらもなく、カタルシスを感じない。
なんか初代マクロス劇場版の冒頭とかの全作画の方が断然感激するんだよね。
ああいったメカアクションでの見得を、「F」のCGでは切らない。
なにか根本的に大きさとかスピードに関する感覚が違う気もする。
CGスタッフを始め、コンテ関係の人は
大きなものを間近で見たことがあまりないのかな。
タンカーのドックなんて行くと、大きさに圧倒される。
そして人間や作業車との比較で移動感や空間のイメージが入ってくる。
そういう視野の感覚を養っているように感じない。
お話の感想に移ろう。
この映画ってランカという人物は必要なのかな?
アルトは純粋に踊ることと空を飛ぶことばかり考えていて、
それに向かい合えるのは、
やっぱり純粋に歌に命かけてるシェリルだけで、
俗物のランカは泣こうが叫ぼうが媚を売ろうが蚊帳の外に見える。
設定やお話の構成としてではなく人間関係として整理していくと、
ランカが主人公の一人として存在しなきゃいけない道理を感じない。
ランカなしで、シェリルにその役を上乗せすれば、
リソースが余程節約できドラマに厚味がだせる。
厚味が出せないから、ブレラが兄だと明かしても
疑いもなく信じちゃうようなすっ飛ばしが散見される。
そんなだから観客に無理やり納得させるために
「はっはっは、見事なトライアングラーだなっ」とか
取り繕うような説明台詞が必要になっちゃう。
TVシリーズよりはお話として練ってあると思うんだけど、
三角関係とか、歌だとか、マクロスの商売ネタが
結局は脚を引っ張ってしまったように思う。
まぁそれでもちゃんとお話に決着がついたのは善しとしたい。
ただ最近の受け手側は、人間関係の帰結を求めるのではなく
関係性をモラトリアムに楽しむみたい。
だから、トライアングラーが条件であるのだろうし、
決着がつくのを好まない意見が聞こえるだろう。
だけど僕はそういうモラトリアムは好まない。
人生には判断や決意で失うものがある。
屈辱や後悔があってもそこから学ぶことは大切なものばかりだから、
人は安寧を壊すべきだと考えて生きている。
かくて物語は括られる。
キャラの必要性が薄いからランカは狂言回しとしても薄っぺらなんだけどね。

星を追う子どもの感想。
「やっちゃった感」がずーっとつきまとう作品だった。
いやそりゃ、「フラクタル」よりはちゃんと「やっちゃってる」んだけど、
なんで「やっちゃわないと」いけなかったのかな。
喪失だなんだとテーマは掲げていらっしゃるんだけど、
監督自らパンフで『ジブリのキャラが普遍性があるから意識した』とか語っちゃう段階で、
30代の男が多様性とデザインの可能性を信じないで
なに日和ったこと言ってんだよ、ふざけんな!
って思うんだよね。
ガイナックスが「王立宇宙軍」を作ったとき、
そういう日本のアニメの文脈を自分の根の部分としながらも
新しいものを信じて作り出そうと全力で奮闘してたのと大違い。
もうこの発言だけで、お話はどうでも僕は軽蔑してしまう。
ええ、パンフは上映後に読むものですね。
そうしてよかった。先に読んでたら、観ないで劇場を出てたかも。
で、まぁ映画はアリエッティとかゲド戦記に比べたら
遥かに立派な、いかにもジブリアニメでありまして。
「あれ?シュナの旅だっけ」とか思ってしまうぐらいなところがまた皮肉だった。
背景美術も相変わらず綺麗だし、音楽もナカナカ、
声優も好い感じ、動きもとりあえず頑張ってる。
そこまでは新海映画なのだけど、
だけど動きはどこか「まがい物」な印象がついて廻る。
食事のシーンもどこか真似っぽくてポーズに見える。
この時代の女の子はこういうサンドウィッチの食べ方はしない。
演技の設計に芯が感じられないのだ。
借り物というかパチもんというか、なにか「型」に支配されていて、
トレスをしているような心の不在が見える。
そのお約束で成立するのは、ある意味で老人の娯楽だ。
観客がこの似非ジブリ的なものを違和感なく受け入れ礼賛する様子が見受けられるが、
ジブリ的なものの大衆作品としての存在が、スリコミや洗脳として成されているのか。
実に恐ろしく気持ち悪い。
多様性の欠如は「滅び」への道だ。
製作側が、口では「意識した」と模倣を例え唱えても、
実は、アリエッティやゲドのようなジブリに胡坐かいたぬるま湯の駄作に対して
余所者でも「このくらいのことはできるんだよ」と
ケンカ売ってるのならまだ評価するけれど、
ジブリ的なものを超えていくテーゼなり、アプローチが感じられないから
そういう意図はないのだろう。
だから軽蔑と言う言葉しか見当たらない。
お話も自分には負に落ちない点がある。
例えば、自分の死を意識していたシュンが、故郷に帰るでなし、
なぜ世界の鍵たるクラヴィスを持ち出したのか。
アスナが亡父から受け継いだクラヴィスの欠片は
結局、彼女の資質の何かを物語るものだったのか。
ところどころで所有者たる資質みたいなのを垣間見させるので、
偶然なら偶然、必然なら必然と示して欲しい。
そして何より、アスナを突き動かすシュンの喪失や日常の孤独がどれだけのものなのか、
物語前半でちゃんとしたボリュームや印象を持って語られないから、
その心にちっとも観客の気持ちが重ならない。
イカちゃんこと金元寿子は凄く頑張っていたと思うのに、
なんだか可哀想じゃなイカ。
ジブリもどきに目をつぶれば、難しい題材に向き合ったなとは思うけれど、
もう一工夫は必要だったかな。
残念な映画であった。
っていうか「子供」を「子ども」って表記するだけで僕は嫌なんだよね。

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