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2011年9月

2011年9月26日 (月)

そして花咲け

マーガレットで連載されていた「シトラス」下巻を読んだ。 
香魚子さんの絵柄とか間のとりかたが、 
昔に親しんだ少女漫画の好きな部分を感じさせるので、 
ここのところ何冊か買って読んでいる。 
内容はちょっと不満。 
っていうかもしかして打ち切りなのかなと思うほど、 
ドラマとして必要なシーンがぽっかりとない。 
何かを取り繕うようにわざとらしく、伏線の回収や脈絡をつけて 
ドラマを収束させるような構成は好きじゃない。 
この作品のように、すれ違いざまに袖が擦りあう様な感覚で 
誰かと誰かが交差して、それぞれに違う方向を見ているドラマは、 
だから僕にとっては好ましい。 
だけど足りない。 
あと少しだけ心の内に歩み寄るシーンがあったらなと思うと残念。 
「コクリコ坂から」について友人と先日話していて、 
指摘される問題点は僕も首肯するものなんだけど、 
自分は昨今のドラマの収斂性というか、キャラクター主義の偏重とか 
そういうものに辟易しているので、 
あの妙な作品が好ましく思えてしまうんだと思う。 
冒頭、陰気に階段を降りてくるはずだった最初の絵コンテであったら 
どんな作品になったのだろうと思ったりもする。 
「わかってない」とプロデューサーと父親に否定され塗りつぶされた部分だ。 
それこそジブリ的な顧客獲得の常套手段をあてがわれた部分。 
でも、あの映画はどこを観ても 
近頃のアニメや漫画で使われる心理描写としての演出方法のセオリーを 
ことごとく外している。 
意図したものなのかどうかも分らない。 
ただ、僕には心地よい。 
宮崎御大が根本的に少女漫画を理解できないというのは判るが、 
それを否定したり侮辱したりすることで、自分を正当化する幼稚さは甚だ不愉快で、 
このクソジジイと思う。 
だからこそ、映画やドラマにならないとすら言われた「少女漫画」の文法で 
できることはあるはずだと考えていて、 
最近、それらを読んでしまっているのかもしれない。 

「花咲くいろは」が最終回を迎えた。 
半年間ずっと愉しく観ることができたのは、シリーズ構成のバランスのよさと 
作画の質の高さ、安定した演出があったからだと思う。 
まぁ作画に関しては、仲居服の背でタスキのねじりがちゃんと作画されてれば 
ちゃんとした人が描いている回、適当なのが駄目な回ってのが僕の基準。 
シリーズ構成と脚本、そして演出は、 
緒花と孝一の恋愛話はなんだかずっと上滑りしてるし、 
祖母のスイの気持ちの筋道がちょっとばらついていたと思う。 
また、朝の連ドラではないアニメとしての何かという面では、悔い足りなさが残った。 
でも、最終回の着地点は、脚本としてとても難しいものを選択したなと感じる。 
ありていで単純な勝利主義的脈絡で安手の感動を振り撒くのではなく、 
ひとつの敗北、手放すことから、関わった人がそれぞれにその未来を考え、託される。 
僕も自分の会社を畳んだ時に感じたこと。 
社員たちはそうしてようやっと現実を知り、自分を見つめ始めた。 
そうした価値のある道は、でもドラマとして簡単な盛り上がりを許さないし、 
観る者は、一人ひとりを想ってあげることで初めて深まり染みてくる。 
簡単なカタルシスを求める人からは易々と否定されるだろうし、 
そこに気持ちを向けられれば、自分の中で生きた作品として、緒花たちは永く記憶に残る。 
緒花やみんちやなこちがちゃんと好きだったなら、 
きっともう、彼女たちはどうしているのだろう、どうして行くのだろうと 
想いを巡らせているはず。 
だとすればこの脚本は正解だったんだ。 
僕にとって物足りなさを加えるなら、 
これが普通のドラマの手法であったこと。 
素晴らしい背景美術にキレイな作画があるのに、 
そこの空気の中にある人の気持ちに十分な間をさいたシーンがなかった。 
EDにあったような紅葉や夕陽にじっと身をおく中で 
時間を超越した人の気持ちの広がり。 
少女漫画が獲得したこの四次元的な心理の奥行きを語る術を 
「いろは」で用いられたら良かったのになということだ。 
多分それは、「アニメならでは」っていうリクエストと同義か、その解答なのかもしれないけれど。 

人の心は風景の中で生きているし、気持ちは時間を越える。 
実は僕がずっと自分の漫画でそれを模索し続けている。 
だからついアニメにも実写にもそれを求めてしまうんだろう。 
(その意味で、「コクリコ」は自分に好ましい間が存在しているのだと思う) 
寄稿した「いろは」のアンソロジーコミックの漫画も 
頁こそ貰えてないから不十分だけど、 
風景と人との気持ちみたいなのをトレスしたつもり。 
またそれはあの美しい風景を丹念に描き続けたスタッフと、 
誠実なメルさんの仕事へこめた敬意でもある。 
「ストライクウィッチーズ」のアンソロのときも同じ。 
少女とミリタリーの協奏こそスタッフの創意と努力であったから。 
そうした志への讃辞なしにキャッキャウフフを描くことは自分にはできない。 
まぁだから重くなりすぎて、巻末とかに除けられちゃうんだろうけどね。 

「いろは」は地元との振興も含めて 
1年に1回くらい1時間半程度の特番で新作が作られるような 
そんな続き方をしてくれると素敵だな。 
この先、緒花たちがキレイな花を咲かせてくれることを期待して。

Ohana5

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2011年9月16日 (金)

コクリコ坂だよ

好きだっていうのはいつでも勇気がいるもので、
しかも理由をあれこれつけるほど野暮になる。
素敵だなと思うところを伝えればいいんだろうけれど、
それほど素直でもない。
ああでもそれは別に歳をとったからじゃない。
昔からだ。

「コクリコ坂から」はけっこう好き、とかじゃない。
大好きかも。
今年はなかなか映画を観ていない中での一番なだけでなく、
この数年のアニメの劇場映画の中では
マイマイ新子と並んで大切な作品になった気がする。

劇場は渋谷のTOHOシネマ。
座席はいつものシネコン風。
画面はデジタル上映でとてもシャープで鮮やかだった。
ジブリの彩色はビビッドなものが少ない分
柔らかい色の奥行きがしっかり見えてけっこう合っているのかも。
見切れ過ぎるのも、粒状感がないのも
絵に表情や曖昧さがなくなって味がないともいえるけどね。
平日の16:30の回はそれでも30人は入っていたかな。

原作は知っていたけど未読。
映画のお話自体はそんなに複雑でもなんでもない。
出会った二人の過ごす時間と心の内、そしてささやかなれど強い決意と行動。
しかもどちらかと言えば舌足らずなくらいにしか語られない。
物語に織りこまれたシーンも、ドラマの根幹へ訴求する明確な強さを主張しない。
またシーンで示された情景は伏線として回収されるような脈絡を持たせられてない。
あっと思えば通り過ぎ、そこから受け取った何かが
既定されたパズルのピースではなく、撒いた花びらのように隙間を作りながら
折り重なって曖昧に面積を埋めていく。
タイトルに用いられたコクリコ坂でさえ、象徴性すら与えられてはいない。
ないないないと、言葉が連なるようなドラマツルギーで編まれた
こんな宮崎ジブリ作品って僕は知らない。
(どちらかと言えば高畑勲監督のタッチに近いと思う)
去年の「アリエッティ」という中途半端な作品も実は物語性への強い回帰思想が満ちているし、
従来型のジブリ映画たろうとする根が透けて見える。
少女漫画を同じく原作にもつ「耳をすませば」も
監督は近藤喜文さん、脚本が宮崎御大という似た図式なれど、
少女漫画という特性とジブリ映画の常套句が調和しきれておらず、
冒頭の好感度が最後はグダグダで無残な失笑に終わる。
「コクリコ」はそれらと明らかに別種のものだ。
これまでに培ったもの、これまで足りなかったもの、
それが初めて出会ったように感じる。
なにもかもが詩美的に美しい。

この映画は色んな偶然が作り上げたような気がする。
しかも必ずしもポジティブな要素ばかりではなく。
あの酷い映画。二度とは観たくない「ゲド戦記」の監督と脚本家。
その監督の父親への激しいコンプレックスと否定的な心情。自分への焦燥。
少女漫画というものをまったく肯定的に理解できない御大の誤ったイメージ。
その御大の脚本を書くことにおける低い経験値。
御大の存在自体が、息子へも組織へも枷になるほどプレッシャーとして肥大した環境。
ジブリという有能なれど組織論として末期的な老化現象を抱えたスタジオ。
傀儡でも無能でもかまわず事業承継と興行性を第一に目論むプロデューサー。
もうどこから見ても最低な状態にしか感じられない。
ただ、逆に良好な人間関係、恵まれた才能、有能なスタッフ、素晴らしい努力があっても
名作が生まれるということは約束されない。不思議なことだ。
製作にまつわるNHKのドキュメンタリは観た。
あのプロデューサーだから、どこまで真実なのかは判らない。
編集された映像はどこまでも、
作品を売るために仕組まれた鈴木氏のイメージに基づいていると思うから。
ただ、恥ずかしげもなく最低の人間関係が露出されている。
(アリエッティのときも組織の酷さが露見していた)
歩み寄りを許さない許せない、煮え切らない距離感。
二人の脚本家の個性の差。
少女漫画という4次元的心情表現のスタンスと
監督の父親的・ジブリ的な表現への懐疑性と自己主張。
稀代の演出家たる父親からのヒントとイメージ。
だが、そうしたものが不思議な着地点を見出したのでは、としか理解できない。
つまりこの先、このような作品を創れるのかは保証されないだろう。
そしていかに背景が醜悪でも
映画は映画として、作品だけを観てあげなければ可哀想。
そして僕はこの作品が好きだ。

抑制された台詞と演技設計。
物語を通り過ぎながらも、人として背景も筋も感じさせる登場人物。
何気ない場の存在感を語るに十分な間。
どこまでも誠実に描かれた道具や街の姿。
日常音のかもす臨場と、光の作る息吹。
ノスタルジーに支配されない昭和30年代末の社会の陰陽。
賑やかしではないチェイスシーン。
犬や猿のように騒ぐことしか知らない現代の若者像を語るドラマとは
異なるメンタリティを抱えた時代の人の背筋。
「坂」とは裏腹に緩やかで、うねりをもたされたストーリー構成。
こんな映画、ジブリではいままでなかった。
僕が観たかったアニメの姿の一つ。

僕はバンカランゲンな学校の気風をまだ感じてこれた世代だから、
あの学校の生徒たちが安直なファンタジーでもご都合主義な理想化でもないことは分る。
僕も浦和市での高校時代、旧い木造校舎の取り壊しで部室を追われ、
戦後まもなくNHKのど自慢がラジオ中継されたという木造モルタルの「講堂」の2階を
文化祭の廃材などで間仕切りし、雑居の部室を作った経験がある。
(ベニヤの壁1枚向こうの隣では、松井秋彦がよくギターを弾いていたものだ)
JAZZを聴き、個性的な先輩と漫画を語り、バカをしでかし、怒ったり笑ったりしていた。
学生自治という言葉も褪せてなかった。
鉄筆でガリをきって、新聞を作ったりしたものだ。
人によっては理想化していると批判もあるだろうそんな場面達を肌で知っている。

豪傑で知られた徳間康快社長は確かに神奈川の学校の理事をしていたようだけれど、
原作も出てくるのかな。
あの人を理想化しちゃうのはねー(笑)。別の意味でしっかり凄い人だしなぁ。
廊下に「アサ芸」のポスターが貼ってあるってのが、一筋縄でない暗喩なのかな?
建替え前の新橋のあの社屋は友人の編集者の中には出入りしていた人もいるはず。
40年代まではまだどこの駅もあちこちに闇市の名残や水溜りや暗がりが残っていたものだった。

どこもかしこもお定まりの了解済みで
記号や約束や鉄板やネタや型やルーチンを仰ぎ尊ぶものばかりで
食傷気味になっていた僕には、
人を描き人を語ること、空気感と場を描くことにちゃんと触れられた時間だった。
不覚にも泣いてしまったのは、
俊のことを問うて泣き崩れるメルに、言葉を呑み込んで背を抱く母親の表情を見たときだった。
押し付けがましくなく、静かで美しいシーンだなと思った。
もう1回くらいは劇場で観ておきたいな。

そういえば劇中で唄いだす手嶌葵の声だけは違和感があった。
あの時代、ああいう歌唱スタイルは今と違って貧相とされて出番がなかったし、
先陣を切るメンタリティは与えられてないと思う。
営業的な臭いがしてあそこはマイナス。
主題歌など手嶌の歌が嫌いというわけではない。

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2011年9月 6日 (火)

「拡散希望」ってそれだけで警戒しちゃう

何日か前に複数の人とやり取りしたコメントの転載。
時間がないので応答があんまり丁寧な文章じゃないけれど、
おおまかには自分の持っている今のイメージ。

*************************
日本の報道の信憑性もそうですが、
そもそも海外の報道の信憑性も応分に疑うべきでは?
海外は逆に緑の党などの圧力で偏向報道がありえるのでは?
グリーンピースやシーシェパードのような団体がスポンサードなら
やすやすと偏向報道されます。
クジラ漁は偏向報道で反原発は正しい報道ですか?

いろんな訴えをスルーするのも
訴える側が訴える場所や相手を適正に選んでないとか
役所も1人の言葉ではなく大勢の意見を集約しないと動けないとか
組織としての行動基準や事情も調べてみる必要があるのに
感情的に無視されたのごとく判断する軽率な人も多いです。
自分が窓口担当だとして100人に色んなこと勝手なことを言われて、
それを全部100%叶えられますか?
100%叶えられないと、偏ってる腐敗してると批判されて、どう思いますか?
情報は伝え方がある、伝えないことが大事なときもある。それが失敗だったこともある。
それは例えば何かの責任者になって部下がいれば、当然経験する現実で、
もちろん失敗は批判される責任もとるとして、でも無思慮に嘘つき呼ばわりの人には疑問です。

フジテレビへのデモも人数が多くても報道が少ないのは別の理由では?
そもそもフジが他局よりとりたてて多く、韓国関係のドラマや情報を多く流しているという
統計的に根拠のあるデータはありません。
逆にこういうデータは公的にとれるそうです。
http://blog.livedoor.jp/nob_kodera/archives/3909024.html

つまり批判されるべきいわれのない「勘違い」連中の大騒ぎを、
どうして報道しないといけないのかという筋になるのではないでしょうか。

警鐘とはどうしてもこういう信憑性の疑わしい「事実」を表にだすと
とたんにほころびがでます。
ならばそれらを危険に思う気持ちを丁寧に自分の言葉とイメージで連ねるほうが大事なのではと
自分はこの1年近くずっとそう思い続けています。

***************************
僕は地震や原発の前から、九州の牛や青少年育成条例改正の辺りからなんだけど、
自分なりに今の世の中の情報の流れとか人の心の動きを見てきて、
「拡散希望」っていうラベルつきの情報は警戒するべきってのが
ひとつの吟味の結果なのですよ。
Twitterを中心に、この手の脊髄反射的情報流布は
多くが一手間や吟味をすることなく流される。
ある種の情報発信における責任感すら皆無の無意識さと、善意がからんだ
とても危険な状態で加速度がつくから、僕にとっては暴力装置と同じですよ。
そしてTwitterでの情報の評価を僕が下げて見るのは
実は昔から情報を扱ったり、人にモノを語ることを生業にした人、もしくはその作法や意識の整った人、
そうした人の1次情報の貴重さ大切さに比して、
他の多くの人がそれを丸投げで転がしてるだけの、どうでもいい存在の情報が9割近くのこと。
必要ならそのソースにあたればいいだけなのに、ネットの中はそのパスやトスのものばかり。
その最たる例が「拡散希望」ですよ。
自分は夜中まで睡眠を削って仕事してますし(無能で時間がかかってるともいう)
その限られたリソースの中で
「拡散希望」っていう言葉で情報の質に警戒するのはまちがった「吟味」じゃないでしょう。
別に警戒であって否定してるのでもないんだし。

あと僕は情報に体制側とかこちら側なんて視線で見てない。
確かに組織的にフィルターやマスクのかかった情報はあるけれど、
それは市民側かどうかはしらんけど、
そこからの情報も恣意的だったり、嘘やデマ、誤認、訂正なし、無責任に満ちていて
その質たるや最低最悪ですよ。
そちらを重宝しろ、信じろ、っていうのも無茶だと思う。
だからそんな色分けは意味を感じてない。
それにそういう二元論は社会の図式を単純化しすぎて物事を見誤るきっかけになる。
世の中は複合汚染のルツボの中だと思うので。
敵と思って撃ったら、同志や親の背中だったりするのです。
読み解くためには複雑化したものを細やかに解きほぐしていくしかない。

情報や意見があって話し合いがあるのは素晴らしい。
可能性や仮定での議論も大切。
だから情報があるのはかまわないけど、
「情報拡散」なんて恣意的に加速度つけられて重要を装う枕詞はごめんなんだ。

僕は仕事でかつて長く、政治的、思想的にマイナー側のスタンスの活動を手伝ってましたから、
署名活動なんかの忌避感、違和感を持たれるのも肌身に染みてます。
こちらが情報ソースなのにTVで誤った形で報道されて
それに弁明したら「だってTVが言ってることが正しいでしょ」なんて
言い返されてびっくりしたこともあります。
そして世の中を動かしたり変えたりするのは、マイナー側からでは
今の日本人の大きな属性や国民性からは途方もない時間がかかるのも知ってます。
でもだからって「少々必死になってもしょうがない」とは思いません。
誠実に愚直にやっていかないと
結局は先鋭化して歪んでポキっと折れてそれは終わっちゃいます。
必死に頑張る、その力の向き方や方法をせっかくなら、
もっと実現に近づけるアクセスをしたらと思うのに、
その手段や行動に結び付けるには
日本の市民運動はまだ黎明期なのだなと思います。

***********************
自分の恣意を成就させるべく、疑わしくも虚実かまわず流布するような
それが社会を良くするからいいんだみたいな
目的のためなら手段を選ばない。それは本当は小さなキッカケから。
僕はそういう善意が転じて悪に変わりかねない瞬間を垣間見ると、怖くてなりません。

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2011年9月 5日 (月)

夏の報告 2

夏コミは暑かった。
なんだか例年の夏より暑かったと思う。
初日は「中国嫁嘘日記」の日。
あさりよしとおさんの漫画に落丁はあったものの、訂正紙を入れて販売。
さっそくに「アキバBlog」でも紹介を受けた模様。
http://blog.livedoor.jp/geek/archives/51283141.html
もう同人書店に並んで、しかも即完売状態みたい。すごいなー。
書店に卸されたのはこの落丁版らしく、
刷りなおしを納めたいっていうのに、
落丁版に訂正紙でよいと書店側から催促を受けた様子。
希有馬っちの単行本も出た今の商機を逃してなるかってことなんだろうなぁ。
リアルタイム検索で見ていたら、
巻頭の僕の漫画を含め、けっこう「酷い(褒め言葉)」という評判が聞こえてきて嬉しい。
この本が希有馬屋の新刊だとか、僕の漫画が彼の筆だと思っているのもある。
中に、「@depon2010 私の先輩が「中国嫁嘘日記」出している」ってあったけど
多分この「先輩」は僕のことなのかなと思うけど、この人誰なんだろう。
現在、増刷されて落丁を修正したものが出回ってるそうだ。

二日目は自主制作アニメ「ロボと少女(仮)」DVDの日。http://roboshoujo.com/
絵葉書に監督自らサインしてサービスしようということだったのに、
初コミケにしてあの暑さでサインする前に速攻ダウンしたらしい。可愛そうに。

三日目、僕のところは前置きしたように、自分の新刊はなく、編集を手がけた
春日ひろ自選集「Pink Flower」とhttp://www.ne.jp/asahi/hiro/sheep/PF.html
「ロボ少」をメインに据えた店構え。
春日さんの本は素晴らしい印刷の仕上がりで、
緑陽社の担当者には何度もお礼を述べておいた。
自分としては本文中に少しだけ失敗を見つけてしまって、
印刷ではなくこちら側の失敗ゆえに悔いが残る。
(そこが最後まで自分で関われてなかった部分であるというのも)
でも本としては立派な風格のものであるのは胸を張れる。
春日さんも僕達を赦してくれ、きっと喜んでもらえていると思う。
一人のお客さんがこの本を手にとり、ゆっくりを中身を眺め、
嬉しそうにされているので、お話をしたら、
この本が出るのを心待ちにしてくれていたそうだ。
「東館にある春日さんの旦那さんのブースでは特典がつきますよ」
「それは来週のコミティアでも購入特典になりますよ」と告げて
頂き物のその特典を見せてあげたら
じゃあ来週買います。と嬉しそうに去っていかれた。
別に僕のところで買う必要はない。
素敵な出会いにさえなればいいのだから。
「ロボ少」はDVDだけあって、お客様へ少々説明を要する手間がかかるけれど、
それを怠らずに、頑張って売った。
それでも50枚に届くくらいで、こういうときにマイナーサークルは悔しい。
ブックレットは綺麗に仕上がっていたけれど、
やっぱりもう少し早く動けてたら、
印刷の経費や紙の質などできることは多かったのになと思う。
春にはもうこれを作ることは決まっていたのに、
数ヶ月間まったく情報が貰えず、身動き取れなかったのが大きい。
ともあれこの2冊は献本がまだなくて、会場で見たきり。
自分の手元で今眺めることができないから、
また後日ゆっくり鑑賞したい。

コミケでは色んな人が顔を出してくれるけれど、
大学の漫研の後輩が数年ぶりに顔を出してくれた。
彼は卒業後に編集者になって、自分が主幹でエロ漫画を立ち上げるのでと
僕に協力を求めてきた。
それで何冊かのアンソロジーや同人誌に寄稿することになる。
この頃の仲間が、うたたねひろゆきだったり、
「戦場のヴァルキュリア」のゲームプロデューサの野中竜太郎だったりする。
今でも、うたちゃん、竜ちゃんで呼び合える。
だからこの出版社で僕の最初の単行本「還相」が出ることになる。
僕はその後、やはりここで仕事をしていた別の後輩に声をかけらて、
富士見書房コミックドラゴンで「Ringlet」を描くことになっていく。
彼は仕事を軌道に乗せいき、また新たな別の企画も業界に影響を与えるなど、
力を発揮していく。
その後心ならずも独立したと聞いていたけれど、
あの頃の僕はエロの仕事からは遠くなっていたし、なかなか話を聴く機会もなかった。
久々に会って話をしたら、
昔のやんちゃさは残しながら、でも編集者兼経営者として
とても奥深い哲学と経営理念を持って臨んでいることが伝わってきた。
独立の事情も、作家とスタッフに頑張りに見合ったペイをしたいのに、
利益が不採算部門の怠慢からの赤字に吸収されることの改善が
役員に見られなかったからだし、
今はその考えを発展させ、作家の生活や将来を考えた水準の支払いや、
その基準の公平な明確化、
他社に比して胸を張れるその篤さを誇れるものとし、
利益をきちんと貯め、無借金経営を貫いている。
それでいて編集者としてエロ漫画に求める「濃さ」と「線」への感覚も失ってない。
もちろん、やんちゃだから、失敗や足りない資質もあるだろうけど、
リーダーに求められる魅力がちゃんと備わってる。
彼と一緒に仕事すると、きっと愉しそう。面白いものが見られそう。
そんな印象を受ける。
だから僕は彼のもとでエロ漫画を描いたんだろうな。
そんなこんなでまったり話をしていたら、
そこへコミケのスタッフとしてすっかり大幹部になった後輩が現れ、
「おう!」「おお」「ひさしぶりですね」と笑みが交わされる。
彼の会社はティーアイネットと言う。
話は少し戻って、「中国嫁嘘日記」のリアルタイム検索していたとき、
MUJIN編集部・山田なる人が、@depon2010 私の先輩が「中国嫁嘘日記」出している。
と前述の呟きをRTしてたけど、つまり僕はMUJIN誌の社長の先輩でもあるのだよ!
ってことを知らないところが笑えたりした。

翌15日は上京していた大本海図さんと上野で空海展を観たりして、
コミケのリハビリにいそしむ。
それぞれ作家同士だから視点がユニークで
一緒に廻って仏像とか書画を見ていても感想が愉しい。
食事はアメ横の路地でごそごそとむさぼり、アジアの雰囲気を満喫。
やっぱり暑かったけれど、いい休日だったな。
僕にとってお盆の休日はこの日だけだったみたいだけど。

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2011年9月 4日 (日)

夏の報告 1

なんだかずっと忙しい。
なのでなかなか日記の更新ができないでいたけれど、
9月になってしまったし、この8月のことを少し続けて更新しようと思う。
今抱えている仕事が毎週提出の要があるものなので
毎日といかない場合はご海容のほどを。

前にちょっと触れた「江刺追分~レクイエム」のチャリティ無料コンサートが企画されていると知って、
http://esashioiwake.com/pg70.html
8月11日の夕、聖路加病院のチャペルへ出かけた。

入場料はなく、寄付金がそれに当るという。
早めに受付に赴いて支払おうとしたら、受付の人が「お申込は?」と返してきた。
意味が分からず尋ねると、このコンサートは電話申込が必要だという。
会場のキャパなどがその理由なのだろうけれど、
上記のURLを見る限りではそこにまったく触れていない。
「チラシ」と書かれた部分をClickすると、
画面の隅に小さくそのことが触れてあったのに後で気付いた。
別にこの音楽プロジェクトに関してはある程度理解しているつもりだったし、
会場や時間、演奏者も書いてあるし、わざわざチラシなんてとりわけ目を通す必要はない。
この件は僕の不注意もあろうけれど、webの情報の提供にも根本的な過失がある。
受付の人はチャペルのガラス扉の背後にある待合の席で聴くことはできると言う。
そこで文句を言ってゴネても、なんだかチャリティの感覚ではなくなってしまうし、
帰るのもやはり自分の中で被災地支援という筋が通らない。
おとなしくその待合で聴くことにした。
どうやら僕と同じような不注意者は10人ほど。
設営側はこうした不注意者の席を30程度用意してあったが(モニタ受像機まで設置して)、
それってどういうリスク管理からでてきたのだろう。
つまりwebの告知に不備があるっていうことを意識してたってことなのかな。

開演したコンサートは素晴らしかった。
江刺追分以外にも
主宰の廣田丈自の楽曲や、M=ロッシのトッカータ7番、アルビノーニのアダージョ、子供の合唱曲など
90分に盛りだくさんで楽しめた。
最後のキリスト教の祈りに付き合う道理は僕にはないので、
受付に寄付金を支払って、いざ帰ろうとしたら、
ガラス越しに見えるチャペルの最後尾で立ち見で聴いている何人もの姿がある。
そのほとんどがスタッフ腕章をしてる。
どういうことなのだろう。
会場の中にいる客と、会場外にいる不注意者とその志のどこに違いがあるのか。
その10人を放っておいて、スタッフが役得で楽しむチャリティイベントって変じゃないかな。
僕はかつて多くの講演や宴席などを企画設営したけれど、
設営側はお客様の二の次三の次っていうモラルを叩き込まれてきた。
明らかに10人以上は立ち見で入れる余裕があるのだから、
「立ち見ですが中でお聴きになりますか?」と尋ねるべきじゃないのかな。
だのに無視して自分達が楽しんじゃう設営っておかしいよ。
更にはその立ち見の背中の中には
演奏途中で席を立って姿が見えなかった不注意者の一人もいた。
この人も「自分さえよければいい」ってことなんだ。
その魂のどこが被災地で苦しむ人への思いやりを語るんだろうか。
この立ち見の可能性に気づいたなら、
志を同じくしてもあぶれた人に声をかけたり、設営に折衝するものではないのかな。
なんかそういう人のエゴにも触れてしまって複雑な気分で会場をあとにした。

風邪をひいた。
幸い熱はなかったのだけれど、扁桃腺を腫らせてしまい、
咳が激しく続いて息ができなくなるような状態になって、慌てて医者に行ったけれど
かかりつけを含め多くがお盆の夏季休暇に入ってしまっていて、受診できない。
その日はまた咳で眠れない夜をすごし、
翌日、訪ねた別の病院もまた休診。ただ、偶然顔を出した看護婦さんが
「どうしました?」声をかけてくれ、開いている病院を紹介してくれた。
こういう人の善意に触れると、僕はその善意をお返しするように
また誰かのためになにかしてあげたくなる。

「待たされた」は正確には妥当な言葉じゃない。
13日のコミケ二日目で初売りの「ロボと少女(仮)」DVDの会合をという示し合わせで、
前日の17時に約束していた。
製作者の田中さんから、モノレールで移動中で少し遅れるから
同宿になる人と落ち合ってから集合時間を決めて知らせるとメールがきた。
それならばと、待ち合わせ場所には僕の家から25分ほどかかるので
予め時間を鑑みて連絡をして欲しい旨を返信しておく。
で、それから1時間近くたっても連絡はない。
東京アメッシュで見ると雷雲は近づいてくるし、
スタッフに渡すべき印刷物の束もあったので、濡れてはいけないからと、
18時には待ち合わせの最寄駅についていた。
そこで1時間待ってもやはりまったく連絡の気配もなく、メールを打っても返事がない。
もしや事故でもと、その夜一緒に会合する予定のアオキ監督宅に電話をしたら
その電話先に女史はいた。
僕が風邪で体調が悪いだろうから、会合は来ないでもよいからと
連絡しようと思っていて、監督と会合をしているうちにスッカリ忘れていたそうだ。
で、それでは僕が彼女に依頼された印刷物を渡せなくなることも
まったく思い至ってない感じ。
携帯やメールの時代になって、
こういう不用意な待たされ方はなくなったと感じていたけど、
まだまだ根絶されてなかったのには妙に新鮮に驚いた。
注意すれば反省も謝罪もしてくれる人だけれど、
すぐにまた同じ過ちを繰り返すのも間違いない人でもある。
だから怒る気にならず、ただただ呆れ顔で苦笑した。
彼女が粗忽者というのは前の日記でも触れたけど、
それを分かっているからこそと、
翌13日の午後早くに14日のための前日搬入についての注意と
僕が17時まで映画を観てるので連絡がつかない旨を
予め携帯へメールで知らせておいたのに、
上映後に携帯の電源を入れたら、田中さんからの着歴が何件も通知されてきた。
またもまったく僕のメールをチェックしてなかったのね(携帯から電話はかけるのに)。
もう、こちらの配慮の更にその上をいってくれる粗忽っぷりだから、
凄いなぁともう感心してしまった。

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