« 新年のごあいさつ | トップページ | 盆栽と侵略 »

2012年1月18日 (水)

17年

阪神の震災からもうそれだけの時間が流れた。
95年当時は朝の5時50分頃に起きて通勤をしていたから、
第一報を朝のTVで見た。
最初は不謹慎ながら怪獣映画を観るような感覚だった。
そもそも地震災害の対策にマニアックな面をもっていたから、
その被害の報道が伝わるにつれ、興味津々で眺めていたのだけれど、
あるとき朝刊紙に列記された死亡者の名前のリストを見て愕然となった。
それまで単なる数字だったものが、
名前のある、人生を生きていた人たちなのだ、その命や想いが絶たれたのだと、ようやっと思い至り、
それまでの愚かしい自分の目線を自覚できた時だった。
これは自分も何かしないといけないという思いが募った。
ただでもニュースからでしか受け取れないこの状況は
はたして世界各地でも起こる悲惨な自然災害とどう距離が違うのかという
理屈の葛藤があった。
友人や肉親が被災したでもなし、
TVを通じてのみであるなら、それは世界のどの事例とも等距離であり、
その均衡を壊して自分がなにかをしようと言うのなら、
そこにどんな理由が存在するのか。
もし神戸にアクションを起こすなら、
等距離の他の災害や被災者にも自分は働きかける必要があるはずだ。
もっと素直でいいはずなのに、
それこそ遠い平時の場所の人間として、そんなどうでもいいことを悩んでいた。
そうしたら職場で災害ボランティアを組織することになり、
自分がその場所に身を置けば、
それは自分が関わる必然性につながるなんてまた考えて、名乗りを上げ、
震災から10日もたたない神戸に乗り込んだ。
今では記録映像の中に収まってしまっている光景が目の前にあり、
被災者の方々に触れ、
ボランティア参加者の各々勝手な思惑を知り、
そして無能で無力な自分に向き合った。
その体験から得たものは拙著「虚数霊」にも少し反映されているけれど、
人としてとても多くのことを学んだと思う。
それはまだこれからもずっと作品の中で語っていけるほどだ。

昨年、東北一帯の震災があって、
やはり多くの方が亡くなってしまった。
政府や組織の無策を責め立てる声ばかりが目立つようだけれど、
17年前から日本人はちゃんと進歩も行動も起こしてきたと僕は思う。
95年はまさにボランティア元年だった。
以降、日本海の重油流出や中越地震、そして今回の東日本震災と
ボランティアが機能して被災地を支えるシステムも行動を促す心も、
そしてそれをカバーするNGO、NPOへの法整備も
阪神の体験が生きたからだ。
建築基準法の見直しも進んだし、
既存の建物の補強工事も随分と行われた。
役所や企業といった組織も備品の備蓄や対応のマニュアルを整えてきた。
時に牛歩のようであり、穴もあり、見当違いのものもあろうけれど
それでも備えをし、そして動けたはずだ。
95年はWindows95が発売され、
日本のネット社会の新たな開花に結びつける契機となった年だ。
昨年、Twitterやblog、SNSを活用して
縦横に情報交換が出来、素晴らしい貢献ができたのも
阪神でも被災時にインターネットの特性から
Eメールでの情報交換が断たれずに行えたという評価があったからだろう。
ただ、同時に関東大震災の流言飛語にも似た
善意悪意が入り乱れたデマゴギや無駄な情報と感情論が溢れたのも事実だし、
その混乱を自覚し対処しきれない人の心も露わにしてしまった。
メディアで言えば、テレビ放送は民放を中心にその存在意義と価値が
いかに失われているかを見せ付けてしまったのも大きい。
報道局の機能を低下させ、朝は朝刊紙の解説で誤魔化してきたツケであり、
被災時に「良質な」娯楽すら提供できない姿は、
もう無駄な存在としか言えない。

「想定外」は言い訳の常套句になってしまったけれど、
それでも想定できる枠が広がり、反省点や課題が見えたのなら
組織も僕らもまたそこから学んでいかないとと思う。
95年からここまで出来たのだから、きっともっと前へ進める。
もちろん震災は事後こそが震災の現実であって、
今も東北で進行中のそれを忘れてはいけない。
阪神淡路から3年後、僕は仕事で神戸を再訪したのだけれど、
あちこちに震災の記憶がモニュメントととして遺される傍らで、
埋立地にはまだ被災者の住む仮設住宅が建っていたのを僕は覚えている。

|

« 新年のごあいさつ | トップページ | 盆栽と侵略 »