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2012年4月 2日 (月)

言葉に触れる時間

先日、連載の第2話を脱稿した。
原稿を描いていると、他のことが手につかない。 

朝の8時には起きて、9時には机に向かい、 
そのまま午前3時過ぎまでは仕事をしている。 
休日も無く、それだけの生活になっちゃって、 
あれこれ思ったりしたこと考えたことも、なかなか文章にしたりできないのがもどかしい。 

ただまぁそんなお陰で、
ほとぼりも冷めたような時期にゆっくり話題にできることにも、
また意味があるかなというものについて 

少し触れてみようと思う。 

3月10日辺りだったか、 
数人の友人があるニュース記事について批判的に触れていた 
埼玉県教職員組合が主催する国際女性デーの集会で予定されていた講演 
「さいたさいたセシウムがさいた」の表題への非難と中止について。 
もうすでにニュース記事自体が色眼鏡っぽい偏重があるのもあってか 
ダメ出しな論調になってしまうのはいたしかたなしとは思うけれど、 
僕はこの表題を悪いものとは思えなかった。 
なんだか皆、短い言葉を性急に判断して、批判したりあげつらったり罵倒したりと 
どうしてそう乱暴なのかな。 
そんなになんで急ぐのだろう。 
元埼玉県民として、 
またキャッチやコピー、見出しを考える元編集者、表題をイメージする講演企画者として、 
そして今は漫画家として言葉を意識する中で、この「セシウムさいた」を読んでも 
まったく問題を感じない。 
Twitterなんかのように「つぶやき」と称して、 
どうでもいい内容や、会話レベルのいい加減さで撒き散らす言葉とは根本的に異なり、 
表題やキャッチ、コピーの類は 
日本の定型文詩歌の伝統の上にあるような、含みと解釈を要するものだと 
僕は考えているし、そのように扱ってきたつもりだ。 
タルコフスキーが日本の定型詩を絶賛したのも、 
その少ない言葉に込めた含蓄の多様性普遍性、音の流れ、 イメージの再現性、
そしてそれを解釈し共有する日本人の感受性の深さに感銘したからだ。 
「セシウムさいた」ってなんでこんな言葉になったんだろう? 
それをまず想像してみることを、このタイトルはこんなに促しているのに、 
いきなり「不謹慎」だとか「風評被害者を思え」とかが前面に出て思考停止って
それは心が痩せすぎだよ。 
どうして相手の真意をちゃんと見てあげようとする気持ちが働かないの? 
なんでそんな即決して「はい、次の馬鹿はどこだ」って勢いのなの? 
もう少しだけ、ちょっとでいいので想像力を働かせる時間を持ってはくれまいか。 
そうするともっと多く豊かで芳醇な人の想いに触れることが出来て 
自分の心も豊かになっていく。 
逆にそれをしないと、世の中も感受性も殺伐とした荒地になってしまう。 

件の記事について、自分でも少し調べてみた。 
まずこの批判の根になったのは 
自民党・片山さつき参議院議員のtwitterでの批判からと目される。 
主催者が日教組っていうこともあるんだろうけれど、 
残念な感受性の国会議員ってのは国民の代表者になって語って欲しくない。 
最近の議員は言葉狩りの尖兵であり、同時にその被害者でもある。 
でもそれはマスコミをはじめ、国民の言葉への意識が痩せているからだとも推して知るべし。 
僕は(大嫌いな)石原都知事が昨年3月の震災時に放った「天罰」の発言ですら 
その全体の文脈からみれば批判に当る部分は感じていない。 
人の驕りを意識せよというメッセージの意図が示したものは 
その後そのまま、国や自治体や原発や、人の意識に露わにされていたと思っている。 
この講演者であり表題をつけたアーサー=ビナードという人も 
外国人ギライな人には大喜びの撒き餌の一つだったみたいで、 
「だから外国人には」なんて揶揄になっていたけれど、 
日本語で書かれた詩作が何冊も出ている作家であり、 
よほどその辺の日本人よりは日本語について意識も考えもある人だ。 
(外国語で詩を書くということがどれだけ大変で、それが本になるって力量を想像してみて欲しい) 
それに何年も前から原子力発電について批判的で意見発信を続けている。 
つまり原発や放射能を忌み嫌い、発言を繰り返し、ガイガーカウンタ片手に生きている人たちは 
自分の味方の背中を撃ったんだ。 
自分達の言葉への短慮と無知で、有能で心優しく、長く地道に努力してきた味方を殺したんだ。 
もう最低最悪じゃないか。悲劇なんかじゃない、愚かで醜悪な事態だ。 
そして主催者の埼玉教組も講演者を守れず 
さっさと中止を打ち出したのも、組織として哲学がなさすぎ。 
右翼団体に攻撃の隙を与えてしまったからという判断もあろうけれど、 
教組はそんなの元からじゃないか。 
本当に演者とその趣旨が世の中のためと思うなら、貫き通すべきだった。 
日本の組織はどうしてこう、志をなくしているんだろう。 

記事では 
[本来なら花が咲き喜ばしい春の訪れを台無しにした原発事故の大変な状況を伝えたい」と提案した] 
とだけ演者の言葉を記しているが、 
実際の思いはビナード氏のblogに触れられている 
http://www.web-nihongo.com/column/haragonashi/index.html 
僕のこれまでの認識では、
埼玉県では「さいた」「サイタ」は音として県名と重ねて印象を作る際によく用いられる。 
そこに重ねるかのように氏は
サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」のあと、かつての国定教科書に続く 
「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」「ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ」 
の存在を意識させて 
国策としての原子力発電へと目を向かせようとしてる。 
これのどこが外国人ゆえの言葉の稚拙さなの?空気読めない奴なの? 
しっかりしてよ日本人。 

ほんのもう少しだけ言葉に触れる時間をもち、身に浸して思いめぐらせてみて欲しい。 
東京にも桜が咲いたことだし。

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