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2012年10月10日 (水)

骨の音

先日、黒葉さんの葬儀に出席してきた。 
最寄り駅で野上武志さんや神崎将臣さんたちと待ち合わせて、郊外の斎場へ。 
天候にも恵まれ、秋空が高く広い。 
今年亡くなった伯母の葬儀は雨だったのを思うと、やはり天気はいい。 
葬儀会社もいれず、本当に簡素で簡潔なつつましい葬儀だった。 
過去の仕事柄、あれこれと葬儀には出席したし、裏方も務めてきた。 
自分の父親の葬式も、父の会社の従業員や葬祭業者を指図して、 
300人を超える弔問と式を取り仕切ったこともあった。 
そうした経験の中で、一番に質素な葬儀だったけれど、 
でもこうした規模と内容も静かでいいなと思った。 
母が自分の葬儀は人も少なくごく小さなものがいいって言っていた覚えがあるけれど、 
なんだかそれに通じるものがあったように思う。 

ただ不満というか失敗もあった。 
公営の斎場で職員から10時から始まると聞いて、 
指示された待合でスタートを待たせてもらっていた。 
ところが11時を過ぎても音沙汰がない。 
親族であり喪主のお姉さんも葬儀会社を入れていないし、要領をえない。 
そりゃ葬式などの段取りにそうそう慣れて明るい人は多くない。 
ご遺体を燃やす前にお別れをして、 
数人はそこで引き、親族も少ないから野上さんたちがお骨を拾うのに立ち会う 
そんな段取りを内輪で話し合いながら、ただひたすらに皆で待っていたら、 
斎場から、「焼きあがったのでお骨を拾って欲しい」との通達。 
つまり出席者の誰も、黒葉さんの顔を拝むことがないまま 
いつのまにか荼毘に付されてしまっていたのだ。 
葬儀会社が入っていたら、こういう段取りにセレモニーを混ぜていくので、 
都度都度に動きを知らせるのだろうけれど、 
公営の斎場の職員は役所の人間なので、 
業者が入った葬儀に慣れすぎていて、基本的な通達すらせずに、サービスの概念もない。 
迂闊だった。 
喪主であるお姉さんがどんなお考えなのかを予め知らなかったし、 
おそらくお姉さんもどうなっているのか理解していなかった。 
出すぎたことはいけないだろうと、サポートを申し出られなかった我々。 
しかも神崎さんが弔問の主体だと考えてしまっていた僕らも遠慮していて、踏み込んでいけなかった。 
ようは三竦み状態になっていて、 
役所の無能と無配慮を放置する結果になってしまった。 
あとで、神崎さんが「斎場の職員のせいで顔が見られなかった」と立腹されていたが、 
まったくそうだ。 
踏み出せない参列者の均衡を崩せるのは、職員の言葉なりサービスでしかなかったはずだし。 

葬儀を済ませ喪主とお別れし、皆で駅へ出て、昼食兼献杯の席。 
顔を拝められなかった気持ちは残るけれど、 
だけど顔を見たら泣いちゃうし、 
なんだか姿を見せずに飄々といつのまにか去っていっちゃったのが 
黒葉さんらしいねって 
皆で話し合って思い直して、 
それで故人のことを話しながら笑いあって、お仕舞いになった。 

そんなとてもとても小さく静かな葬儀の中で、僕の印象に残ったのは 
焼きあがったお骨を骨壷に納めるときの音。 
サイズの小さな壷に大人の男の骨を納めるため、 
職員が壷の中のお骨を手で押し潰していく。 
そのなんとも軽い音が無言の僕らの間で響いていく。 
そして頭蓋骨の名残を一番上に乗せる。 
それもカリカリとした本当に軽い音。 
焼かれた骨の音。 
人間という固体が最後に出す音ってこういう音なんだなって思った。 
何度も親族の葬儀に出たのに、 
初めて音を意識した。 
そんな静かな葬儀だった。 

黒葉さん さようなら。

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