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2012年11月

2012年11月15日 (木)

「道」と「心」

起き抜けにBSで「旅のチカラ」を眺めていた。 
今朝は柔道家でバルセロナ五輪金メダルの吉田秀彦が 
フランス柔道界の今に触れる旅だった。 
ロンドン五輪で一つも金を獲れなかった日本男子柔道に比して 
メダル最多のフランスの違いを肌で感じようというもの。 
いつものこの番組は、旅人が自分の生業とは少し異なる側面の事象に触れて、 
そこから自らの生き方や疑問に解答やインスピレイションをつかんでいくものなのだけど、 
今回はわりと直球。 
ある意味で吉田のスポーツ選手そして指導者らしい視野の狭さとか余裕のなさを映してる。 
それだけがっぷり組み合うスタイルという意味で批判的な意味ではない。 

フランスは街の道場がそこここにあり、 
柔道人口が60万人というから驚き。(日本は20万くらい) 
それこそ日本の国技とかお家芸っていう時代ではない。 
だけどそこまでには海を渡った日本人柔道家50年の歩みがあった。 
番組は柔道の「道」の部分、教条的なことは余り触れない。 
日本のストイックなそれとの違いを見せる目的もあるのだろうけれど、 
でも子供から大人まで、さらには五輪選手まで口にする「人生を教わった」という 
門下生の心情を重ねていく。 

僕は中学時代、柔道部だった。 
かなりラフな部で、教条的でもなく厳しくもなく、顧問の指導もあまりなく、 けっこうマッタリやってて、 
もちろん受け身も技もちゃんと学んではいるけれど、 
試合に臨む姿勢だとか柔道の理念みたいなものはからきしで、 
僕自身に関して言えば、芯のない柔道をしていた。 
(隣の新体操部の憧れの君をチラチラ眺めてるようなボケナスでした。はい) 

フランス柔道は、先人たる日本人指導者が普及と浸透に尽力していった中で 
日本の武士道とフランスの騎士道を重ね合わせた 
8つの心得が今も多くの道場に掲げられている。 
「礼儀」「勇気」「友情」「克己」「誠実」「謙虚」「名誉」「尊敬」 
その象徴として、美しい一本勝ちを目指す姿が写し出される。 
勝つことだけを意識すると、 
小技やペナルティを計算した勝ち点を足していく、姑息な柔道になっていく。 
しかし自分の生き様として目指すものがあるとき、 
その姿は勝利者であっても、曇ったものになる。 
その曇りを払い、示せるものはまさしくこの美しい姿なのだ。 
(実際、番組で示されたフランスの道場での技は久しぶりに見るような美しい姿とキレだった) 
中学の頃の僕にはこうした意識がまったくなかった。 
自分の生き方とか心と照らして柔道をすることもなかったし、 
もちろん、生活の全てにそれがない虚ろなものだった。 
ほんとうにどこにでもよくいる「子供」だったと振り返る。 
愉しみながら柔道に触れ、その中で技と心を伸ばしていくフランスの市井の柔道場。 
教条を掲げる日本の厳しさと何が異なるのか、 
「道」と「心」はどう重なっていくのか。 
番組は吉田のニーズもあってだろう、指導と体制にやや片寄ってしまって、 
その心の過程を映すことはあまりしてくれなかった。 
だからそこはとうとう僕には受け取れずじまい。 
ただその心の過程こそドラマがあるはずだと思う。 
ならば漫画家としてはそこにイメージを膨らませていくのも良いかな。 
良い宿題を貰ったような気がする。 

アシさんや、絵のことについて質問を受ける人とかに答えるとき、 
僕は描く対象について「考えること」 
そして「自分の生きてきた人生すべてで描くこと」 
と言うことが多い。 
僕は作業ルーチンで形式化した技法を先行させて「こなす」絵にまったく魅力を感じない。 
例えば少年漫画的なテクみたいなもの。 
そこには描かれたモチーフに対する畏敬も驚きも感動もない。 
自分は都度、モチーフのことを考え、描くことに感動して、 
その描かれたものの魅力を伝えたい。 
主人公が握る電話の受話器にすらその美しさを語りたい。 
そういう感受性をもって絵を描かないといけないのではと 
信じている。 
そう信じているのだ。 
先日、アシさんに月のトーンを貼って貰う際に、 
「月の気持ちになれば分かるよ」って指示したのだけれど、 
相当困惑させてしまったようだ。 
つまりは月はどの面を地球に向けているのか、 
月の明るい面と地球の関係は、 
大気のないということはどう見えるか、 
月の海はどうして出来て、どんな組成をしているのか、どんな表情をしているか、 
クレーターとはどのようにできるのか、その形は、歴史は、 
そしてその果てには、月がどうして出来たのか、 
潮汐力と地球の関係、だんだん離れていく月の未来、 
「静かの海」ってどこだろう、 
ムーンベース・アルファはどの辺り? 
そしてこれまで撮影されてきた月のビジュアル美しさ、 
そうしたものに思いをはせていく。 
そんなことを幾つも幾つも考えてトーンを貼っていくってこと。 
それを「月の気持ち」に触れるって表現をしたのだけど、 
まぁ「考えること」と「生きてきて、見て学んだことを活かして」という点で同じだったり実はする。 
ただ「気持ちになる」ってことは 
相手を知っていく、知りたいっていう動的で情熱のある心持ちなんだろうって思う。 
実際、僕はトーンではなく、線を描くときにもそうして対話しながら描いてる。 
漫画って僕にとってはそういう相手と向き合う関係を作る 
理念みたいなものがあるのだ。 
それはフランス柔道の8つの心得ととても似ている気がする。 
絵を描く自分の内と外に対して律していく心のあり方。 
「漫画道」みたいなもの? 
ただ硬い教条的なものではなく、 
心に寄り添う、そして楽しいものでありながら、遠くを見渡せるものでありたいな。 

ということで「ガールズ&パンツァー」も 
「戦車道」を掲げ謳うなら、 
「道」と「心」をどのように結びつけるのか、しっかり見せて欲しいなー。 
(オチはそこかよ) 

さぁ、ネームネーム…。

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2012年11月 5日 (月)

009を観てみたけれど。

脱稿して僅かな休息を兼ね、
で、1日だけのプライベートのつもりで
近所のTOHOシネマズ西新井へ自転車で行って映画を観てきた。
「009 RE:CYBORG」。

これが出来の良い映画だって胸を張って言えるのかな?
「超銀河伝説」の数倍は良いかもしれないけど、
作品として舌足らずというか、穴だらけというか、
演出の敗北というか、
はぁ?って感じでありました。
僕は石森作品に対する親しみも感慨も子供の頃からあまり読んでないので、
「これは石森テイストだから良し」とか「これが009なんだよ」と
訳知り顔で言うような御仁はこちらから蹴飛ばしてやりたい。
石森ファンとか009ファンとかの、勝手知ったる了解事項なんかを前提に評価されても、
こちとら分かりません。
また、ベタな00ナンバーサイボーグの活躍を期待していた人の消化不良も
お察し申し上げます。
それこそ長い歴史のあるコンテンツには
未来へつなげる意思と行動が作品にあらねばならないと思ってる。
今この時代に作られた本作から、僕はどうもそれを感じない。
というか009である必然を感じない仕上がりを見るに、
なんだかIGの営業上の事情ばかりが感じられて、
そもそもその「バトン」を意識なんてしてないんだろうなと
覚めていってしまう感覚が寂しい映画でありました。

善悪の構図が相対する存在の対立ではなく
人類の内なる相克に根ざすという
物語の軸は良いのだけれど、
「彼の声」の目論見の指すところを009を通じて昇華させるのなら、
004がご高説をたれるではなく、
体感としてその存在を感じ、納得し、
勢いをもってその真意を確信する動的な力と行動とで見せないといけないのでは?
だが画面的な見せ場たる事件を追うのに傾注して、
根幹にあるべき「彼」についてのラインが納得性を重ねる部分がなく、
思わせぶりに謎だけはふり蒔くから、
009の想いやセリフも、空を虚しく切るし、
エピローグも得心の行かない唖然とした印象しか残せてない。
「彼の声」への伏線なり設定なりを回収せよっていう意味ではない。
つじつまがどうかでもない。
明確なからくりが示されないままでも、人は生きて、そこで考え想い、
そこから自らに納得を見出そうとするものだ。
009の到達した感覚や視野と同じように納得させてくれなきゃ、
お話ならびに演出表現として失敗でしょ?
僕はそう考えるだけだ。
009の性格なり他の00サイボーグの関係とか知っていれば
そこのところは了解できるはず。それが石森ファンの常識。
ってのがあったりしたら勘弁してほしい。
そしてそもそもこのお話は009であった必要があるのかな。
攻殻機動隊の次のエピソードでも良かったのでは?
そんな印象がつきまとった。

CGアニメにおける3Dは
結構、撮影でこまかな立体感を出そうと、
配慮した画面があったけれど、
キャラと比較して背景美術が人が描く手前どうにもピントが合いすぎてて、
奥行き感が出づらい感じも受けた。
せっかくのキャラなりカメラなりの奥行きを、背景画が相殺しちゃってた感じ。
CGでのキャラなどの動きは
よく分からないんだけど、なぜかカクカクして見える。
凄いお金をかけてるんだろうけれど、
自主制作アニメ「ロボと少女(仮)」のカクカク感とかと同じ印象がある。
不思議だ。
初音ミクのMMDの方が滑らかに見えるのはなぜなんだろう。わからん。
キャラクターの造作は
フランソワーズは美しかった。細かい微妙な表情も出来て、
ヒロインとしての存在感は表現できていたと思う。
(ほむほむの声の人も素敵)
ただ他の人物はフォルムや造形も
IGさんと神山監督お得意のリアル系な処理で、ぜんぜんつまらない。
海外のバイヤーさんあたりからは「また攻殻みたいなのを作ってくれ」のリクエストが
相変わらずって聞いたことあるし、
そういう大人の事情もあってのことだろうけれど、
「東のエデン」で羽海野チカさんのデザインを入れて、
キャラクター造形としての豊かさ多様さを意識してたはずなのにと思うから、
このガッカリとツマンナイ感がある。
007などもっと性格俳優的な背丈や造作のある表情でもよかったろうに、
そういうバラエティもない。
広告素材とかにあったシルエットにしたら1と3と6以外は誰が誰やらw
フォルムに特徴があって成立する表現なのに
均質化した中でやるのはもう
自分達がやってることの認識が足りないというかチグハグというか。
漫画が獲得してきたこのフォルムについても、
今日的な解釈で踏み込んで欲しかった。

僕自身は食い足りない映画だったけれど
こうした機会で
009の周辺は活性化してきているとは思う。
平成009のBD化とかなればいいな。
それこそあちらの方が石森イズムを次代へつなげるべく
丁寧な解釈で作られてるし。

さぁ明日から再びお仕事。
エヴァQとかゴシックメイドとか観にいけるだろうか。

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2012年11月 2日 (金)

備忘録のような日記のようなもの

一見とりとめなくバラバラだけれど、
そこから僕の根にある視線が見えるかなと思うので。


[音楽]
これはドエライ、JAZZボーカルアルバムになるかもしれない。
流石だとしか言えないよ、この歌唱と存在感は。
JUJUのJAZZアルバムが本当にかすんでしまう
八代亜紀「夜のアルバム」

近年、森進一がJAZZを歌った時にアルバム構成が
旧来の演歌ファンを意識しちゃってたけど、
これはそれより正統に近い曲が並んでる。もっとコアな曲も聴きたいなぁ。
JUJUはJAZZ歌手を目指してただけあってちゃんと唄っているけれど
器用さと原曲へのリスペクトが高すぎて、真似になっちゃってる。
自分の表現ではない。
だから彼女がJAZZ歌手になれなかったのは、納得がいく。
その意味では八代も森も歌う表現としての練度がケタ違い。
「中二病でも恋がしたい」のOP主題歌って、
広瀬香美の旋律や歌唱とどこか泥臭いところが似ていて、ちっとも垢抜けてない。
ああいうのを自分的には似非POPSと思ってる。
根が演歌なのに今風の皮被ってて、そういう伝統的な安寧に逃げるのは嫌だな。
日本のPOPSにはこの演歌呪縛みたいなこの泥臭い感受性が巣食っている。
栗林みなみなんかもその最右翼だと思ってる。
僕は広瀬香美がスキーやらなんたらで流行ってるころから
もう、演歌にしか聴こえなくて辟易していたが、
ああいうのが透けて見える曲が新しく出るたびに、ウンザリしてる。
だから逆に八代亜紀のこうした試みは
ボーカリストとして実力を発揮すると同時に、
演歌という殻を抜け出す意思の強さと冒険心に感服する。

[絵]
絵描き仲間でミリタリ系の人が
自分のカラー絵の根っこは模型の箱絵って感慨を述べてて、
野上武志さんも箱絵をわざと意識した絵柄を描いたりしてるけど、
僕はあの手の絵にまったく郷愁も思い出もない。
だってプラモって、僕の育った寂れた農村には存在すらなかったから、見たこともなかった。
その意味では、ベースの違いを感じる。
じゃあ僕の絵の根を形成してるものってなんなんだろうと思うと、
妹の購読してた少女漫画月刊誌とテレビアニメかなぁ。
石森、手塚、藤子リスペクトって僕の年代近辺の人には多いのだけど、
僕は全然ない。だって殆ど作品を読んでない。
近所には田舎で本屋もなかったので、そういう洗礼がない。
妹には月に1度、父が街からまとめて少女誌を買ってきてた。
だから僕も少女漫画黄金期とか乙女ちっくの時代はカバーしてたりする。
月に一度くらいに床屋とかで見た少年誌は絵がきたなくて嫌で興味なかったし。
僕にとっては少女誌を除けば東京(というか街中)と平等に手に入るメディアはTVだけで、
その中で一番強烈な作品が宇宙戦艦ヤマトだった。
だからずっとヤマトリスペクトw
そういえば、「君は絵が上手いから」って
小学校6年生の時に担任教師がプライベートにこっそり同行して連れて行ってくれた、
東京・竹橋で催されていたシャガール展は衝撃だった。
印刷物ではなく初めてまともに油絵を見た時だった。
大きさと色とイメージに圧倒されたのを覚えてる。
教師が個人的にそうして生徒の面倒を見るのはタブーだったんだけど、
お陰で今僕は絵を描いて暮らしてる。

[ヤマト]
メガハウスの森雪フィギュアは設定をちゃんと読み込んでなくて、
ありていのフィギュア表現のルーチンでこしらえてると思う。
服にある細いラインは筋彫りの溝ではなく、
皮ジャンみたいに両サイドにちゃんと縫い取りの膨らみがあるのに、
そういうのお構いなし。
「分かってない」じゃない、ろくに物を見てないよ。
プロポーションだ顔だと語る以前に、原型の視野と感受性に疑問だ。

第三章公開初日に劇場で製作委員会の人に会ったら、
ヤマトの音楽会のチケットを新宿ピカデリーでも売ってるのを
Twitterでつぶやいて下さいって頼まれて、
アカウントもってませーんって答えたら「エー!?」ってズッコケられた。
その後もお会いした人から言われるのは「Twitterやってます?」が枕詞。
そういうご時勢なのね。
でもTwitterにはうんざり。

田中圭一氏の松本零士風2199キャラの絵って、
ペン先のタッチやラフさだけそれらしくして、
松本先生の女性キャラのエレガントさや繊細さにはまるで気が回ってないなぁ。
それを表現することへの愛情も感じない。
他人の絵を似せられる自分に酔ってるだけのお遊びにしか見えない。
Dr.秩父山の方が数段面白いし意欲も創意も表現もあったと思う。(ちゃんと初版本を持ってる)
そうして笑いものにさらしておいて、最後は「尊敬してます」ってそりゃとことん馬鹿にしてる。酷いなぁ。
ヤマト2199は西崎印の流れにあるけれども、
スタッフ一同が西崎+松本で創られた旧作へ深い敬意をはらっている。
松本先生が随分気に病んでいることを理解しながらも、
その敬意をどう形にしていくか気持ちをつくしているのを
遅れてスタッフ参加した僕は目の当たりにした。
そうした事情や苦労は松本ファンを自称するなら田中氏も想像できるだろうに、
ああして公の場で平気でやって、「ヤバイヤバイ」って笑いものにしていいとは思えない。
ああいうのは、飲み屋でオヤジがやってる馬鹿話の延長で、
いい大人が公然でおこなうものではないだろうに。
面白おかしいから良い。許されるって感覚を僕はあまり肯定しない。
無邪気な遊び感覚だからといってもわざわざ行なったそれは十分に、
相手には悪意に転換される。
一般社会が相手、組織や政治、理念に対しての笑いは反論の手段だけれど、
いわれなき弱い個人を笑うのは失礼を通り越した人格への侮辱だ。
批評や意見ではなく遊び目的で、公の場で人をコケにしておいて
「尊敬しているから赦して」は、
どれほど相手を馬鹿にした態度かを考え到らないのか。
そして「もうやめる」と言った舌の根も乾かぬうちに
またそれを続けるとはいかがなものだろうか。

そしてこれは言い訳だけれど、
僕が2199のコミカライズで佐渡先生を松本ライクに描こうとした試みは
編集部とも意見交換し確認のもとに始めたことだった。
日本の漫画というものが獲得したフォルムとその存在意義みたいなものが
ヤマトでは佐渡先生に集約されているとの認識に立って、
それを讃辞として借用しようという意味があった。
だけど発表後に関係各所の配慮と指導があって、
コミカライズの宿命として、この試みは諦めることになった。
軽率とのそしりは覚悟していても、
表現として意味と意義を見出し、意思があり行なったことだった。
単なるファンサービスでもお遊びのつもりでもなかったのだ。

11月発売号の連載原稿は普段どおりの工程とスケジューリングで描いていたのだけれど、
描けども描けども絵が進まず、本当に大変だった。
頁数を減らしたのに、思うように進まないでスケジュールは逼迫した。
考えてみれば、登場人物は皆んな宇宙服。
そこへ戦車や戦闘機や、ゆきかぜの艦内とか
線が多くてバランスが難しい不慣れなモチーフがテンコ盛り。
楕円とか長い直線とかはフリーハンドで描いている僕には難敵なのだ。
進まないわけだ。
でも、甘えず、妥協せず、作画は頑張ったつもり。
これはヤマトなので。逃げやごまかしは、自分の心への裏切りだから。
そうして絵は描いたものの、
トーンワークなどアシさんの助力がなければ原稿は上がらなかったと、つくづく思う。
本当に感謝ばかり。
次回分を含めて単行本2巻に納まる。
このまま気を引き締めていこう。

[人]
FMに東浩紀が出演していて、初めて肉声を聞いたのだけれど、
人前で喋るにはすごくいけない口調をしている。
早口で畳み掛けてそれでも言葉が回りきらない。
頭でっかちな(ある意味で優秀な脳味噌)人に多く見られるタイプ。
青二才がトンがってるみたいな印象に映るそれは断定的で厳しく、かつ思慮が浅そうで損してる。
というか嫌われ者オーラが出ている話し方に感じてしまった。
彼の思想や著作は触れてないけれど、
このラジオでの論調に限っては間違ってないと思う。だけど、凄く嫌。
信用できないし、この人と思想について行きたくないって警戒心と嫌悪感が起こってくる。
そういう口調で喋ってる。
人前に出るってことはだからとても大変だなと思うし、
それでお仕事している人の苦労は半端ないだろうな。

そういえば、2199の島くんはすぐに「駄目だ」「駄目です」って言うので、
僕は使わないようにしてる。
なにがどう出来ないのか、そこまで踏み込んで考えて
課題の意識なり判断なりを出来る場に艦橋をしていく人であってほしいので。

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