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2012年11月 2日 (金)

備忘録のような日記のようなもの

一見とりとめなくバラバラだけれど、
そこから僕の根にある視線が見えるかなと思うので。


[音楽]
これはドエライ、JAZZボーカルアルバムになるかもしれない。
流石だとしか言えないよ、この歌唱と存在感は。
JUJUのJAZZアルバムが本当にかすんでしまう
八代亜紀「夜のアルバム」

近年、森進一がJAZZを歌った時にアルバム構成が
旧来の演歌ファンを意識しちゃってたけど、
これはそれより正統に近い曲が並んでる。もっとコアな曲も聴きたいなぁ。
JUJUはJAZZ歌手を目指してただけあってちゃんと唄っているけれど
器用さと原曲へのリスペクトが高すぎて、真似になっちゃってる。
自分の表現ではない。
だから彼女がJAZZ歌手になれなかったのは、納得がいく。
その意味では八代も森も歌う表現としての練度がケタ違い。
「中二病でも恋がしたい」のOP主題歌って、
広瀬香美の旋律や歌唱とどこか泥臭いところが似ていて、ちっとも垢抜けてない。
ああいうのを自分的には似非POPSと思ってる。
根が演歌なのに今風の皮被ってて、そういう伝統的な安寧に逃げるのは嫌だな。
日本のPOPSにはこの演歌呪縛みたいなこの泥臭い感受性が巣食っている。
栗林みなみなんかもその最右翼だと思ってる。
僕は広瀬香美がスキーやらなんたらで流行ってるころから
もう、演歌にしか聴こえなくて辟易していたが、
ああいうのが透けて見える曲が新しく出るたびに、ウンザリしてる。
だから逆に八代亜紀のこうした試みは
ボーカリストとして実力を発揮すると同時に、
演歌という殻を抜け出す意思の強さと冒険心に感服する。

[絵]
絵描き仲間でミリタリ系の人が
自分のカラー絵の根っこは模型の箱絵って感慨を述べてて、
野上武志さんも箱絵をわざと意識した絵柄を描いたりしてるけど、
僕はあの手の絵にまったく郷愁も思い出もない。
だってプラモって、僕の育った寂れた農村には存在すらなかったから、見たこともなかった。
その意味では、ベースの違いを感じる。
じゃあ僕の絵の根を形成してるものってなんなんだろうと思うと、
妹の購読してた少女漫画月刊誌とテレビアニメかなぁ。
石森、手塚、藤子リスペクトって僕の年代近辺の人には多いのだけど、
僕は全然ない。だって殆ど作品を読んでない。
近所には田舎で本屋もなかったので、そういう洗礼がない。
妹には月に1度、父が街からまとめて少女誌を買ってきてた。
だから僕も少女漫画黄金期とか乙女ちっくの時代はカバーしてたりする。
月に一度くらいに床屋とかで見た少年誌は絵がきたなくて嫌で興味なかったし。
僕にとっては少女誌を除けば東京(というか街中)と平等に手に入るメディアはTVだけで、
その中で一番強烈な作品が宇宙戦艦ヤマトだった。
だからずっとヤマトリスペクトw
そういえば、「君は絵が上手いから」って
小学校6年生の時に担任教師がプライベートにこっそり同行して連れて行ってくれた、
東京・竹橋で催されていたシャガール展は衝撃だった。
印刷物ではなく初めてまともに油絵を見た時だった。
大きさと色とイメージに圧倒されたのを覚えてる。
教師が個人的にそうして生徒の面倒を見るのはタブーだったんだけど、
お陰で今僕は絵を描いて暮らしてる。

[ヤマト]
メガハウスの森雪フィギュアは設定をちゃんと読み込んでなくて、
ありていのフィギュア表現のルーチンでこしらえてると思う。
服にある細いラインは筋彫りの溝ではなく、
皮ジャンみたいに両サイドにちゃんと縫い取りの膨らみがあるのに、
そういうのお構いなし。
「分かってない」じゃない、ろくに物を見てないよ。
プロポーションだ顔だと語る以前に、原型の視野と感受性に疑問だ。

第三章公開初日に劇場で製作委員会の人に会ったら、
ヤマトの音楽会のチケットを新宿ピカデリーでも売ってるのを
Twitterでつぶやいて下さいって頼まれて、
アカウントもってませーんって答えたら「エー!?」ってズッコケられた。
その後もお会いした人から言われるのは「Twitterやってます?」が枕詞。
そういうご時勢なのね。
でもTwitterにはうんざり。

田中圭一氏の松本零士風2199キャラの絵って、
ペン先のタッチやラフさだけそれらしくして、
松本先生の女性キャラのエレガントさや繊細さにはまるで気が回ってないなぁ。
それを表現することへの愛情も感じない。
他人の絵を似せられる自分に酔ってるだけのお遊びにしか見えない。
Dr.秩父山の方が数段面白いし意欲も創意も表現もあったと思う。(ちゃんと初版本を持ってる)
そうして笑いものにさらしておいて、最後は「尊敬してます」ってそりゃとことん馬鹿にしてる。酷いなぁ。
ヤマト2199は西崎印の流れにあるけれども、
スタッフ一同が西崎+松本で創られた旧作へ深い敬意をはらっている。
松本先生が随分気に病んでいることを理解しながらも、
その敬意をどう形にしていくか気持ちをつくしているのを
遅れてスタッフ参加した僕は目の当たりにした。
そうした事情や苦労は松本ファンを自称するなら田中氏も想像できるだろうに、
ああして公の場で平気でやって、「ヤバイヤバイ」って笑いものにしていいとは思えない。
ああいうのは、飲み屋でオヤジがやってる馬鹿話の延長で、
いい大人が公然でおこなうものではないだろうに。
面白おかしいから良い。許されるって感覚を僕はあまり肯定しない。
無邪気な遊び感覚だからといってもわざわざ行なったそれは十分に、
相手には悪意に転換される。
一般社会が相手、組織や政治、理念に対しての笑いは反論の手段だけれど、
いわれなき弱い個人を笑うのは失礼を通り越した人格への侮辱だ。
批評や意見ではなく遊び目的で、公の場で人をコケにしておいて
「尊敬しているから赦して」は、
どれほど相手を馬鹿にした態度かを考え到らないのか。
そして「もうやめる」と言った舌の根も乾かぬうちに
またそれを続けるとはいかがなものだろうか。

そしてこれは言い訳だけれど、
僕が2199のコミカライズで佐渡先生を松本ライクに描こうとした試みは
編集部とも意見交換し確認のもとに始めたことだった。
日本の漫画というものが獲得したフォルムとその存在意義みたいなものが
ヤマトでは佐渡先生に集約されているとの認識に立って、
それを讃辞として借用しようという意味があった。
だけど発表後に関係各所の配慮と指導があって、
コミカライズの宿命として、この試みは諦めることになった。
軽率とのそしりは覚悟していても、
表現として意味と意義を見出し、意思があり行なったことだった。
単なるファンサービスでもお遊びのつもりでもなかったのだ。

11月発売号の連載原稿は普段どおりの工程とスケジューリングで描いていたのだけれど、
描けども描けども絵が進まず、本当に大変だった。
頁数を減らしたのに、思うように進まないでスケジュールは逼迫した。
考えてみれば、登場人物は皆んな宇宙服。
そこへ戦車や戦闘機や、ゆきかぜの艦内とか
線が多くてバランスが難しい不慣れなモチーフがテンコ盛り。
楕円とか長い直線とかはフリーハンドで描いている僕には難敵なのだ。
進まないわけだ。
でも、甘えず、妥協せず、作画は頑張ったつもり。
これはヤマトなので。逃げやごまかしは、自分の心への裏切りだから。
そうして絵は描いたものの、
トーンワークなどアシさんの助力がなければ原稿は上がらなかったと、つくづく思う。
本当に感謝ばかり。
次回分を含めて単行本2巻に納まる。
このまま気を引き締めていこう。

[人]
FMに東浩紀が出演していて、初めて肉声を聞いたのだけれど、
人前で喋るにはすごくいけない口調をしている。
早口で畳み掛けてそれでも言葉が回りきらない。
頭でっかちな(ある意味で優秀な脳味噌)人に多く見られるタイプ。
青二才がトンがってるみたいな印象に映るそれは断定的で厳しく、かつ思慮が浅そうで損してる。
というか嫌われ者オーラが出ている話し方に感じてしまった。
彼の思想や著作は触れてないけれど、
このラジオでの論調に限っては間違ってないと思う。だけど、凄く嫌。
信用できないし、この人と思想について行きたくないって警戒心と嫌悪感が起こってくる。
そういう口調で喋ってる。
人前に出るってことはだからとても大変だなと思うし、
それでお仕事している人の苦労は半端ないだろうな。

そういえば、2199の島くんはすぐに「駄目だ」「駄目です」って言うので、
僕は使わないようにしてる。
なにがどう出来ないのか、そこまで踏み込んで考えて
課題の意識なり判断なりを出来る場に艦橋をしていく人であってほしいので。

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