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2014年11月30日 (日)

雑記(多分2回目)

忙しすぎて日記を更新できないので、あちこちに書いたものを集約。
web連載の更新はしてないけれど、ずっと仕事はしている。
一応、来月には22Pほど更新される予定。
島や沖田、伊東の過去編はそのあとの更新になりそう。
残りの80Pほどを継続してカンヅメ状態で描いている。
ヤマトの劇場版初日にはいけないと思う。

この期に及んでまだネームを変更する。今より一歩前に進むには必要なんだもの。
安心するな、おもねるな、闘え。血を流すのは僕一人じゃないか。

そういえば今日は親父の命日だったはず。墓参りに何年も行ってない。
死んだ人を僕はいつ赦すことができるのだろうか。けっして謝ってくれることはないのに。
人工呼吸器の停止を決めたのは僕。でなければまだあと数日は生きていたろう。
息の根を止めたのは僕だったんだ。
まだ温かいと遺体の足の裏をさすって泣いた妹を思い出す。
父を殺して、その呪いを身に受けていくことになったんだな。

22P分を入稿して、請求書やら事務伝達やら、執筆で滞っていたものを一気に処理したら、
午前中がふっとんだ。というか50万円も未請求ってのは我ながらお金に情が薄いw
こんな奴は社長をやっちゃいけないよね。

僕も、委員会も忙しすぎて総集編のEDイラストは権利関係も支払いも
まだ何も話し合ってないのだけど、
「難しいことは言わないから『方舟』の劇場公開時に商品化は好きにしてくださいね」って、
以前に製作委員会さんに告げたら、委員会さん曰く
「『追想』BDを買って下さった方々にまずはじっくり楽しんで貰うのが先と思うので、
商品化はそのあとに」とのこと。
なるほど。大切な考え方。

選挙日程も決まって、
にわかに「嫌いな政党」を揶揄することで喜ぶだけの人に向けてのネタ用の記事が増えた。
既存マスコミは与党へ、ネトウヨ相手はまとめサイトで野党ネタという感じだけど、
ちょっとでも政治や選挙の仕事に触れた人間なら一笑に付すような、
無見識と不勉強と、意図的な狙いに満ちてて馬鹿らしい。
まとめサイトなんて、それでアフィリエイトを稼げるようネトウヨに撒いた犬のエサみたいな話題で、
人間様の食べるレベルじゃないのに、
美味しそうに食べている人を見かけると、
わしゃあ日本の将来が心配になるよ。
PCの前で無責任に好い気になってないで、
選挙事務所にボランティアにでも行けば、実際が分るようになる。
僕は学生時代から社長時代まで、自民党から社会党(w)、民主党や公明党(w)まで、
選挙活動員から広報担当までバイト(法学部の学生なんてそんな感じ)やら仕事やら、
政治活動報告会の頭数合わせまでやってきてるし、
編集時代は地方議員の取材記事の担当をしてた。
色んな現場で色んな角度で政治と政治家と選挙に触れてきたから、
脊髄反射的な政党批判。政治家批判が的外れで、もう見ていて困惑する。
まるで妄想にとり憑かれ悪の秘密結社の陰謀を説いているみたい。
好き嫌いで目の前真っ白になって、飛びつくのは幼稚だからやめましょう。

円安になって為替益や株価の上昇で含み益が上がって企業の景気が良いって、
全部、企業活動の実質がない数字の遊び。
そしてその回復が労働者に分配されるって論は、一見正しいけれど、
企業が社会の公器の使命を捨て、株主重視の視点から、
給与という経費圧縮が重視される中で、即効性は完全に失われているから、実質は間違い。
経済と分配の循環構造を断ち切っている仕組みが、
企業産業界と投資家などの金満層との関係で幾重にもできてしまった。
だから景気回復基調なんてこの20年で何度も言っても、一般人には実感がない。
そして格差助長が進んでいるだけ。
一見正しい論理に騙されてはいけない。嘘がたくさん仕込まれている。
消費税増税の猶予を1年半とってその間に、
景気を回復させて、賃金上昇をさせるってのは、
この正常なるシステムの遅効性が進む中では、無理。
経済活動と企業哲学の視座を転換することから必要。
どこの党でもいいから、賃金のベアや雇用増、時短など、
着実な実行を行った企業のみの法人減税策などを出してくれれば、
投資家、資本家との軋轢を抑えながら、景気の底支えを促せると思うんだけどな。
どこかいないかね。
経済だ外交だ福祉だと色々いうけれど、
日本の社会が抱える根本的な課題は「人口減少」につきると思う。
高齢化じゃなくて若年層の異様な少なさは、国力も、社会システムも地盤沈下させてしまう。
自民は脳味噌古いからあてにできないけど、
選挙で勝った党は10年かけて人口をなんとかしないとまずいよ。

日本青少年研究所の千石保氏と仕事でご一緒して以来、
「自尊心」「ナルシズム」の健全な育成、翻って、歪で肥大した状態の危険性について、
社会や政治や人を読み解く手段の一つにしている。
他国を蔑み国威を喧伝する効果、
やれば出来る子、
批判にキレる坊ちゃん宰相、
自分を認めない社会への恨み、
皆、自分が可愛い。
自尊心は心の自衛手段の一つでもある。
世の中でその畸形化が進むのなら、
それは社会や組織の見ている方向や哲学と人の心のきしみがあるということだろう。
個の歪さを批判するのは容易いし、個に責任がないわけではない。
ただ個人を攻撃することで、問題の本質において自分に重なるものから目をそらすのも
またナルシズムだ。
自尊心で慰めの逃避と排他に身を置くか、
責任感や絶望の果てに鬱病になるかの両極が蔓延するなら、
それは個の責任では解決できない。
政治施策の場当たりな対処療法でも根治はない。
健全な自尊心を育成することこそが、恐らく道徳教育なんかより必要なことなんだと思う。

生き方と称して、世渡りの手練を誇り、
己の損得と自尊心で世間を見なしていく職場のオッサン連中を最悪だと思ってきた。
彼らの説く夢も理想も薄っぺらでごまかしに満ちて濁り、輝きを放って人を導くことはないから。
広い視野に自分をさらす勇気もないから。

http://ddnavi.com/news/211452/
だから性風俗で働く女性が増えているって現状は確かにあるのだけれど、
企業側の責任を問う風潮の前に、エンプロイアビリティというものへの働く側の意識はどうなのかな?
平凡に勤めたいって意識の社員は実はもう会社が雇いたくない人になってる。
働く側は企業が雇用したい自分であるのか、
そのために何をしてきたのかを意識していないと。
過去の経験ではなく、今、それが役に立つ検証はできているのか。
何もない人、意識していない人が100社200社落とされるのは当たり前。
問題を問うなら、
企業のそうした雇用状況と意識はもう10年以上前から当然のものになっているのに、
新社会人になろうという人たちに、そういう職業人としての意識を持たせることを
教育の中でまったくと言ってよいほど機会がない。
バブル前後の無頓着無自覚なモラトリアムのままでいる。
この教育と社会のミスマッチを是正しないと。
そしてこの人、35過ぎるまで、
自分で起業する、自営業でやっていけるだけの能力も意識もスキルも人脈もまったく作ってない。
就労とは企業に対して自分の能力を売る契約。
その上OJTで勉強の機会はそれなりにある。
それを活かせず、平凡な勤め人ではもう駄目なんだってことに、まったく気づいてない。
それは誰でもない自分の責任だ。
そういう無意識から無就労になって生活保護の厄介になるのは、生存権としての主張からは正しいが、
自分の責を棚上げにして社会に迷惑かけてるってことだ。
ちなみにエンプロイアビリティやスキルアップを意識して働いている人は、
今でもどこでも引く手数多。給与も上がる。年齢も関係ない。
こういう無自覚の人が40歳も過ぎて何もない自分に目覚めるとどうなるか、
外に出られない自分に恐怖し、会社内での位置や地位にしがみつこうとして、
居座り、保守化し、ルーチンばかりの前例主義の無責任に居直り、
会社組織を硬直させ駄目にしていく癌細胞になる。

FMでJAZZの番組がめっきり減ったので、Ottavaとかクラシックの番組などを聴くことが増えた。
http://ottava.jp/
そこで出会ったピアソラの「バンドネオンのための協奏曲」。
野性味と情熱があって所謂おすましのクラシックではない。これは収穫。

最近、ピアソラもしかりラテン楽曲がマイブームなのかもしれない。
僕的に韓国映画の最高峰の一つと思っている「母なる証明」。そのOP。
日本の都市部では忘れられているが人は踊るという感情表現をそもそも持っている。
その絶妙なる哀しみとギターの音に心がしびれる。

ネットで調べものしていて、
井上純弌の絵がトレースだって糾弾しているサイトに行き着いてビックリした。
彼の絵に、複数のフィギュアのポーズを反転したり歪めたり合成して重ねて、
「ほらソックリ。だからトレスパクリだ。最低だ」ってのは、もう気が狂ってるよ。
フィギュアやグラビア写真集のポーズって、
ある意味では人体の見得が切れた状態なので、参考に見るのもそうだし、
似通った要素になるのは、人体っていう可動粋が限定されたものでは必至なのに。
井上君は描くのは本来早いし、
トレスではなく、参考に見てさっとイメージを作るのも「パクリ」なのかなぁ?
僕だって、イラストでは何枚かの写真や画像でイメージを練ることはよくしてるし、
漫画でも動きのあるポージングは、似たような格好の画像を参照して、
構造の検証とからしさとかを整える。
丸写しではないものまで、変形合成でトレス嫌疑をかけられるのは、
絵を描いたことのない人の発想か嫌がらせだよ。
ちなみによく僕が検証に利用しているのがこのサイト。
http://nikq.org/flash/Away3D-MikuMikuDance/
手足は自由可動できないけど、
人体のボディとパーツの関連と流れ、パース感はこれで検証できるので、
場のイメージの把握に使っている。

先日のヤマト講座はニコニコのアカウントも無いので結局内容は分らないけれど、
投影された精神と身体の成熟度によるヤマト女性陣のプロット図って
クレッチマーの類型論みたいな古典的性格分類法の発想なのが疑問。
それが「ゲームシステム」なのかな。
ゲームは一切やらない、できないので分らないが
そういう前時代的な発想と方法が「ゲームシステム」と呼ばれ、
ゲーム創作の現場のルーチンにいまだに使われているの?
アニメや漫画でその単純化を用いるのは、
制約の中での分りやすさを優先する「お約束」の古いルーチンであって、
個を語る演出が進化した今に合うのかな。
型とお約束が横行すると、それ以外に異論を唱える保守主義や感性の退行が蔓延する。
「萌え」系にはそれが溢れてる。
キャラ造作も性格設計も型のパッチワーク。
物語までもがお約束で作られる。演歌みたいだ。
ヤマトで僕のキャラの行動や人物造作が斜め上だっていう感想も聞こえるけれど、
それは読者が「型」や「ルーチン」に縛られすぎなのではないかな。
僕はごく普通に人を描こうとしているだけ。
もっと自由でいいのに。
僕はこの古い類型論的フォルムを優先するのは、
ある種の人間否定に思えてしまうので。
ツンデレとか癒し系とか、象徴的性格パターンから
形状や性格を掘り下げる方法の方に価値や意味をまだ感じる。
絵のない中の想像や文章の方がよほど人物の造作に真摯に向き合えるというか、手抜きにならない。
企業のプレゼンで、数値をグラフ化した時点で分った気になって、
情報を見落とすような絵が人の思考停止を促してる危うさと似た感じ。
作り手の配慮のない単純化は、大切なものを闇に葬り無為にするような。
自分としてはそういう類型的な味付けはお遊びの部分で、
本筋自体は見てくれの造形に左右されないで、
人の部分と周囲との関係性を大事にしたいと思う。
ヤマト講座の会場にいた親しい漫画家さんも、
この類型化には疑問符を感じたらしいと伝え聞いている。

ヤマトのキャラの過去話のネームをずーっとやりながら思ったのは、
人物を知って深まっていく行為は、その相手を好きになっていくことと同じだなぁと思う。
描いていると時々泣けてしまう。
http://gyazo.com/147888a41619d281f03285e0c4c9af50

カリメロはやはり今期のアニメで一番だな。
本国イタリアの脚本で制作のこれを見ると、
日本の児童向けアニメの脚本が雑で稚拙でいい加減で、
本当に酷いことがよく分るし、強い危機感を感じる。
そんなふざけた仕事をさておいて、
カリメロは絵作りもテンポも秀逸で、愛らしく素晴らしい。

某社の編集長さんに聞いたのだけど、
最近は漫画の原画展とかで生原稿を展示する機会が少ないそうな。
デジタル化もそうなのだけれど、
事故対策の保険料の負担が莫大になってしまうことがあって、
複製原稿になっちゃうとか。
その意味では新潟や北海道での、僕の原画展は
本当の生原稿やラフ画だから稀な機会だったのかも。

さて、また原稿に戻ろう。

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