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2015年2月22日 (日)

雑記(おそらく3回目)

よく分からないけど出ているハーロックの新しいコミックス。
帯に堂々と記されている
「俺の旗の元に俺は自由に生きる」は
「俺の旗の下に俺は自由に生きる」の誤植じゃないかな!!
凄く堂々としてるけど!
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「中国嫁日記」の4巻を買わなくちゃとAmazonを見たらあまり評判が良くない。
というか以前から気にしてた部分を多くの人が不満を持って指摘している。
そうしたら井上君の独演会での粗雑な素行や発言をまとめたサイトとかまであって驚いた。
彼の悪いところも魅力もそこにあるんだけどな。
彼に何かを求めれば、そういういい加減で無責任で、
他人の気持ちへ配慮のないところは不愉快で憎しみの対象になるだろうけれど、
求めるところがなければ実害はないし、
歯に衣着せぬ言葉や話相手に向ける罵倒も、
学生時代の友人のようで気軽で愉快だ。
ルサンチマンの塊で、金と名誉に素直に貪欲な小人物のところも楽しい。
でも「彼は1年後どれだけ友人が減ってるだろう」ってある人が言っていたけれど、
確かに友人以外の周囲に対してまでも、ちょっと危うい言葉が多いみたい。
中国へ転居して以前のように過ごす時間も減ったので、なんだか心配してしまう。
今、日本に戻っているみたいだから、久しぶりに会いたいな。
人は人と会ってたくさん話していろいろ思ってそうして人になっていくと思うので、
中国で家に篭って、ネットで顔も見ずに言いたい放題では、
人間でなくなっちゃうかもしれない。
日本にいて家に篭って漫画描いてる僕でさえ、その自分が怖くなるのだから。
まずはとりあえず僕も早く読もう。

やはりエッセイ漫画って事物や創作に対していい加減な感覚が目立って嫌だなぁ。
http://blog.livedoor.jp/geek/archives/51473795.html
漫画家のアシスタントだったダンナがラーメン屋になる話で、
重要って言ってるスープの出汁の火入れで
頭やはらわたを取ってない煮干の絵を平気で描いてる奥さん。
どれだけラーメンや料理に無頓着なんだ。それで平気で漫画描いちゃうんだ。
煮干の旨みで有名なこの店もそこで働く夫も、この絵の無知が馬鹿にしてると気づかないんだ。
もうあと一歩でも丁寧に取材して考えて表現できないのか。
適当にダンナに聴いて片手間で描いてるような姿勢にはウンザリだ。
編集時代にエッセイストと呼ばれる方々に寄稿をいただいていたけれど、
文章のジャンルで仕事されている人はみな本当に丁寧で、
豊かな感受性に裏打ちされた作品だった。
おもしろ楽しい、あるある感覚、絵がかわいいだけで、
内容も視点も薄っぺらなエッセイ漫画は勘弁して欲しい。
絵は稚拙さを誤魔化す道具じゃないだろう。
漫画家として恥ずかしくないのか。

NHKの番組で唐津の若手陶芸家が今風にと行き着いた皿の色が黒だそうだ。
それって安直過ぎるだろ!
服でもデザインでも黒で合わせるのは無難で安易でひとつの逃げだよ。
茶道の茶懐石での料理の器は漆器の内側を除けば、
料理の色や形に合わせて多様な色でコーディネイトしてこそ美感なのに。
僕がカラーの漫画を描くときにコマの外を黒にしてしまっていることにどれだけ恥じているか。
上手い人は黒なんか使わなくても色をまとめ、雰囲気を作ってる。
それができない自分のセンスのなさ、技術の浅さを悔やんで悩んでいるのに。
行き着いたら黒って若いからってどんだけ不勉強な達観なんだ。
思慮と見識がなさすぎ。
もし黒が究極ならば、長い食器の歴史の中で、とっくに黒以外の皿はなくなっているはずだろう。

家に20枚くらい色紙がたまっている。
知人や会社からサインを求められての物だ。
もちろんサインも絵も描いた。でもこの色紙はたまったまま。
これらは全部「画仙紙」。
毛筆の書画や水彩向けの和紙の柔らかい紙で、
鉛筆は刺さり、ペンは滲んで絵もサインも判読できないものになる。
だから自分で色紙を買い直して、描いて渡した結果の20枚。
絵を描くことと紙質というものに多くの人は無頓着で、
しかし気を使って高いこの画仙紙を渡してくれる。
素人さんだけでなく、アニメ業界の某社の営業さんだって同じ。
さらに一番困るのが、ヒラバで「これにサインを(そして絵も)」と
画仙紙の色紙を渡されてその場で待たれている状況。
僕は手癖でルーチン化した描き方もしないので時間がかかる。
そもそも漫画家がすらすら絵が描けるものと勘違いしている人が殆どだ。
そして画仙紙w
とにかく下書きやペン入れに気をつけ、苦しみながら時間が過ぎる。
その苦労はニコニコ期待して待っている方には伝わらない。
実によくある話なので、腹が立つとかそういうことではない。
ただそうして20枚もたまった色紙をどうするか、なかなか悩ましいことなのだ。

話を考える原作者、コマ割りや演出までまかなうネーム原作といった複数人体制の漫画は、
もう恐らく、中堅中小の出版社にとって好ましい存在ではなくなっていくと思う。
原作料(原稿料)の負担が連載時に漫画家一人の場合の1.5~2倍かかって、
コミックの売上げが「並」では、ペイしない存在だからだ。
コミカライズは既に原作の小説なりアニメ、ゲームがあるので、
それを漫画家一人で描くから負担は変わらないことが多い。
原作のマージンはコミックスの印税10%から定めた割合で漫画家と分けるから、
これも出版社には負担にならない。
印税に関しては原作者つきも同じ。
つまり通常の連載のランニングコストがシビアなのだ。
ベテラン漫画家が体力的な理由や絵が古くなったなどの理由で、
原作仕事に切り替えたり、ネーム原作のスタイルで生活をしのぐケースが昔からよくあったけれど、
もうそれが出来なくなるという状況が来ている。
自分の名で是非に原作をと乞われるネームバリューを築けておらず、
消極的な単なるシフトでは先がなくなってきている。
大手出版社はさておき、
漫画原作者という存在のコスト負担をペイできる実績を見込まれるのか、
それとも原作者という供給の方法論を変えていくのか、
アプローチのやり方、自分のキャリアとバリュ、
それを意識した創作活動を心掛けていかないと存在価値はなくなる。
実際そういう理由で、編集部に出入り禁止になった漫画家さんを知っている。
出版社は原作者料の負担に耐えられずに相談するも、その当人は値下げに応じない。
そして原作つきコミックの売上げは並かそれを下回る水準という結果。
原作者自身の漫画も漫画家としての原稿料に見合わない部数しかでない。値下げにもまた応じない。
これではビジネスとして破綻してしまっている。よって出入り禁止になった。
ちなみに以前にも書いたけれど、
漫画家の稿料が1万円であれば、コミックスは1万部売らないとペイできない、
連載も継続できないという、偶然だけれど稿料と部数の不思議な符合がある。
仮に原作者がいるために漫画家の分と足して稿料2万円かかっていれば、
2万部売らないといけない。
けれど、それが6千部や1万部だったらもうアウトなのだ。
そして先日、出版社から聴いた言葉。
「版元によっては2万部下回る作品は存在自体がもう赤字の無価値なものだ」ってのは、恐ろしい現実。
もう新人はデビューするなって言っているようなものだ。
積み上げて成長していくって過程をつまりは許さないってことになりかねない。
将来の多様な可能性の芽を摘んで、今の利益しかみないのはジリ貧な駄目経営の典型だ。
即戦力と称して負担から逃げ、いいとこどりをする卑怯な経営。
それが業界や市場を育てていけるのか。逃げるから縮小し、ジリ貧になる。
本が売れない責任は作家だけにあるのだろうか?
コミカライズ(版権物)はやはり安かろうという発想で新人が任されることも多く、
残念な作品になってしまうことがままある。
ただ、登竜門としての場でもある。ここから鍛えられる才能もある。
マイナス要素ばかりでもない。
コミカライズが商売の安全牌だけでなく、そうした場として残された数少ないフィールドであるなら、
新人もしかりだけれど、
ベテラン漫画家とのコラボ的にもっと実力を発揮できる市場にもなればと思うが、
稿料の問題で、ある種の壁が存在したままなのかもしれない。
漫画家自身も面子や肥大した制作体制に固執せず、
自分の市場価値やエンプロイアビリティを意識していかないといけない。
漫画家が漫画にかかわって食べていく道はどんどん細くなっている。

業務改善の提案の中で、
自分の能力や努力の不足をさておいて、
自らの周囲の問題解決の手段をシステムの変更と経費を使って行おうとする発想の人がままいる。
それに気づかずに自分は改善提案して偉いとまで思ってる。
そんな人は決して成長しないし、
自分の無能を会社の金と手間で補おうってのは、会社から見れば大馬鹿野郎だ。

正月に母と妹と話をしていて(その1)
姑いじめをしていた遠縁の人の話になり、
普段会っていると決して悪い人ではないのにどうしてなんだろうとなった。
いじめる方もいじめられる方もどちらも至って善良な人であっても、
どうしてもウマが合わない、耐えられないほど嫌いなタイプのあるのが人間だよね。
ってのが僕の弁で、皆、うーんと唸って納得してたw
悪い人ではないのに、その人の持っている生き方とか所作とか雰囲気が、
傍にいるともう勘弁して欲しいってほどつらい相手ってのは、
きっと誰にも存在するのだろうなと思う。
友人知人なら距離を保てるけど、嫁姑みたいな親族のように密接度や時間が回避できないと、
相手を否定したい心根が、言葉や暴力になったりするのかな。
人と人は理解しあえるとは言うけれど、
そうした距離感や納得の中でこそ、この耐え難い違和感と嫌悪は、
その存在を影で重くしていくような気がする。
実際、僕は亡父ととうとうこの距離を埋められなかった。
多くの人から好かれた有能な父、
正義が一つしかなく、自分のそれ以外を蔑み罵倒した、明るい父、
その父親を僕は一生かけて否定していきたいと思っている。
もし家から独立していなければ、暴力を奮ってしまったかもしれない。
もし長命だったら、老いた父に土下座を強要したかもしれない。
それほど憎しみに近いほどのストレス源だった。

正月に母と妹と話をしていて(その2)
妹が十数年ぶりに韓国語の勉強を再開したと聞く。
以前は韓国の友人宅に転がり込んで旅をするような妹であったが、
語学教室での以前と今の人気の落下度に本当に驚いていた。
まぁそれは今の大統領で加速を増したから仕方がない。
さておきそこで韓国の国民意識のあれこれを聞いていて、ユニークだったのが、
就労者の技術を「職人的」だと褒めると、
馬鹿にされたと感じて怒る人が多いというのに驚く。
韓国は楽して金を儲ける人間が尊敬される風潮があって、
こつこつと地味な仕事をやっている人間は、尊敬されない。
職人もいつかこんな仕事から大立者になる「やればできる子」な心理だから、
その嫌々やってる仕事を褒められると、
そこにしか存在価値がないかのように馬鹿にされたと思う人が多いとのこと。
職人の哲学も技術も尊敬する日本人とそこが根本的に異なる。
だから現代の韓国では、産業の基礎やマインドが結局は育たず、
真の技術立国にはなれないそうな。
職人が自分の職や技能を恥じていては、仕方がないね。
僕の社長時代、中国と仕事をしてたとき、取引先の工場の技術を上げるべく、
ウチの社員を指導者として1ヶ月近く派遣し、教授をして貰ったけれど、
中国の労働者は給与さえ良ければ、まったく未経験の他業種へ転職を簡単にしてしまうので、
会社の技術が全然上がらないっていう経験をした。
そういう職や技術への薄情さ、一途さの欠如みたいなのにも似ている。
日本は人口も減るし、就労のあり方も難しくなるけれど、
このクラフトマンシップを支える一途さとそれを尊敬する心を大切する意識を育んでいけば、
まだこの先の将来にそれほど輝きを失わない国であり続けられると思う。
ちなみにこんな記事もある。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150112-00000003-xinhua-cn
逆に、日本の基礎技術やエンジニア軽視を続けたこの20年の衰退を危険視する声もある。
日本は自らの哲学をどこに定めるのか、その期限はもう猶予なしなのかもしれない。

正月に母と妹と話をしていて(その3)
料理を作る話になって、甥が母である妹に
「ママは料理は上手くて美味しいけれど、作るのは嫌いだよね」と言ったとのことで爆笑。
そこから料理の下手な人とは、味と調理のイメージができないという話題に。
レシピのトレースだけでその意味を理解してない。
「美味しい」と食べるだけでどう作るか想像できない。
その場の食材、作る過程の味と対話をし、
そこから目指す味に調整できる応用とイメージができるか。
その感覚を食べるときにも意識してるか。
レシピや型に縛られて、応用が利かずアイディアに乏しいのも、
結局は経験を生かせないから上達を鈍らせる。
料理とは作業ではなく、音楽的なものだねというのが、
僕や妹、辻料理学校を出た母の結論。
ちなみに家族で料理ができないのは
「台所に立つ男は最低で恥ずかしい」という信念の父親だけだった。
料理を作るということの視線は絵を描くのも同じで、
ものを見聞きする時に、常にどうやって絵に描くかを意識している人は、絵の上達が早い。
漫然と生きている者は何においても上達はない。

NHKの「日曜美術館」再放送。
茶道の一大数寄者・川喜田半泥子の特集は実に興味深かった。
茶道具に求め、自らも作っていった人の、事物への着想や向かい合い方が、
僕がアシさんに指示するときに言っていることととても良く似ていて、
なんだか自分に対して笑ってしまった。
茶碗をひねるには、土と語らい、土の気持ちになって、
自分の能力や作為のその果てを土の思う先に任せていくように。
言葉のリズムや即興に敏感に、そして楽しむ音楽のように。
常識や型にしばられず、イメージを広げる。
自分の生きてきた感受性をすべてで自然を感じ表現する。
ああ、これは漫画家というより確かに茶道家っぽい。
ただ茶道も、華道も、書画も、JAZZなどの音楽も本当はそこに行き着くように思う。
漫画がただ、娯楽工業品としての生産性の中から
ルーチンや型が優先されているためにマスクされやすいだけ。

相田みつをが大の苦手。
「日曜美術館」で採り上げていたので、
どうして嫌なのか再確認するために仕事しながら流し見。
「書」としての字体は気にならない。
詩作が駄目なんだ。
思ったことを泣きながら書き付けるような幼稚な心根が駄目。
自分で調理せずに、生野菜を料理した気になって出している詩ばかり。
生前のVTRも流れる。
この人、自分嫌いとか書いているけれど、それはある意味事実だろうけれど、
それをそのまま作品にしてる段階で、物凄いナルシストだよ。気持ち悪い。
それがVTRで自分の言葉に酔ってカメラに喋る態度や目線に溢れてる。
自分が嫌いならそもそもカメラを避けるし。
書き捨てたものを山のように積んだものの前でポーズをとった写真を残すのも、
俺の苦労と努力を「見ろ」という自尊心。
この人の詩作を好きな経営者って凄く多い。
これに倣って相田スタイルみたいな芸風の書家も増えた。
孤高のナルシズムとかふと見せる弱さ優しさとかウンザリ。
でもそういうのに弱い人はいるのだろうな。
詩作はどれもモノを作る前のごたくばっかりに見える。
作り手は、そう思ったならそれをどう作品に昇華するかだと思う。
その手前で泣いたり喚いたりをさらすことが作品だとは、本当に見苦しい。
「中国嫁日記」の井上純弌が、僕が会社を畳んで社長を辞めたとき、
その苦しみ続けた体験を本したら売れると盛んに薦めてきたけれど、
僕はきっぱり固辞した。
体験は時間と距離をおいて自分の心の熟成を待たなければ、作品には活かせないものだ。
生々しい感情や力はあっても軽薄だ。
ああ、僕がエッセイ漫画とか嫌いなのにどこか通じてるな。

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