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2015年7月

2015年7月25日 (土)

どうやら大阪の陣らしい。

やっと脱稿した。
34P分のネーム、ドメル撤退の場面まで切ってあったのだけれど、
28Pでタイムアウトだった。悔しい。
それでも作画はとにかく一歩も逃げずに突き進んだ。
戦艦は描くのが大変だった。
ドメルもキャラとしてやっとこなれてきた感じ。
更新は28日の火曜日。
8月更新は角川の都合で9月頭になるらしい。
その分まででコミックス7巻に収まるので、きっちりと描いていきたい。
そうして物語はビーメラ星系、反乱編に入っていく予定。
ちらほら口にしているが、ボルゾン星も出したいと思っているけれど、
誰もがその話題をスルーするので、関心もなく、期待されてないのだろうな。

Y37_19

漫画を描きながら、
無駄な努力って言葉をずっと反芻していた。
誠実にあれ。己を磨け。そう努めても自分なんかには絶対に届かないものがある。
高望みをしている訳ではないという気持ちが余計に心を曇らせる。
ただ僕とその間には深い谷が横たわっている。
努力したからこそ、ここまで辿り着いたけど、
見渡す谷の向こうの風景は美しく、そして足元は残酷だ。
(「隣の芝生は青い」とかじゃないんだからね!たぶん)
以前に富士山を登っていて思ったのは、
何時間登っても風景が変わらないということ。
円錐形の形状がそういう視野を頂上付近まで維持しているからだ。
荒涼とした岩場を黙々と登るものの、
その積み上げすら無駄だと喝破するかのような山行は、
まさに己が努力の無意味を問う苦行だった。
でもそれは今の自分の普段の執筆となんら変わることがないと、重なってくる。
自分のつたなさがつらい。

少しずつ上手になっているけど、元が下手な分、糊しろがあるようなもので、
糊しろが産まれるその根幹の問題を考えるとつらすぎる。
劣っていることは生きている上での罪であり罰するべきだ。
でも愚かさ至らなさの根幹をどうにかする手当てが見出せないと、
罰は罰を与えることで自分の問題を誤魔化す安心の手段に摩り替わる。
嫌いな自分をいじめて喜ぶだけで、まったくの無価値だ。
もっと建設的に自分を痛めつけないと。
しかし皆、
自分の人生の理想や目標とのギャップとどう折り合いをつけているんだろう。
なんか血を吐きそうにつらいばっかりなんだけど。
昔はそんなに気にしないで生きていたように思うんだけど、
社長やってた8年間が自分には過酷過ぎて、忘れて(壊れて)しまったよ。
自分を罰する以外に何かあるのだろうか。真面目にそこは悩む。
僕のように自己肯定が殆どできない人間は、
絵を描く仕事は向かないのかもしれない。
一人でずっと自分に向き合い続けて、
自分は駄目だクズだ無能だと念仏のように唱え、
石臼で心を挽き潰してるみたいなものだ。
どうしたら自分を少しでも好きになれるんだろう。
前よりも少しだけでもましな人間になれたらと願う。
いや、早く人間になりたい。
子供の頃より親からは自分より劣った情けない存在、
周囲からは弱く惨めな虫のようにイジメの対象で、
僕は人間ではなかったのだから。

よく勉強できない子が「学校の勉強なんて大人になって役に立たない」って開き直る。
僕自身の経験では、どれでもなんでも役立っている。
逆に中高レベルの基礎学力が低い人は仕事でも使えない。
勉強はしておくものだと思う。
「学び」を意識し素養が多い人ほど「学び」の恩恵を実感できる。
逆は、もう最初から意味はないと、たかをくくって居直るか、
己の不勉強は実感するものの、
恩恵のありがたみや意味はやはり分らないまま。
「理解ある親」がよく言う「好きなものを伸ばす」も、そればかりに偏るよりも、
中学高校程度の基礎学力や一般教養がある「地力」の強さは、
「好きなもの」をより伸ばしてくれる。
読書学習とか書道などの専門技能的な、比較的ポータルで深めやすい学習に比して、
学校教育という長い時間をかけていく地道で広範囲な学習は、
大人になったあとでは、ほぼ取り返しがきかないもののように思える。
成績優秀であれという意味ではなく、
貴重な機会として、そこそこ基礎は修めておく大切さを感じる。

専門職での技能って一定のボトムがあり、差も拮抗していくから、
実は専門外の部分の素養が優劣に左右したりするのかも。
一般教養の堅実さとか趣味の多様さ深さとか。
漫画なども、例えば和服が好きとか、ミリタリに強いとか趣味があると有利だったり。
逆に一般教養が低いと、能力からの減点要素になってしまいそう。
オイラ、無趣味だからなぁ…。
せめて好きなものくらい、深めておきたいなぁ。
はて?好きなものってなんだろう…。
パンダ、散歩、UFO、おっぱい、ハンバーグ、お寿司、ヤマト…ううう。なにかアカン気が。

無趣味もそうだけど、嗜好品もないオイラは、
この1ヶ月ほど「コーヒーの飲める大人になろう!」と決心し、
でも猫舌なので、ブラックのアイス缶コーヒーを色々試してみて、
やっとJTの「Roots AromaBlack」の味なら美味しいかも!
と思ったら、JTが飲料事業を閉鎖してサントリーに売却したせいで、
小売店から消えちゃった…orz

「ガルパン」の再放送が始まっている。
シリーズ序盤はやっぱり、脚本が粗い。
何かを感じて変わっていく瞬間の強さを描くんじゃなくて、
決まった時間内に設定とストーリーを消化していく段取りみたいなシーンばっかりで粗野だ。
1話に一つでいいから心に寄り添う丁寧さを織り込んであればいいのに残念。
(まぁ「GATE」の500倍くらいはましなんだけど)
華さんとやだもーさんが、みほの家名とか関係なく友達になってくれた、
初めての体験の嬉しさとか充実とか、そういう感じを、もう少し掘り下げてあれば、
1話はもっとストンと、戦車道を履修する決意にいくのに、
そこの内面へ触れるシーンが弱すぎ。1分あればできることなのに。
みほも戦車道から逃げるだけじゃなくて、
もっと自分への不信を抱えていないと。
自分の判断で動いた結果が、トーナメントの敗北であり、
それを肉親から全否定されているのだから。
その再生があってこそ、
最終回で「自分の戦車道を見つけた」と姉に言えるようになるのにな。
腹蔵のない友達ができることって、
自己肯定ができる救いのようなもの。
だからこそ1話はその1歩を丁寧に描けばいいのに、弱いのが残念。
1話に求められる情報や設定説明みたいなのは理解もするが、
だからこそ有効にシーンなりを構成して欲しい。
例えば、自室でみほがぬいぐるみを抱いて
「友達できた」って一人嬉しそうにする20秒だけでもあれば、全然変わってくる。
でもそうシーンは無く、ギャグとか無駄な動きに配分してる。
シリーズ後半は好き。(よしぞうおねえさま監修のアンツィオ戦OVAは素晴らしい)。
ただやはり好みのドラマ構成がされているわけではない。
戦車道という存在が他校から、そして経験が、
大洗の生徒達に何を与えるのかという部分も何も無いので。
そういえば大使・杉山Pとお会いした時に
ガルパンでなにかお仕事頼むかもと言われたけれど、
果たしてそれは実現するのだろうか。

ネットで読んだこの記事
「私は子どもが嫌いだ」http://allabout.co.jp/newsdig/c/67437
小松左京の「復活の日」とか知っていると、
種としての存在を維持するという喫緊の問題への対応が迫られたら、
この記事の吹聴する産む自由はどうなるとか、
少子化日本を見て考えるのだけど、
その前に、「子供達を責めないで」がスネークマンショーからってところで間違ってるよこれ。
事情があって産まない産めないは軽視して良いものでは当然ない。
でも人口問題は経済問題であり、国の存在の根幹であり、
社会生活の維持に不可欠な要素だ。
少子化の数字遊びで**年には日本人が0という試算があるけど、
産まないことが「非国民」扱いされる時代が来ないとはいえない。
産むことへ今、どう社会が舵取りするのか。
[人それぞれの考え方を主張できる(違いを認め合える)成熟した世の中になるのは、まだまだ先なのかな]って、
少子化の深刻に進行する世の中で逆に傾きかねないという状況に
まったく無自覚な能天気な記事すぎる。
論点の方向付けが安易なお定まりで、視野がお気軽過ぎる。
昼にスーパーで買い物をすると、この下町エリアの老人の多さに圧倒される。
そして皆、とても動きが遅く、ブレと無駄が多い、
簡単な計算を含め頭の回転が鈍い、
周囲への観察力が低下して、自分の事しか目に入らない。
赤瀬川原平「老人力」の様に逆手にとって楽しむ生き方もあろうが、
この沈滞と喪失に満ち、活力なき社会が日本を覆うのだ。
(下町だけなく、限界集落ではもう重い現実だ)
全ての老人が、こうした老人臭を放ち、恍惚とした表情で
視界1mの空間に生きているわけではないだろうが、
若年層、壮年のいない社会とは、
物凄い喪失感を伴う、未来のないものだという恐怖感を、
もっと人は触れてみないといけないのかも。(特にこの記者は)
これは領土や経済といった外向けの脅威論に隠された、紛れもない国の危機だ。

黒い森雪はやめてという声があるけど、
女性らしい女性の黒さって、もう完全に愛憎と怨念と妄想にまみれたナルシズムであって、
純文学的なほど恐ろしい。
文学的でも、男性からは恐怖だし、
人間としてどうよ?と思う位に暗黒。
(白馬の王子が来ないと呪いながら待っている魔女みたいな凄み)
女性の多い職場で男性が未婚になっちゃうのもこれに触れちゃうからかもしれないな。
そんな森雪にはしないよ!

以前に、ヤマトのコミックの帯への推薦コメントを誰にしようかと、担当編集に相談されたとき、
自民の石破さんと、民主の枝野さんなら、人脈あるよって言ったら、
青い顔して拒否られたのを思い出した。連名とか面白いのになー。
亡くなった中里融司さんと最後に会ったのは、
原作をされたコミックの帯に石破さんの推薦貰ったって、
にこにこ新刊を見せてくれた、浅草での漫画家の原画展だった。
(あの場で、環のんちゃんは今の嫁さんに出会ったんだっけ。懐かしいな)
石破さんはヤマト好きで有名だし。
枝野さんは漫画の表現規制反対で尽力してくれたのと、
僕の経営していた会社が選挙区内だったこともあり、
以前はよく工場に顔を出してくれていた。
漫画の編集者って、一般誌などと違って、
著名人の方々への取材申し込みや取材経験がないのか、結構臆することが多い。
僕は業界誌の編集者だったので、当たり前の仕事だったのだけど。
そして結局、帯のコメントは業界内の人になって、新房監督に。
しかも推薦文を取材で取ってこないという名前貸しだけの仕事。
理解できない…。
ということで「宇宙戦艦ヤマト2199」コミック第7巻は
当初予定から10月10日の発売日に変更になりました。
出版社の営業戦略だそうです。
本当は9月末の発売日に合わせて
大阪での「ヤマト講座」をセッティングしていただいたのだけど
見事に瓦解w
ともあれ、楽しい時間になればと
ハリセンの購入も検討しています。
今日あたりからチケットも販売開始らしいです。http://homepage2.nifty.com/myou/yamatoKOUZA/
まだネタは仕込んでいませんが、頑張ります。
講座は9月27日です。

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2015年7月15日 (水)

冥王星といえば

なんだかディズニーの犬キャラが見えるなんのとふざけた話が聞こえてくるけれど、
ご冗談でしょう。
ヤマトファン的にはシュルツつながりで、当然こう見えるはずです。

Pluto1
変わろう変えようとする時に、
変化を好まず消極や不支持にまわる人が必ず出る。
でもそこで大切なのは、議論の中身を考え続ける場所に心を置くこと。
そして絡まった糸をほどくこと。
理念、手段、そして相手への信用。
例えばこの3つを整理してそれぞれ考えるだけで、未来はわりと簡単に見通せてくるはず。
見通せたら判断する。行動する。
怖くはない。普段からできているはずのこと。
そういう単位に問題を照らすだけ。

今日は某の法案がバタバタ動いたわけだけれど、
理念に関してはじっくり議論を深めていくことで、必要な理解を得られるはず。
だけど手段に関しては、身内が呼んだ憲法学者にさえNOを言われている。
どんなに信じる理念が正しくても、独善に酔って手段を選ばなくなれば、
それはカルトであり、「悪」だ。
そして浅ましい欲望と己の権勢に酔ったナルシストほど気持ち悪く、信用できない者はいない。
そういう愚かな王は国を滅ぼす。


うがっ、いかん。それより目の前の〆切がっ!
https://gyazo.com/345440f2acc84ce61aa92e1419262de3

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2015年7月 7日 (火)

雑記 5回目にゃんぱすー

【描くこと観ること聴くことのあれこれ】

雲とか岩とか黙々と描いていると、
自分が理屈の伴わないパターンを繰り返していることに気づいたりする。
恐ろしいこと。
描く線や形に雲の息吹や岩の想いをイメージしていないと
雲は雲に見えず、岩は岩にならない。
無意識のルーチン化に抗わなければ、絵はどんどん腐って、
安易で怠惰な汚らしい手癖がのたうつ塊になる。
人物や機械ではなく、シンプルな雲や岩だからこそ、手癖の支配下にある自分に気づきやすい。
そういう表層のパターンを否定して、
もっとその先にある雲を雲たらしめるもの、岩がその形になった意味を知り、
そこから描かないと、支配しようとする力にからめ採られてしまう。
そしてそれは人物や機械にも確実に忍び寄っている。

二次創作同人誌で生計を立てるってことは、
闇市でパチモン売って生活しているようなものだよなぁ。
官憲が見逃してくれてるだけで、真っ黒。
まだ、買う方がパチモンだと知ってる了解の上にあるとしても、
仲間内のお楽しみの範囲にとどめておくほうがいいよね。
法に裁かれ失ったときに痛みも大きいし、人生が破壊されるよ。
僕は欧米型の著作権主張と管理による利権の発想は正直好みではない。漫画家だけどね。
先人や崇敬する作品の模倣や模写から学び、市場を押し広げる
緩やかな東洋型の思想はもっと許されていいと思う。
ただ現在の法制下で、「同人専業作家」なる人が
自分が好きな絵を描くとはいえ、
「闇商売で生活をする犯罪者」である意識と覚悟があるのかなと思う。
偽ブランドや、違法薬物売って逮捕されてる映像がTVに映る極悪人と見える彼らと、
自分はまったく同じなんだっていう自覚。
ヤクザ商売で生きていくという覚悟があるのかということ。
「ラブライブ!」の缶バッチの偽物を密造して販売して逮捕された男のニュースを見かけたけれど、
同人グッズと何がどう違うのかなとふと思うのですよ。

女性のヤマトファンは、どうして玲ちゃんをそんなに嫌がるのかなぁ。
漫画としてキャラを生かそうと試行錯誤を重ねて動かしてるのに、
女性の漫画家さんがヤマト講座の僕の発言にちなんで、玲ちゃんを評して
「本編に関係ないし面白くもないのでいらない」とか、言っていたと人伝えに知らされた。
同じ漫画家として作品を描く立場でどうしてそんな言葉を口にできるのだろう。
人物を出した以上はその存在を活かし、ちゃんと描く努力をするのが基本のはず。
コミカライズは自分の創作ではなく、与えられた条件として人物はそこに存在する。
だからこそ尚更に大切に、そして魅力あるものにしていくことが必定。
古代と森雪の結論が物語として見えていても、
その紆余曲折が楽しめずにストレスに感じるなら、
それは心の老化なんだけどな。
本編に関係・貢献するように描いてこそ漫画家だし、
結論という筋だけではなく、紆余曲折のドラマという血肉があってこその物語ではないのかな。
同業の漫画家のそういう努力にどうしてそんな冷たい言葉がかけられるのか。
心が漫画家じゃないのかな。自分の好きなキャラしか興味ないファン心理なんだろうか。
その先鋭化した冷淡さは何なんだろう。
ファンって狂うって意味もあるので、
楽しむ中である程度踏み外した言動は、笑って許容できるけれど、同業者は…。
また他に、早く篠原とくっつけちゃえという声も聞こえてくるけど、
思い通りにいかないと、いきなり髪を切ったり、ロッカー蹴飛ばしたり、
飛行機をかっぱらっちゃうような
あんな直情的で面倒くさい性格を、女性慣れした篠原が近寄るわけないじゃん。
(ああいうタイプは2199古代君みたいなのが被害者になるのだよw)
僕が玲ちゃん贔屓だと思っている人も不思議。
僕は小学生の頃から森雪一筋なのだ。

この数日、社長時代のあれこれを振り返る機会が続いてて思ったのだけど、
2199でのデスラー総統の心情ってものは、
代替わりした後継社長を経験した自分からは、その心中に重なる所が多い。
ファンは、ご乱心とか女にかまけて云々言うけど、
そういうことじゃないんだよってのを、漫画ではどう伝えるかを悩むのだ。
15話の対ドメル戦って、
幕僚団最後に登場だから、ちょっともったいない。
戦術戦略はよく分からないけど、
演出の呼吸として違う出番を組んでみたいなと、思案中。
アニメと漫画って、やはり演出とか物語の組みの発想が異なるなぁって、
この仕事してると凄く思う。
よく原作漫画そのまんまっていうアニメ作品があるけど、
原作ファンがそれを望んでも、それはナカナカ難しいことなのだ。

「のんのんびより」を見てると、
子供の頃に「自分語」を喋っていた子を思い出すのん。
とても利発な子で、うちの地元では珍しく大学へ進学して、
仙台の高校の先生になって、今は北海道の牧場の嫁なのん。
「おったん」元気かなぁ。

「響け!ユーフォニアム」最終回、楽しかった。
構成の妙というより、どこかで自分が体感する、体感したかもしれない、
焦燥や緊張、ときめきや歓喜といった感情の空気感を
シーンとしてそれぞれ「感じる」ことのできる間をもって描いてあったから。
それは脚本では埋められず、石原+山田の演出組の個性が出たところなのかもしれない。
僕は山田尚子演出は、人間理解の浅さから大人が描けないという評価を持っているけれど、
同時に奇麗な空気感のあるシーンを作れる人だとは思っている。
それが今回は演出補助としての参加で活かされてる。
ちなみに京アニお家芸の山田EDは、やっぱり嫌い。いい加減、「けいおん!」のパターンは止めよう。
ユーフォはNHKで再放送すればまた違った力を得るかも。
深夜ではない「全国」の切符を。
ビデオソフトやCDなどの収益に頼るアニメの資本体制が強すぎると、
作品に見合った場所という展開の自由度は限定されていくのかもしれない。
吹奏楽とか普段からちゃんとフォローしているのはNHKだ。
そういうネットワークをしっかり活かせると思うのだが。

「シドニアの騎士」2期は楽しく観ていたんだけど、
EDの歌がどうにも「ビジュアル系バンドの実は歌謡曲なロック」みたいな
ヘッポコな印象があって興醒めする。
っていうか、あんまりにもダサいので、狙ったお笑いにしか聞こえない。
狙った先に何を見ているんだ…。

音楽や映画、小説や漫画などの過去の作品に触れるとき、
今のこの漫画いらないじゃん!とか、
この映画リメイクする意味があるの?
っていう思いをすることが多々ある(営業的な必要じゃなくて、作品性として)。
旧い作品で十二分に足りているのに触れる機会が作られないことも嘆かわしいが、
CG映画の「ガンバ」どうなのよ?

FMで久々にホルストの「惑星」をフルで聴いたけど、
やっぱり人気あるのは肯ける。
組曲としての構成は映画のようなドラマ性を有しているし、
旋律各々も個性的。硬軟併せ持った編曲の妙。
神々の名前を持ちながら同時に科学としての天文の近代性を抱えて、
クラシックの歴史を踏まえて尚且つ20世紀音楽の未来を示している。
実際、映画音楽への影響はとても強い。
ジョン・ウイリアムスやビル・コンティ、冬木透さんの楽曲にはその色が感じられる。
まさしく未来を開き、押し広げた1曲であるんだろうな。
劇伴は無言劇としてのバレエ音楽の影響がもちろんあってのことだけど
(宮川さんはチャイコフスキーっぽいし)、
「惑星」はその殻も破ってる。
約50年前の録音だったけど、とても艶があって、いい演奏だった。
1960年代からの再評価の中での録音はまさに旬だったのかも。
当時発見されていなかった冥王星がないことも、
今の準惑星という結果からも予言的で面白い。
冥王星探査機ニューホライズンズの観測も楽しみ。

CDを買ってみてビックリした。
カマシ・ワシントン、凄いな。
参加50名超え、収録172分のデビューアルバムが化け物みたいな出来。
洪水の中にいるみたいだ。

ミュージシャンが32名にコーラスが20名って、まるで映画のスコアだ。
最近、シンプルな構成のピアノ曲に傾注してたけど目が覚めた。
これがオイラじゃん!
ロダンの「考える人」を見てその気になってた。
違う!「地獄の門」を見なきゃ駄目なんだよ。

7月7日が「ポニーテールの日」らしい。
ポニテ芸人の小林治さんが嬉々としている様子が目に浮かぶ。
今度のヤマト講座は原稿の執筆で行けないけれど、
vol.10の景品に提供した色紙の線画に彩色をしたので、
それをアップ。
Photo

さぁネーム、ネーム…。

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2015年7月 1日 (水)

雑記 4回目かも

【働くとか、働くときに考えたりしていること】

ネットのニュースを見てると、
外国人旅行者の「日本に来たらこんなに素晴らしかった、驚いた。ニッポンいい国」的な
いわゆる自画自賛記事が多くて気持ち悪い。
安易にナルシズムやナショナリズムを刺激してくれるけど、
悦に入っている人の大勢は自分ではそのどれも何もしていないことに気づいてないから。
自分で行動した人だけが、その言葉の対象であり、その賞賛を受けるべき。
それなのに、ネットのモニターごしに我が事のように誇るのは間違っている。
はたから見ると実に滑稽で恥ずかしい姿ではないか。
ただ僕がそうした記事で一つだけ嬉しいのは、
そういう善行をする日本人に今からでもすぐになれることだ。

自分に都合のいいことばかり、
調子よく採用しているような生き方をしてると、成長はない。
昨今のギリシャを見てると、国民は都合のいいことを言ってる政権を選択して、
自業自得の目にあう。
だけどそういう人間は、結局その後も都合のいいことしか聞かないので、
自業自得の意識も、反省も教訓も全然ないってことが恐ろしい。
ギリシャあたりは、不況で親族が自殺でもしない限りは、
何百年も続けているように、まったりと長い昼飯食って昼寝してるんだろうなと思う。
そういうのはどこか田舎に引っ込んでいてくれれば害はないのに、
どうして粉飾会計までしてEU加盟をしたのか。
勤勉な隣国のトルコと仲が悪いのも、なんだか頷ける。
自民党の自分に都合のいい増長と傲慢もたいがいだ。
野に下っているときの教訓ってのはどこの政党も大切にしないと、
つつしみのない馬鹿をさらすだけ。
人間は都合の悪い批判に身をさらして考えることで成長が促される。
教訓とは、そうしたブレーキがあるからこそ教訓で、
そういうものを採用しないという主義は
「ご都合主義」と言う。

「何を言っているかわからない」ってアニメのタイトルの一部じゃなくて、
僕が仕事でよく言う台詞。
これは勤め人時代から僕が励行していること。
人によっては説明しているつもりで、全然他人に通じる言葉になってない場合がある。
それを理解してあげたポーズをとると、
仕事では大惨事になる事が、えてして理解できない説明をする人に限って起こるので、
とにかく聞き返す。
失礼な奴とか、不愉快とか思われても別に構わない。仕事なんだから。
そういうコミュ不全から失敗やミスを犯して大損害より余程いい。
時々は「俺の言葉が分らないオマエは相当の馬鹿だな」って目で見てくれる人もいるけど、
構わない。馬鹿で結構。
それでも僕は仕事をちゃんとしたいので。
っていうかそうハッキリと「意味不明だよ」と伝えることで、
人によっては説明の方法を改めてくれ、理解に向けて歩み寄りができる。
何度繰り返しても全然意味不明な人もいて、それは本当に苦労する。
同じ日本語を使っているのに、全然意味が分らない。
ロジックが破綻してたり、ボキャブラリが貧相だったり、
自分勝手なロジックを一人で勝手にせっかちにどんどん納得して、
周囲の説明や対話を全然聞いてないで思考が閉じていく人もいる。
そういう人は同じ間違いや破綻を恐らく一生繰りかえす。
まぁ色々あるのだけど、
そういうのを超えて、これはもう出会いの悲劇なんじゃないかと思われるほど、
人間の相性が悪い場合もある。
ケンカするわけではなく、人間性の断絶が存在するのだ。
そこまでいくと、もうそれは珍妙なるおかしみが生まれるけど、
仕事では楽しんでいられない。そこが悩ましい。
どちらかが間違っているとかではなく、
同じことをしようとしてるのに、全然噛み合わない。
例えば請求書を作るって作業で、同じ金額を請求するのに、
片方はWordで作ってて片方はExcelで作ってて、工程がまったく違うため会話が成立しないような。
人間の思考方法が、同じ土俵に乗ってない。
なので、とにかくまずはハッキリと言うのだ。
「何を言っているかわからない」と。

請けた仕事を能力不足で完遂できず、
ゴメンナサイ。ワカリマセンで済むと思ってるのはどうかしてる。
職業人ならそれを補う手当てを何とかしてからの謝罪だろう。
ただ謝っただけで免れると考え、それでやり過ごしているのは最低最悪だ。
失った時間、資本、手当てに使う他者の労力を全部軽視し、馬鹿にしてる。
何年その仕事をしてきたのだろうと思う。バイト以下だ。血反吐をはいてこい。
そういう馬鹿なOLとか、勤め人の時にけっこう見てきた。
女性の就労問題を扱っている人が、
「地位向上、待遇改善、キャリア形成に頑張っている働く女性の最大の敵は女性です」
って言っていたのを思い出す。
若い男性にも多いけど、仕事の意味や向かい合い方が狭く小さくて、
発想が子供の延長で止まったままなのだ。
当然、オイラも20代ではそういう器だったのだけど、
30過ぎて働き盛りってのは、
そこから抜け出て四方を俯瞰をしながら仕事をできるってことで、
つまり30過ぎてそれなら、ボケナスってことなのだ。
ただ、派遣社員や単純作業の専門など、
人材を伸ばせない就労のスタイルが原因もある。
(それが若年層貧困の遠因でもある)
本人の無能って場合ももちろんある。
ただ誰のせいにせよ、
今、この時ってときに使い物にならないボケナスは、
「最悪の存在」ってのは悲しいけど普遍だ。

目先のことを場当たり的にこなしていることは
成功の合成をしてるだけで、
大きな理念や美学がない。
ペン1本、包丁1本あればできることを、
なんだか100円ショップの便利グッズを山のようにして、
「自分デキル子」みたいな自覚を持つのは、
着膨れし、ごてごて荷物ぶら下げて出かけるような、
何だかもうとても美しくない姿であることを自覚しないと。

勤め人時代に、オイラに数字や統計を解釈することを教えてくれた方の訃報が入った。
朗らかで楽しい人だった。
とても淋しい。
労働統計研究所所長・ブロンソン丸山さん、ありがとうございました。
考えてみると僕にとっての「先生」って、
学校でも仕事でも不思議に知識や技術などテクニカルなものを教えるのではなく、
感じること考えることを教えてくれる人ばかりだった。
イメージすること、大きな流れを意識することが大切だと、
着眼や想像のきっかけを示唆し機会を与えてくれた。
考えること想像すること調べること試してみることをする前に、
指示を求めたり、解答を尋ねたりすることは、
自分の成長を妨げる人生で最悪の甘えだと思うし、
自らの考えや創造したものを他者とぶつけ合って切磋してこそ飛躍があるのに、
プライドが傷つくから嫌だと予め逃げをはるのも、
最低の愚考だと思う。自分を甘やかすのは危険だ。
学生ならいざしらず、仕事をする身になったとき、
それまでの人生で学んできた全部の感受性と知識と行動力半径をもってして
臨むのが基本であり、
他者とそれを殴り合うように揉みあって、そこからモノを作り上げて何ぼでしょう。
自分を根底から否定されて血を流して心痛めつけられるのは、当たり前のこと。
自営業はもちろん職業人はそういうもの。
僕は多くの先生から教わったものは、その戦う術と思っている。

フデタニンが
「実売数万数千でハガキの数も少ないアンケート順位発表を丸呑みに信じる編集者っているのでしょうか?」
ってTwitterで書いてたということを教えてもらったんだけど、
あるよ!
それはF書房のDAって雑誌だよ!
月に100枚程度しか返ってこないアンケート葉書を御神託みたいにね。
100枚とか統計的には実態をまるで表さない価値のない数字のランキングを根拠にして、
連載の継続とか、コミックス化の判断をしていて、
順位半分以下だとコミックスは無しとか平気で漫画家に言っていた(数年前までは)。
もう脳味噌どうかしてるっていうか、
誰か統計とかマーケティングの基礎を教えてあげてくれ。
ならばと、漫画家が自分で雑誌を大量に買って、
それを友人に配って葉書送るように依頼して、
連載の継続とコミックス化をプッシュするという、
100枚程度の数字ならではの票操作をしてしのごうという、
狐と狸の化かし合いみたいな愚かな展開まであった。
生活のかかった漫画家の気持ちも分るけど、どっちももうおかしいから!
というかこういう、珍妙極まりない状況を作っていたのは、
紛れもなく、編集部が数字を扱う勉強もせずに
アンケート葉書を妄信するルーチンを珍重していたからだ。
フデタニンの言うように数万数千の葉書なら統計的価値が十二分にあるけど、
その格好を猿真似しただけの浅い仕事は、本当に馬鹿らしいし、迷惑だ。

出版社が山のように毎月コミックスを発行するゆえに、
営業部署が1冊に手がける時間が減り、
漫画家自身が自作を宣伝プロデュースしていく必要が
でてきている状況にあるとは認識している。
僕は広告代理店でSPとかしていたのだけど、
心の伴わない薄っぺらな宣伝は嫌い。
漫画家が短絡で軽薄な宣伝屋になってどうする?
僕らの仕事は想いを届けることじゃないのかな。
漫画の中で語るべきことがある。それをまんま宣伝に乗せることは誤りだ。
では宣伝は発売や更新を告知する即物的な情報だけでいいのか?
そんなものは宣伝ではない。
だとしたら広告代理店とそのクリエイティブは存在価値が無い。
広く伝えていく宣伝には、技術技法とその前に、心を乗せていく理解と意気というものがある。
軽薄な言葉、薄い情報で宣伝とするのは、
そうした広告に集う人の心も仕事も軽んじ馬鹿にしているのと同じ。
そして受け取る読者も安く見ている。
自作を自ら宣伝プロデュースするならば、
そこを理解してその仕事を自分で行わないといけないこと。
心を言葉や広告という場に乗せて語っていかないといけない。
以前、漫画家の一部のグループが「編集者はいらない」と、
自分達で漫画雑誌・媒体を作っていけば、もっと自由に創造的に作品発表が出来るなどと言って、
編集の仕事を「原稿取りの御用聞き」程度にしか理解してなかったゆえに見事に失敗した。
宣伝を軽んじて、軽薄なものを送り出すのはやはり同じ失敗になるだろう。
広告も作品と同じだ。僕らは漫画家だ。
そこにちゃんと想いと技術を凝らして発信しないでどうするんだ。
安っぽい言葉を垂れ流して、自分のブランドが向上するのか?否!
その視点で見ると、よしぞうおねえさまのTwitterからリンクされたつぶやきは、
最上級の自己宣伝とプロデュースですの。https://twitter.com/yosizo
語るごとに深みと豊かさとお人柄が伝わり、そのご活動に興味が沸きますの。
Excelさんは真逆に振り切れてますが、あれも最高ですの。https://twitter.com/EXCEL__
人は狂気に魅入られますから。
でもそうやって自作を宣伝しようと努力するほど、
出版社の営業部から「何勝手なことしてんだ」という面子を潰された的に、
漫画家が嫌われていくという頓珍漢なジレンマが生まれていくのは、また別の話。
だったらちゃんと宣伝してくれよぅ!と思うのに、
彼らは以前と変わらないルーチン仕事をしていても給料が出る。
元社長としては、もう1歩踏み込んだ創意を持った仕事にして欲しい。

「これ売れないと次でない」は読者に向ける前に、
出版社が作家にまず向けてくる常套句。
そしてそれは角川あたりでは喫緊の現実。
そして物語の夢をむさぼる読者はそれを知らない。
「買ってくれないと、アナタのその楽しみの続きはない」
そんな脅迫めいた言葉を作家が口にするのは潔しとしない考えもあろう。
でもその乖離は埋めていかないと市場が滅びる。
作品でその実情を訴える必要はないが、
作品の外で広告という中では危機感の共有も必要かと思う。
ただ前述しているように、広告で作品や裏事情を伝えるにしても、
その方法や技術というものがある。
脅迫ではなく、危機感を作品の楽しさに併せて伝える能力はある。漫画家だし。
雑でもんきりな言葉ではなく、
作品と同じように伝え方に創意を凝らしていけば良いのだと思っている。
ヤマトの読者の皆さんは幸い、
「コレ、最後まで描けるんかいな!」という危うさを感じていただいているみたいで、
支えていただいてますがw
それでも、買ってくださいなお願い(脅迫)モードでの発信は必要かも。
僕の作品だけでなく業界はそういう状況なのだと。

今でも区の社長会の幹事をしている。
これまで見ていて思うのは、
人柄も誠実で、やる気も根性も事業のアイディアにも優れた起業家が、
ビジネスパートナーとのトラブルで破綻する。
事業は起こす事より、
お金や人を巻き込みながらきれいに回るように形に落とし込むことが一番難しい。
アイディアマンは意外にその固める資質が足りない。
そしてそういうアイディアマンは堅実な経営者や資本家には、
山師に見えてしまう(そういう山師もいる)。一途猛進で勢いがあれば尚更。
そして隙も多い。そうなると自然と堅実ではないパートーナー、
いい加減な会社や事業家しか相手にされず、
あげくネタや信頼や金をむしられて、事業が破綻する。そして繰り返す。
僕自身が8年間社長をやっていて、
経営者としての資質の何が足りないかを痛いほど分析しながら、
その越えられない壁に苦しみ続けた訳だけれど、
勢いのある起業家はそこを意識しない。それが強さでありながら、決定的な弱点。
事業の取引先やアイディアの受け皿の相手を探す前に、
自分の理解者であり弱点をカバーできる人材が一人でも内側に必要。
そういうチームが出来ない限り、事業を外にむかって動かすのは、控えるべき。
というか迷惑をかける人が増えて、自分を追いつめていき、悲劇しかない。
そして裏切り者だけ甘い汁を吸って逃げる。
中国の製造業と仕事している時、
そういう資質の足りない人が国の勢いだけで経営者をしているケースを多く見てきた。
彼らは欠けた資質を国の勢いで誤魔化していたけれど、
それでも、商売と交渉にしたたかで、強かった。そこが大陸的だなと思うところ。
普通の日本人はそこがのん気すぎる。
美徳ではあってもビジネスではマイナス。
とても珍妙かもしれないが、
僕は事務能力や企業体質の現代的見直しの視点を銀行などから高く評価されながら、
対人関係の資質のなさから経営者としては失格だったけれど、
唯一完璧に出来た仕事は会社を畳むことだった。
それは社員と取引先に誠実に限界まで迷惑を少なくという考えを理解し、
最後までつきあってくれた会計担当の女性がいたから。
亡父の代の古株ばかりだった中で、数少ない僕が採用した社員だったけど、
僕を信じてくれて、不安をこらえ、
会計という知識と能力から、僕の組んだ綱渡りのような事業閉鎖への計画遂行を支えてくれた。
僕から見れば、彼女が社員や取引先を救ったのだと思う。
内側のパートナーとはそういう人材ということ。
ちなみにそのあと、転職先を僕が探して、彼女は昨年そこを無事に定年退職。
今は郷里へ戻って暮らしている。

2014年の日本の国内家庭用ゲーム市場は、20年以上前の水準にまで縮小。
http://blog.livedoor.jp/geek/archives/51494028.html
ってあるけど、
僕の学生時代位から伸び始めて、漫画やアニメの多くの人材が流れた業界が、
後退局面を経てもう寿命を迎えようとしているのかも。
特に日本においては。スマホゲームみたいな短小軽薄な暇つぶしが主流で、
大きな予算を組んでがっちり作るようなゲームが細っていって、
人気タイトルの焼き直しばかりの臆病な保守主義に支配されてしまってるし、
ハードの更新に振り回され続けてて、
ユーザーやメーカーのゲームとの距離感がおかしくなってるような。
4000億円の市場って大きそうに見えるけど、
僕の経営していた町工場でさえ年商3億だったのだから、
大手のゲーム会社を除けば、数百社程度しか会社存在できないって状況は極めて少ない。
ちなみにパナソニック1社の年商は8兆円程度(グループ連結だろうけど)。
ゲーム業界が、どれだけ小さいか分るはず。
ハードのしばりやスマホゲームばかりの状況で、
業界を広げるような新しい優れたゲームも会社も新規参入できるのかな?
産業としては恐ろしいスピードで発展と縮小を駆け抜けて、
老後を迎えようとしているように見える。
ちゃんと予算をかけて、世界市場で商売する欧米企業が主体になって、
日本の大手はそこに密着し、
他はスマホゲームを作るマンション系のソフト会社的な所が、
安い予算でたたかれて生きてるような状態になってしまうのでは。
そんな二極化していくような気がする。
経営とか業界が若く新しいゆえに、
利潤の極大と製品のバランス、市場の育成とユーザーの育成など、
産業を育てそこなった印象がある。

この数日、友人の驕りと無知、無思慮と我欲にまみれた行状が多く聞こえてくる中、
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」がこの歳になって染み入ってくる。
どんな人に自分はなりたい?その問いかけを持たないと、または誤ると、
人は迷走していく。

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