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2016年2月28日 (日)

ものをかたる。

ずっと原稿を描いている。
絵ばかり描いていると、頭の中が絵の配線になってしまうので。
その混線をほどく意味で、日記の更新。
(というか月報…orz)
コミックス8巻の発売が3月末で発表になった。
でもまだその原稿を描いている。
去年の1月の6巻を上梓したときよりも酷い状況かもしれない。
もうずっと休みなく、精一杯仕事をしているけれど、
その1.5倍働けというようような、ノルマが貸される。
1日17時間働いているのだからそれを1.5倍すると25.5時間だ。
地球が巡る時間では足りない。寝る時間もない。
そういうノルマだ。
きっと普通の漫画家さんは、時間や能力に余力を残しているのだろう。
だから緊急時に20%増しで動くこともできよう。
でも僕は、ずっと全力なので、これ以上はできない。
出版社も担当もそれを理解してくれていないのかな。
これを続けたら多分もう死んじゃう。
もし突然僕が死んだりしたら、そういうことなのだと思って欲しい。

3月末の発刊するために、
また通常とは異なるシフトで描かされている。
ゆえにweb更新の頁数が少ないと批判されても、
80頁以上の脚本やネームを先に仕上げてから、
コミックスの台割を確定してなんて工程があるので、
いつものように時間が配分できなかったのだ。
でもこちらはずっと描いている。そのジレンマに苦しんでる。
普通にちゃんと描いているのだから、原稿が貯まれば本が出せるのに
読者に関係ない、決算月という事情で、無理をして、
命削ってるのに。
なので掲載頁が少ないと、あまり叱らないで欲しい。
ギブアップを唱える前に、担当氏から妙案が出された。
それで少し進行に出口が見えた。
楽ではないけれど、3月発売に間に合いそう。
頑張ろう。

Y43_39
一人机に向かって絵を描きながら、あれこれ思い巡らせる。
先のCOMITIAで、フデタニンの「漫画描いて欲しいなー」って発言に批判があったそうだ。
人は太古から物語を求めるものなのだと思っている。
世界の民話や叙事詩なんかみなそう。旧約聖書なんかまさにそれの集合だし。
漫画は絵物語ゆえに求めやすい。
イラストにも物語は感じさせる力があるけど、それを描くのも、
感じて想像して解釈する側も、やや大変。
物語の提供能力としては漫画は簡便であるし、特化されてもいるので、
人は漫画を求めやすいのではないのかな。
実際、同人誌即売会ではイラストだけの本より、
少しでも漫画が載っている本が手に取られるとよく聴く。
僕がイラスト本を手に取るときも、絵が奇麗可愛いだけじゃなくて、
物語性を感じるかが大きい。
「この絵で漫画が読みたいな」ってのは、
人の素直な気持ちの流れの一つであると思う。
フデタニンの発言趣旨はさておき、
それが絵に込められた物語性から触発されたものか、
キャラ絵だけの適当な絵の物足りなさからかは、観る者の心の問題w
イラスト描く人は卑下することなんてないし、
それこそ前者の触発を与える絵が描ける様、励むだけではないかな。
友人のイラストレーターの時代ミツルさんが少し前に、
1本の線でも人の心に響くような力を与えたいって意味の言葉を記していたけど、
イラストを生業にしている友人達は皆、そういう気概で臨んでると思う。
だって、彼らの絵を見れば、心と物語を感じるもの。
僕もやはり物語に惹かれる者の一人だ。
物語の存在の意義も意味も大切に考えている。
現代に世に出る物語において主人公に成長は必要ないと喝破する風潮もある。
それは成長を望まない相手に対して自慰のネタを提供している
自分の存在を擁護したい気持ちのすり替えだろう。
物語が人や心の教訓を持って追体験をもたらす機能は失われてはいないし、
それを受け取り、必要とする人は変わらずにいる。
喜びや不幸、狂気や悪にさらされたとき、それは心と行動の支えになる。
震災の時に、歌と言う物語、漫画や文学という物語が、人に必要とされたように。
逆に成長を不必要とする存在や主張こそが、
物語から存在の意味を奪っていく要素になっているように見える。
物語を消費される暇つぶしに貶めているように感じる。

イラストを軽く片手間の楽しみでやっているならそれはそれで良いと思う。
趣味とはそういうものだ。
もし「漫画ではなくイラストであること」に負い目があるなら、
自分が描くことにどう根性入れるかだけじゃないのかな。
そもそもフデタニンはCOMITIAの代表でもなんでもなくて、
中村さんの発言じゃない。
COMITIAの理念は中村さんとそのスタッフで決めること。
自分の惑いや負い目を他人に転嫁して逃げるのはやめよう。
今の自分は全て自分が悪く。全部自分の責任なのだ。
自己肯定を前提する甘えはいらない。
自己否定から賽の河原で積み上げる石の努力を続けるだけではないのかな。

ただ、この絵で漫画を読みたいなという気持ちがあるとしても、
イラスト描くという能力と漫画を描く能力は違う。
それは絵の技術だけでなく、制作の体制も違うし、
描く人のマインドも異なる(負う苦労も異なる)。
絵描きを生業にする者の感覚としては、
イラスト⇒漫画、漫画⇒イラスト でも
「簡単に言ってくれるな」って感じのはず。
やすやすとできる人は、そりゃ特別に優秀なだけ。
1枚絵を描くことに慣れた人を漫画へ誘引するのであれば、
その技術と心へいかに橋を架けていけるかが、肝要になるのではないかな。
そこそが、フデタニンが編集者として力をつくすところだと思う。
人の前で発言・発表をする難しさというのは、社長を経験して痛いほど感じてきた。
思ったように伝わらないし、失敗もしてきた。
なのに漫画家なんて仕事についているけど、
顔をさらさずに、じっくり考えて著していくこの仕事はまだ自分には向いている。

2016冬ワンダーフェスティバル(WF)の公式ガイドブックの表紙が破廉恥だって問題があった。
国道12号さんの「ワンダちゃんNEXTDOORプロジェクト」イラストだ。
http://wwwanime.jp/wp/wp-content/uploads/2016/01/img_86777_71.jpg
主催者が模型文化をどう外へ向けて作って発信していくかっていう意識ではなく、
ウチ向けな志向で内輪ウケとスラングで喜んで満足してる、セクト主義の独りよがりに近い。
内側の常識が外では非常識。価値も力もない。
その架け橋を作ることが主催者の仕事であるべきだろうに。
水玉螢之丞さんのこれまでの仕事が台無し。
これはでも、彼女の女性らしい線引きのある絵のモラルに対して、
ある種のフラストレーションの発露になった結果のようにも見える。
自分達のもっと下品な部分と軸をすり合わせる行動。
その自己同一性は大切だけど、お祭り気分で調子に乗りすぎたのだろう。
あずまさんの「ワンダちゃん&リセットちゃん」の公式イラストを使えば良いだけだったのでは。
1日版権とか人様のものをお預かりしているスタイルの場なのだから、
マーケットの無法地帯、ウチ向けの祭という側面の他に、
展示会としての立場や発信を、どう理念づけし、打ち出していくかが必要。
ガイドブックやカタログの表紙って雑誌と同じく、
その理念を映す顔であり看板だって意識がないのかな。
あれじゃロリコンエロ雑誌だよ。
エロ雑誌がいけないのではなく、全方位じゃないだろうし、
それを公の顔にしていいのかという話。

ニュースで記者会見の様子が映し出されているのを見て思うのだけど、
記者連中が話す内容を端末に入力することに集中してて、
誰も会見する人間の顔を見てない。
TVが顔を映すからいいのではなく、
記者は相手の表情や空気から発言のその先まで感じて書かないといけないのに、
なんだこれは。
これなら記者会見は要らない。
こういう会見が当たり前になると、例えば政治家は記者を怖がらず、相手にしなくなるし、
見解を文章でネット公開だけで済ませるようにまでなるだろう。
また、誰に向かって喋っているのかも曖昧な発言ばかりで、
やり取りの緊張感も失われる。
記者は場と行動の意味を考えることなく、早く仕事を済ませれば良いってもんじゃない。
記者クラブっていう慣習と組織の馴れ合いが、こういう堕落と勘違いを誘引する。
記者会見は発言者に怖がられる場であり、
また逆に発言者はそれを更に利用して、自分の主張を最大限に活かし広める機会のはず。
力を失わせては双方に意味がない。
というか意味がなくなって、自分勝手にやりたい不誠実な人には好ましいのだろうけど。
ジャーナリズムの力は衰えてしまったのかな。
広告代理店を辞めて、業界誌の編集者になってしばらくして、
自分のスタンスと先輩の差を考えてみた。
先輩達は学生運動の中にあった世代なので、ものを記して公に発表するということに、
ジャーナリズムの視座と自覚を強く持っていた。
僕は広告屋出身なので、宣伝と効果の視点から考えることが大きいので、
その存在は相当異質だった。
仕事で扱う文章は、伝える対象に応じて、
演出や文体、けれんみなどを変えて作るように自分はしていたけれど、
先輩は愚直で通り一遍等が正しい姿で、対象読者層のモデルがどうとかではない。
役所の広報なんかに似た脱脂粉乳みたいなのや、
感情過多な檄文みたいなものまで。ある意味で素の自分のままだった。
古い業界とか業界誌は得てしてそんなもので、宣伝やデザインの発想に乏しい。
そんな時代だった。
そう文章にまみれた仕事してきて感じたのは、汚い言葉づかい、他者を卑下し排撃する文章を書いてると、
心がその言葉や文意と同じように薄汚く、攻める相手と同質になってしまうこと。
言霊ではないが言葉の力は意外に大きい。
漫画を描きながら、自分もその顔や演技を自然とトレスしていたりする。
なので漫画家は表情が豊かなんだけど、
文章も同じで、汚い言葉で呪いのように文章書いてると、
本当に汚らしい悪者の顔になってしまう。演技ならいいけど、本気なら惨めな姿だ。
ネットスラングの特に侮蔑の言葉って、
広く外へ理解と同調を求める誠実さと勇気ではなく、
矮小化した僻地グループで「あるある」という気持ちよさで満足しあう
集団マスターベーションにしか見えなくて、
それをネットで全世界公開って…。
そういう語調の人の言葉は、もうそれだけでどんなに立派な主張でも、人品を疑われ、価値を減じてしまう。
市井の人から見れば、汚い言葉を使う怖い人の暴論にしか過ぎない。
少し知ってる人から見れば、土俵の外から野次る負け犬の遠吠えか野党議員のちゃちな姿と同じ。
スラングはもちろん存在していいものだ。
そしてSNSの文字数の関係で有効なのは在りとしても、
やはり限られた面子に向けての了解であるからこそ「スラング」であり、
外向けではなく、限られた場のものだ。その自覚が必要。
そして会話ではなくPCのモニターしか正面にないネットスラングだからこそ
気づきづらいだろうが、
侮蔑のスラングを悦に入って入力する自分の顔がどんな表情か、
意識してもいいと思う。

僕は自分のヤマトの漫画の中で「ガミ公」という蔑称を用いていない。
戦時下に置いてその手の侮蔑があるものだし、自然な心の発露だと思う。
だけど、ヤマトのクルーにそうした言葉を僕は求めていない。
漫画の台詞は、普通の会話に比べてとても紙面の字数が限られる。
その限られた中で、僕はもっと別のことを語りたいのだと思う。
醜い言葉が人を中傷しやすい時代だからこそ、
僕は使いたくないのだと思う。
伝わりやすい言葉で、ものを語っていきたい。

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