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2016年7月

2016年7月31日 (日)

シン・ゴジラは凄い。

原稿はずっと描いているのだけれど、
7月更新は諸事情で見送り。
世の中なかなか難しい。
新作アニメのお手伝いや、夏コミに向けた原稿の依頼があって、
それでもやっぱり忙しい。

「シン・ゴジラ」初日の1回目8:20からの上映を近所の映画館で観てきた。

梅雨明け間もない朝の、水と草の匂いを嗅ぎながら、橋の上を自転車で走っていると、
なんだか、中高生の頃にアニメ映画の初日に駆けつけるため、
夜明け前に田んぼの畦道を縫いながら自転車で町の映画館へ急いだのを思い出す。
夏休みとはいえ、都心部から離れた劇場の平日朝の1回目。
客入りは5割ほどか。
事前の宣伝が十分かつ的確だったとは自分は思えなかったので、
大きな動員力にはまだ結びつかないのかなと思う。
本編映像の露出は予告編を含め極力制限されていた中で、
過去のゴジラ作品にまつわる書籍やDVDなどのパッケージ展開、
恐らく実際の映画とは印象を異にするような、
企業や人気キャラクターとのやや無理やりで軽いコラボ企画、
それらは本編への期待を逆にガス抜きしてるんじゃないかとさえ思えていた。
自分は元々、広告代理店に在籍していたので、
こういう数値と創意と好意に基づいたblogの提言を読むにつけ、
http://ocnis.petit.cc/lime/2592769
(ここの論考はヤマトのムーブメントにも照らしていく必要がある)
[今、日本で大ヒットする映画はほぼ2種類。「ファミリー映画」か「デート映画」]と
断言される中で、
恐らくそこには当てはまらないであろう「シン・ゴジラ」に
東宝の宣伝部は迷走しているのではないかなと心配していた。
二大客層に特化された宣伝手法しか心得ていないのであれば、
作品と客層との違和感をどうしていくのか。
実際、ヤマト2199でも、若年層へのアプローチばかりに慣れた角川は、
POSで明らかになった40-50代を中心とした購買層に
どう売っていいのか分からない状態だったから。
「シン・ゴジラ」は2つのグループ以外の客層を目覚めさせ、
なおかつ、大きな分母にコミットできるのか。
初日の劇場の印象はまだその大きな層を動かせてはいない姿に見えた。

そして上映。

凄かった。
圧倒的だった。
こういうゴジラをずっと待ってた。

僕は80年代後半にゴジラの漫画を描いたことがある。
それは84年に再開になった「ゴジラ」以降の作品への、自分の中のくすぶりだった。
84はシリアスを装いながら、当時の軽い世相のギャグを頻繁に入れた
お祭り映画にしか過ぎなかった。
vsビオランテはSFに走ることで、広く人々の心の中にある
時代の不安や畏怖といった影のイメージと重なり語る術を手放してしまった。
vsキングギドラに至って、流行りものの猿真似と子供騙しに再び回帰した。
興行成績は維持したかもしれないが、
僕には、毎回期待を裏切られ残念なものを観て悔しがるイベントに成り果てていった。
SFに限らず欧米の映画がミニュチュアも撮影も洗練されて、
空想とリアリティの追求を重ねていくのに、
「ゴジラ様の顔に影が落ちてどうする」的な旧時代の撮影や照明がまかり通る映像と、
貧相なストーリーに悔しい思いをするばかり。
自虐的だけど、それでももしかしたらと思って劇場へ足を運んでいたのだ。
その辛酸は平成ガメラでようやっと癒されることになる。
だけど、80年代そしてバブル景気を経た社会の軽さと狂騒に
自分との違和感を抱え、その隔たりを埋めてくれるものは
人類と地球の庇護者ガメラではなりえなかった。
ずっと、破壊の権化であるゴジラを待っていた。
「破壊と再生」は自分の中で大きなテーマになる。
不謹慎のそしりを覚悟で言うなら、
震災や台風といった大きな災害などで、心も物も破壊された先にある人の心に僕は興味がある。
安寧とルーチンの庇護を失い、生きるために誰もが感じ考え判断しなければならない、
そういう状況の中で、これまでの社会や自分の誤りや怠惰に
人は目覚めるのではないかと。
95年の阪神淡路ではボランティアとして神戸に入り、
11年の3.11では東京ですら被災地の外延部となり、破壊の現場を体感する中で、
希望の萌芽を確認した部分と、
絶望的に変らない人の業も見てきた。
前者は災害ボランティアに象徴されるような、支えあう人とその組織の成長。
後者は、特に近年のネット上での独善に酔った意図的で悪意と恣意に満ちたデマの流布や、
狼狽のあげく思考を停止して長きものに巻かれる姿勢、
失うことの恐怖から肩書きや思い出に固執する心だった。
「シン・ゴジラ」ではゴジラが圧倒的な破壊者として首都東京に君臨する。
人は更なる破壊の力でそれを壊滅せんとする。
そうした破壊とそれに抗う現場を描く映像を見ながら、僕が思い出したのは、
赤瀬川原平の著作「老人力」だった。
老化という衰えを、「老人力がついてきた!」と視座を転換し、
ネガティブに言われる老いの要素をプラス思考で飄々と楽しみ、
ぎゅうぎゅうに縛られた現役社会すらも達観する。
ゴジラでは、大人の事情や組織のしがらみという
社会に出れば否応なしに直面するその重い鬱屈した存在を、
したたかにしなやかに利用して、目的を実現していく姿がある。
そこには社会悪が無いのだ。
「シン・ゴジラ」をポリティカル・サスペンスと評す言葉も見受けるが、
これはポリティカル・ファンタジーだ。
だが、幼稚なおとぎ話という意味ではない。
「破壊」の現場でも変らない人の業という絶望的な要素を転じて
とてもリアルに「再生」の実現性を感じさせてくれ、強い希望の光を放っている。
原田眞人監督作品にはこのニュアンスが多く描かれているけれど、
「ゴジラ」という作品、庵野監督作品でそれをこれほどまでの力で見せられるとは
予想していなかった。
「神の獣」という漫画がある。http://www.amazon.co.jp/dp/4063193292
巴啓祐という人が92年に描いた怪獣漫画の佳作だ。
僕はゴジラが将来映画化されるのなら、こういうものになるのだろうと思っていた。
「シン・ゴジラ」は違っていた。
映画としての正道に胸を張って歩んで作られていた。
そしてこの作品は怪獣映画の枠を超えて、
日本映画としての風格と魂を持った金字塔になっていた。
黒澤明や岡本喜八といった巨匠の時代に引けをとらない堂々たる映画だ。
僕の観た劇場でも起こったけど、この作品に拍手を。
映画に触れた観客の衝撃が、
これまでの地道な宣伝の浸透と結びついたとき、大ヒットになるのではないかな。
それはもうそこまできていると思う。

「ガルパンはいいぞ」になぞらえて、
「シン・ゴジラはいいぞ」などという言葉を散見するが、
そんな香ばしい借り物の言い回しは相応しくない。
もっと素直に言おう。高らかに屈服しよう。
「シン・ゴジラは凄い」と。

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2016年7月 8日 (金)

偏食の心

僕は「ナウシカ」の後の時代を生きていると思ってた。
思いたかった。
世界を独善で選択された幸福で満たすのではなく、
混沌から生まれる力と命を尊ぼうと語った作品の後の時代を。
「ジブリが好き」なんて誰でも言うようなブランドとイメージを持つような日常になって、
でも自分の「正義」という独善を押し付ける人の多さが目立っているように見える。
作品から何も受け取っていないのかな。
漫画やアニメ、小説など物語が大量消費されるものになったことは
それを仕事にする人にはいささかの利益を生むかもしれないけど、
物語の持つ力や意義を減じさせてしまったのかもしれない。
自分の目線とは違ったものの見方を体感できる。
擬似的な共感の中で、異なる人生の顛末に触れ、理のもつ意味を考える。
例えばそうした幾つかの意義からも
物語は心に開かれた窓である。
だけど、こういう人って増えているのかな。
http://togetter.com/li/988402 (最初の2頁くらいで十分)
以前にもTwitterで、「不愉快避けのタグを貼るのがマナー!」
みたいなモラル主義が跋扈していると聞いて吐き気がした。
ネットもリアルと同じで、
見たいもの見たくないもの、好きな物嫌いな物があって、
それで良いじゃない。
好きなものだけってのは「偏食」って言うのでは。
そんなことやってりゃ心が不健康になるに決まってる。
なのに、「私は傷ついた」って言えば正義なのか?
(もちろん社会的な不公正不公平による迫害は別)
正義は人の数だけあるとは思えないのか?
自分が偏食してる自覚もないのだろうか?
安全な自室に篭って「ネット弁慶」がごとく横柄な言葉を撒き散らす。
ヘッドホンしてスマホいじりながら歩いてる行為。
それらはもう、
心を羊水の中に入れて、自分を甘やかす赤ん坊か胎児の状態だ。
それで本当に社会に出てる気なのか。
ノイズと混沌にまみれて、
その中で「自分である力」があっての生まれ出でた人間でしょう。
そうして目も耳も塞いでいれば、心の不健康だけじゃない、
事故にあって死ぬか、他人を傷つける。
ヘッドホンしてスマホいじってる高校生の自転車にぶつけられて
舌打ちをして不愉快な顔をしているのは、その高校生だったりする。
怪我させた相手を、
自分の気持ちのいい空間を邪魔する存在にしか見えない目がそこにある。
それが偏食の心。
自分に都合のいいものだけに囲まれることを正論に摩り替えるなら、
健康を害すか、事故に合って心も身体も死ぬよ。

守ることに固執するのではなく、
諦めて、新しい理念を得て変わっていくことも勇気ある選択だと僕が知ったのは、
石津嵐版のヤマトのノベライズだった。
ゾンビはゾンビになっちゃったほうが幸せかもしれないし、
「未来世紀ブラジル」や「女優フランシス」のロボトミーは転じれば究極の幸福だった。
2199のコミカライズで、小説版のエンドにはする気はないんだけど、
そのマインドをどこかに活かせないかなと、ずっと考えてる。
世の中「守る」話ばかりでうんざり。破壊と再生が大事。でも、もとの水にあらず。
守るために戦うとか、かけがえのない**を、とか見方を変えれば、
現実を受け入れられない、変れない心の弱さだったりする。見苦しい抵抗かもしれない。
物語はどっちがあってもいい。そこに価値がある。偏りは心と思考の死だ。
闇堕ちだって、立派な勇気と努力と責任の上での選択かもしれない。
めでたしめでたしが人を駄目にするかもしれない。
「進撃の巨人」は塀の中ならめでたしだけど、
現実という巨人がそれを揺るがし選択と判断を乞うメタファーでしょう。
そして巨人の正体もまた変ることの意味を問う。

あびゅうきょ先生のコミックス新刊が青林堂から出るというので調べてみたら、
http://www.amazon.co.jp/dp/4792605598
「ガロ」の出版社は最近はエライ宗旨替えしたのだなぁと驚かされた。91xvjxpbrul
こういう雑誌があるのは珍しいことではない。
ただ昨今の憲法改正論者の元気一杯の主張とか見てると、
何だかSFの世界を生きているような気がするよ!
http://matome.naver.jp/odai/2146647747327851701
なんだろ、このジョージ・オーゥエルの「1984」とか「未来世紀ブラジル」とか
「華氏451」みたいなディストピア感は。
せめて国会議員の方々はもうちょっとまっとうな論議のできる人だと思っていたので唖然。
15年ほど前に、大本教が母体のボランティア団体の周年行事に出席したのだけど、
(「天皇陛下を奉る*****の会」みたいな団体名の長い白髭の老人幹部とかががが…)
その頃の宗教系右翼の御歴々は先の大戦でやっちまったことの「体験」から、
彼らなりに凄く反省に立った上でビジョンを堅実に描いてた。
NHKの参院選のトピックを観ていると、
どの候補も政党も表向き口当たりのいい政策を掲げつつ、
しかし日本の核武装や徴兵制を平気な顔して言える人も増えてきて驚いた。
戦争を知らない小僧たちの怪気炎に、
タカ派と言われた中曽根、野中の自民戦中派が眉をしかめたのも肯ける。

憲法改正論議をTVで観ていて、しばしば用いられる
「現実との乖離を」「国民意識とのすり合わせ」の文言。
果たしてそれが正しいのかな?
憲法は現実準拠ではなく、理念と志を国民が不断に追求するべき目標として掲げるから
価値も意味もあるのでは?
現実主義を装って打算妥協と裏取引にまみれる政治家や組織を、だからこそ戒めていける。
目標を達成する気がない。自分の思惑の邪魔であることを隠して、
その理念を陳腐だと摩り替えて引きずり落とす行為は
下種なことだよ。
企業経営でも数値目標ではない会社の心の意味で、
企業理念・経営指針を言葉にして書き、掲げなさいということが重要視される。
それを蔑ろにした経営者がニュースでフラッシュの中、ハゲ頭をカメラに垂れてさらしている。
国民意識も同じ。
最大公約数は結局は馴れ合いの結果になりかねない。
衆愚政治という言葉もあるように、
必ずしも正しい選択を出来ずに、迷走をし続け、
解答も理念でもなく留保と妥協しか見出せない。
そこに人と社会を高みへ導く光や力はあるのか。
僕は90年代から社会活動に仕事で携わってきて、
人の進歩を感じたのは、自然環境への意識(哲学)が人を導いたことだった。
科学的な筋道への理解とそこから指し示された哲学が、
この25年で人をそこへ向かわせている。
(ゴミの分別や省エネ、緑化など既に僕らの日常だ)
これが企業活動や税収がという現実主義が優先され横行したら適わなかった。
理念に向けて人も組織も進んだから出来た。
絵に描いた餅は、じつはとても大切なんだよ。いつかその餅はちゃんと食べられるんだ。

とはいえ、憲法の論議はどんどんやって結構だと思っている。
僕は法学部出身なので、法律は所詮、人の作った不完全なもの。
法の条文ではなく法理こそが大切と考える人間だ。
(無論、誰が作ったか、あてがったかなんて憤りは下らない自尊心だ)
スピリッツ誌が付録にした憲法の小冊子は素晴らしい。
意味と価値を考える機会は多いほどいい。
憲法は政治家のツールじゃない。僕らのものだからだ。
だけど、僕は今の政権下での改憲論議はいけないと思っている。
理由は、独善に酔い、三権分立も理解しない安倍首相を人間として信用できないから。
アベノミクス(自己陶酔も甚だしい名称を自分で言う気持ち悪さはさておき)の
失敗を嘘で固めて隠すのも政治家として卑怯で不誠実だからだ。
http://blog.monoshirin.com/entry/2016/07/03/201955
さらに今の自民党草案がまるでカルトのような狂信性と幼稚に満ちているから。
(野党時代に作った野党っぽいえげつない内容で品格に欠ける)
それを陰日なたで薦めているのが安倍政権の閣僚の8割が関係する「日本会議」。
http://sirabee.com/2016/07/06/140133/
僕はオウムやISISがごときカルトを相手に政治も憲法も語ってはいけないと考える。
そして何より良くないのが、日本の議会が議会制民主主義の理念を欠いていること。
今の政治は多数決という方法に乗じて数の論理で押し切って、
自分の正義だけを押し付けるシステムに陥っている。
(今の自公政権に限ったことではない)
議論の中で少数意見や多様性を考慮し、己の論を補強するのではなく、
都合の悪い情報や意見は否定して塗りつぶすばかりの党利党略。
そんな小学校の学級会以下の議会では、憲法を論じる資格がない。

今度の選挙は昔の仕事仲間が立候補してるし、
都知事選も近いので色々気になる。
ぼちぼち自分も投票に備えていこうと思う。(原稿描きながら)
http://senkyo.yahoo.co.jp/

FMでかかっていた曲。

旧い歌だけど、女性の声で唄われると原曲の皮肉な雰囲気よりも、
母親の諭す願いのように聞こえてくる。
「人権より国を」と政治家が叫び。
それに大声を張り上げぎすぎすと抗うばかりでなく、
馬鹿で非国民と呼ばれなさいと願う心もあってよい。
他人からなんと呼ばれても、あなたとその命が大切と聞こえてくる。
それは別に戦争だけじゃない。学校でも会社でも。

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