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2018年3月12日 (月)

アニメって悩ましい

年が明けてから何だかずっと忙しくて、日記もなかなか更新が出来ない有様。
忙しい割には収入は乏しく、1月は2202ノベライズ2巻の支払いがあったきりで
(それも11月の仕事だし)
2月も収入は1円もなかった。
確定申告を提出するために仕事にまつわる数字を俯瞰する。
去年の収入の降下っぷりは甚だしいものだが、
その割には仕事はやはりずっと忙しかった。
このアンバランスはなぜだろうと考えてみると、
やっぱり明らかにモニター設定の労働投下量に比してペイが1/3くらいという
異常なパフォーマンスの低さに起因してる。
2199の半分以下の稿料単価で
しかし作業投入量は増えてるから
相対的に採算がより悪化するばかり。
これがアニメの相場なのかなぁ。
モニターデザインって仕事内容に見合わないほど低く見られているのかなぁ。
それとも安く使える人間の扱いなのかなぁ。
自分は漫画家なのでよく判らん。
アシスタントさんにまつわる経費が前の年の1/10にまで縮小してる。
どんだけ仕事が減ってるか分かる。
というかアシさん使ったのは連載の作業が残ってた17年1月までで、
あとは殆ど一人で描いてるからここまで縮小する。
この数年の必要経費の半分以上はアシさんにまつわるものなので、
一人で描くことで出費がないから、
収入が激減しても若干の赤字で済んでる。
ある種の経営の柔軟性なのだけど、
アシさんには深刻なことで、すまない気持ち。
ともあれ収入に見合った身の程を意識する経営と心は大切だ。
マンパワーを投下する生産体制は慣れると心の甘えや弱さを誘引する。
仕事や生活、金銭感覚に外聞や見栄がはびこる。
己の分をわきまえた縮小ができなくなる。
そういう経営者は破綻するリスクを自分の心の内に抱えている。
「身の程」をどう意識するのか、
それによっては虚栄に溺れて己を滅ぼすことになりかねない。
目指すべき自分、なりたい姿を演じることが過ぎれば、
現実との間に深い谷ができて、やがてそれが自分の墓穴になりかねない。
足元を固める、まさにその言葉と逆の行いだ。
自分の立っている場所を見よ。崩れようとはしていまいか。
自ら描いた己の虚像を維持することが励みになろうとも、
限界を超える自覚を持てない者は自滅する。

1月末にあった角川の新年会。
一次会では自分の知る作家さんがだんだん減っていく寂しさを感じ、
二次会ではモンハンとかなんとかのゲームの話題に盛り上がる世代に完全に取り残されて、
キャリアも実績もない僕に話しかけてくれる人もなく、
己のふがいなさを痛感させられる時間であった。
人前に出ると、お前は恥ずべき存在、駄目人間なのだと逃げ場のない現実がある。
誰よりも劣っている自分を忘れるなと迫ってくる。
世の中は甘くなく、現実に目をそむけるなと迫ってくる。
それも「身の程」。
今回は今年の仕事を考えてメディアファクトリーの二次会に参加したものの、
自分の相手をしてくれた才谷屋龍一さん帰ってからも、
色々お話しなきゃ!って無理して挨拶して回ったけれど、
知らないオッサンは無視状態で、
皆はゲームの話とかばかり。
あげく煙草を吸う人も多くて半泣き。
人に割って入るほど孤独になってへとへとに。
自分は自分の話をひけらかしたいのではなく、
(他人が楽しいと思う話題をあまり持ち合わせていないのもいけないけれど)
人の会話を楽しく聞いて、それに少し混じれれば幸せなんだけど、
周囲の人はゲームの話ばっかりで、とことん疎外感。
漫画とか絵の話を全然しない。
オイラ無趣味だから、こういうときほんと何もない。
からっぽの恥ずかしい人間だと思い知らされる。
ネット広告もそうなのだろうけど
Twitterも無慈悲に数字で現実を示してくるものなんだなぁと思う。
仮に数万のフォロワーがいて、
必死に自ら宣伝の狂言廻しをしても、
数十しか反応がなければ、自分の大失敗を突き付けられる。
普段なら見えないものを露わにされる。
自分の何が誤りなのか考えざるをえなくなる。甘えが許されない。
都合のいい解釈をして逃げれば、現実が追い討ちをかけてくる。
時にそれは今の自分を全否定してくる。
腹をくくって堂々と撤退する勇気を問うてくる。
ネットのフォロワーって当然ながら軽く流し見程度で、
自分のファンや支持者、友人という温度をもって接してくれている人ばかりじゃないはず。
だとするとフォロワー数に一定の反応や確度を見出せる量を導き出す算式みたいなもので、
減算をしないといけないのだろう。
仮に3万近いフォロワーがいてもRTが10とかありえる。
自分はTwitterアカウントはないけれど、
今の世はどこでも人は己の現実を突きつけられるようにできてしまっているのかな。
そういえば二次会は、いつもぽつねんとしてしまう僕に話しかけてくれる
優しい柳原 望先生がいらっしゃらなかったんだ。
一次会では久しぶりに色々お話できて嬉しかったけど。
そのままお帰りになっちゃったとのこと。
柳原先生はとても素敵な人なのです。
ついご厚意に甘えてしまうのです。
フラッパー誌の宴席は5年ぶりくらいだったのに、
僕を覚えていただいていて、ありがたく嬉しいばかり。
そういう優しさに甘えることはたまに許して欲しいな。
ともあれ、寝れば凹んだ気持ちは霧散して、朝から平常運転。
僕の思考って子供の頃から基本的にドロドロの欝で、
自己評価、自己肯定、自尊心が低くて、パラメーター的にはぶっちぎりなんだけど、
己が動くことでしか問題は改善しないって現実を意識してるのと、
寝るともやもやは忘れちゃうから、鬱病にならないみたい。
っていうか社長時代の圧倒的に悲惨な経験をしてるので、
大概のストレスはそれよりましだし!

ゲームはまったく分からないしルールも知らない。
将棋すら出来ない。
だけどアニメの「りゅうおうのおしごと!」は感心して観ている。
将棋の駒や盤が、指す場所でその姿かたちの表情を変えてある。
公式戦の駒は漆の字が盛ってあり、木目(杢)も美しい。
場末の棋場では手脂に染まり角が削れ、文字は彫ってある。
(駒の制作者名に白鳥と記されているのは原作者のことだろう)
盤もテクスチャーを変えて雰囲気を出している。
木目の美しいものから、使い込まれて盤面に刷れた傷があるものまで、
そのシーンの背景を雄弁に物語る。
将棋のルールは知らないが、
以前に漫画で将棋の駒について描いたときに色々学んだので、
駒を通じて心のある作り方をしているなと分かる。
まさに陰の主役たる駒に力と心を入れてある。
また、僕がNHKの朝ドラで一番評価をしている作品
「ふたりっ子」へのオマージュもある。
アニメの原作小説を手にとってみたくなった。
それに引きかえ酷いのが「ラーメン大好き小泉さん」だ。
ラーメンは好きだが、ラーメン小泉のラーメンは
絵が下手で美味しそうに見えないからガッカリする。
「甘々と稲妻」もそうだったけど、
グルメ系のアニメで料理や調理が美味しそうに描けていないアニメは、
すでに語る資格がないよ。
ラーメン小泉では、ブラシ処理でエッジやコントラストを曖昧にし、
色や表情を湯気でぼかし、
そして形状の把握をないがしろにしてる。(つまりは素材の理解がいい加減)
美味しそうに料理を表現する全部逆をやっていて、もうどうかしてる。
細密に再現しろというのではない。
絵を簡略化しても普通に絵心があればそれは生き生きと存在感を主張する。
このぞんざいなトロロ昆布の絵にそれがあるか?

Photo
馬糞にしか見えない。
周囲の麺も艶がなく、のびたようなどんより感。
いい加減さとごまかしばかり。
グルメ系アニメで、料理がまともに描けなければ、それはもう失格。
それがこの絵だけで分かる。そういう自覚もないアニメ。
僕は自分で料理もするし、
編集者の時はグルメ記事を担当して取材も撮影もしていたから、
料理を美味しそうに見せることの大変さと大切さは理解しているつもり。
だからこそグルメ系アニメなのにそういう配慮がない絵作り・姿勢
(簡単に言えば主役なのに作監をおいてないいい加減さ)には、辟易する。
このラーメン小泉とほぼ同時期、ネット配信だけれど
「衛宮さんちの今日のごはん」はグルメ系としては素晴らしい出来で好対照だ。
https://abema.tv/video/episode/26-40_s1_p3
地味な動きの部分の動画が凄くしっかりとしたタイミングで描かれているし、
料理も簡潔に省略の緩急がつけてあってスタイルがある。
そして何より料理が美味しそう。
ラーメン小泉さんのラーメンとか「甘々と稲妻」の料理みたいに
リアルに描きたいけど描き手のセンスや技術が伴わない曖昧な表現とは違う。
料理作画班を編成して臨んだシャフトの「幸腹グラフィティ」の絵はコレ。
https://www.plurk.com/p/ko8g3l
新海監督の「言の葉の庭」の料理はコレ。
http://blog.livedoor.jp/kaigainoomaera/archives/50956688.html
上記を見る限り普通に料理を美味しそうに描ける人はいるだろうになぁ。
と不満を募らせながら調べたら、
ラーメン作画監督いたよ!!
番組公式サイトにはなかったけどWikiに書いてあったよ!
ラーメン作監がしかも「甘々と稲妻」の料理作画と同じ人だったよ!!
ちょっと衝撃だった。

なんだかアニメって色々悩ましい。

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